第一楽章 チーズケーキとレモンティー
明日で地球が滅亡するなら、私は最期の晩餐として、チーズケーキとレモンティーを選ぶ。なぜかこの組み合わせが自分の人生にとってかけがえのないメニューなのだと、物心ついた頃から小澤美並は感じている。
「あんた、ほんまに飽きひんな」
向かいの席で渋谷舞はしみじみと、運ばれてきたチーズケーキを見つめた。
「いっつも絶対にこれやんな、美並は。チーズケーキとレモンティー。他にも美味しそうやついっぱいあんのに」
「なんか、これじゃないとあかんねん。まあ、それはおいといて、舞、あんたどうするん」
マドラーでアイスコーヒーをかき混ぜ、舞は深くため息をついた。氷がカランと音を立てる。
「ついて行くの?山下くんに」
〝山下くん〟というのは、商社マンをしている舞の彼氏だ。付き合ってかれこれ五年になり、そろそろ結婚という空気が出てきたとたん、海外に転勤が決まった。舞はプロポーズされたものの、返事は保留したままでいる。
「あたしな、なんか自信がないねんやん……。大阪を離れるだけでもどうしよ~ってなんのに、海外なんかよう住まへんわ。だからといってアイツと離れるのも考えられへんしなぁ。言葉も分からんし、文化も環境も違うとこでやっていけるか不安やねん。でも一緒にはおりたいねん。――美並、決めて」
「そっ、そんなことあたしが決めれるわけないやん!!」
美並の大声に、一瞬店内が静まり返った。すみません、と苦笑いし、周囲に軽くぺこぺこと何度か頭を下げ、前に向き直った。
「アジアやし、ほら、今安く往き来できるんやろ?環境問題とかあるけど……大丈夫ちゃう?多分。こないだ友達の弟が留学して無事に帰って来てたし。それに、中国なんか近いって。好きな人と一緒やったらなんとかなるって!」
できるだけ小声で、早口に美並は話した。舞は、うーん、と項垂れて、考え込む。
「そんなことで悩めてうらやましいわ~。あたしなんか、最近別れたばっかりやで~。いいやん、好きな人についてこいって言われてるんやから、幸せなことやんか~」
チーズケーキを頬張りながら美並は言った。うん、ここの味はなかなか私好みだ、と思う。なんというか、昔ながらの感じがする。素朴で、パンケーキのような味わいで。毎日の朝食にしたいくらいだ。
「そう言ってくれるんやったら、やっぱり、ついて行こかなぁ……」
「それがいいって。今日からでも練習したらいいやん、中国語」
「中国語って一口に言っても、地域で全然違うらしいで」
「ふーん。あたしには全く違いなんかわからへんけどな」
美並のあっけらかんとした言葉を聞き終わると、ははは、と、舞は笑った。
「あんたと話してたら、なんか、今まで色々考えてたんがアホらしなってきたわ。もう一回会って、話して、不安ぶちまけて、腹括る事にする。ありがと」
氷の溶けはじめたアイスコーヒーをぐいっと飲み干し、舞は明るく微笑んでみせた。
店を出て、舞と別れた後しばらく散歩した。梅雨が明けて、最近は青空の広がるいい天気が続いている。といっても東大阪は、なんとなくいつも空がねずみ色っぽい。田舎とか、こういう日には空が真っ青で綺麗なんだろうなと思う。中国は、どんな空の色をしているんだろうなと美並は遠く外国の地を想像した。
もうそろそろ、向日葵が咲き始める頃だ。チーズケーキとレモンティーと、もうひとつ、美並にとって大切なもの、それは向日葵の花。心の片隅に、なぜか引っ掛かっているような、そんな存在で別に、特に思い入れが生まれるような出来事があったわけでもない。ただ、なくてはならないような気がしている。
さっきの店は、四十年前ぐらいに建てられた民家をリフォームしてあり、中はモダンでいて懐かしい感じがするとても雰囲気の良いカフェだった。舞が知り合いの店だから、と紹介してくれて、初めて入った。ロシア語らしき店名で、字が読めなくて、まあいいかと聞きもせずに帰って来てしまった。妙にあのチーズケーキが気になるから、また行こうと思う。だいたい場所も覚えてるし、分からなくなったら、舞に訊けばいい。
二十分ほど思いついた道を歩き続けた。家からは少し離れた土地なので、あまり詳しく知らない。新しい住宅街の合間に、スローフードのレストランがあったり、どこにでもあるような公園があったり、最近できたようなマッサージ店があったり、こじんまりしたたこ焼き屋があったり。この辺では、さほど珍しい景色ではない。それでも、なんとなく、一駅分ぐらいは歩いた。歩きながら、その半分の時間ぐらい、美並は同じ事を考えていた。
『美並、俺に一回も、ほんまの自分を見せてくれへんかったな』
つい最近別れた、彼氏に言われた最後の言葉だ。
(ほんまの自分って言われても……。あたしは、別に仮面かぶってたつもりもないし、普通にしてたつもりやねんけどなぁ)
これが初めてじゃない。男の人と付き合う度に、同じ理由でダメになる。その時は好きになるし、充分幸せを感じているのに、なぜか相手が距離を感じて、だんだん心が離れてしまう。
考えても考えても心がもやもやするばかりで、失恋したことより、自分が変なものにとり憑かれているようで気が滅入ってきた。
小さな公園が目に留まったので、少し休むことにした。自販機でお茶を買い、木のベンチに腰掛けた。花壇には、沢山の向日葵が植えられていて、真夏に向けて開花し始めている。こんな所があったんだなぁと、嬉しくなった。カチッとペットボトルの蓋を空けてグビッと飲み込む。かなり喉が渇いていたようで、スッと体に染み込んでいくのがわかった。
(ちょっとだけ……舞がうらやましいわ)
二十八年間生きて来たけれど、自分のことをそこまで必要としてくれる男の人になんて、出会ったことがない。そして自分自身も、誰かをそこまで必要としたこともないかもしれない。よく言えばあっさりしてる、とか、執着しない性格だと言われるけれど、情熱的に愛するとか、メラメラ燃える嫉妬心とかよく分からないし、きっとこの先も思い切り誰かを愛したりできない気がする。
無意識に飲み続けて、ペットボトルが空になっていた。ゴミ箱を探して立ち上がり、花壇の廻りを歩いていると、向こう側に、男の人が見えてきた。絵を描いているように見える。なぜかこれ以上近付いてはいけないような気がして、美並はその場に立ち竦んだ。茶色い髪が、太陽に照らされてキラキラして見える。風が吹いて、画用紙がめくれてしまった。それをなんとかしようとする男の人と一瞬目が合った。何だか突然胸が高鳴り苦しくなってきて、急いで踵を返し、美並はその場を立ち去った。