炎の中で
猛火に抱かれている大きな屋敷を、俺は魂が抜けたように眺めていた。
燃えている。
燃えている。
耳をつんざくような炎が爆ぜる音にも、辺りにもうもうと立ち込めている黒煙にも意識を向けることすらせず、俺は燃え盛る炎に飲み込まれつつある屋敷を見つめ続ける。
あぁ、燃えている。
炎はすでに屋敷の四分の三ほどを飲み込んでおり、かろうじてその外観を晒しているのは、最上階の一部分のみだった。中がどの程度炎に浸食されているかここからではわからないが、少なくとも屋敷の中から外に脱出することはもはや不可能だろう。
そんなことをぼんやりと考えながら、朽ちていく屋敷を眺め続ける。
燃えている。
俺の、家が。
けれど俺は、少しも驚いていなかった。愕然とすることも、恐怖に慄くこともなかった。
当然だ。
だってあれは。
俺がつけた、火なのだから。
一度屋敷から視線を外し、辺りに意識を這わせる。
背後には、けたたましく燃える屋敷とは対照的な、静まり返った森がどこまでも広がっている。物音一つしない、ほんの少しの灯さえ見当たらない、静寂を極めた空間。
かつてあの人が言っていた。ここはあの人の生きる意味で、誇りで、命と同じくらい大切な場所なんだと。
「いいところだろう? ここでは、人が言い争う声や耳障りな機械音も聞こえてこなければ、わずらわしい人間関係に巻き込まれることも、時間に追われることもない。醜い社会に目を向けなくて済むんだ。この自然の中で、思うように生きることが出来る。まぁ、屋敷は随分洒落たものになってしまったけど、それはまた話が別だよな、はは」
そんな声を耳の奥に響かせながら、俺は視線を屋敷に戻した。
あの人は今頃何を考えているのだろう。崇拝にも似た感情を持っていた大自然に囲まれて、誇りに思っていた屋敷の中で、今まさに最期を迎えようとしているあの人は。
穏やかそうな老夫婦。
それが、あの人と奥さんに抱いた第一印象だった。
幼いころに両親を殺された俺は、それから間もなくして父親の親戚に引き取られた。
孤児など吐いて捨てるほどいて、路上でその短い生涯を終える者などありふれているこの時代に、すぐに引き取り手が見つかった俺は本当に幸福だと思った。
でもそれは、大きな思い違いだった。
引き取られて間もなくして、俺は得体の知れない団体に売り渡された。自身に何が起きたのか理解できないままに、気づけば真っ白な部屋に閉じ込められ、見たこともない機具を体に取り付けられ、毎日毎日、検査と称された実験の材料になっていた。
地獄だった。
痛くて苦しくて、自尊心なんて概念があったことすら忘れるくらいに己を踏みにじられて、自分が人間であることすらわからなくなってしまって。
壊れることに恐怖した俺は、そこから逃げ出した。何時とかどうやってとか、そういうのは全く記憶にない。夢中だった。
神の悪戯か、それとも俺の逃げ方が余程巧妙だったのか、俺は辛くも脱出することに成功した。自由を、手に入れられたのだ。
けれど、地獄は終わらなかった。
その後どこへ行っても、誰を信用しても、どの組織に身を置いても、俺は裏切られ続けた。慈善団体、裏世界の組織、民間人、同じ孤児の仲間、誰もが俺を裏切った。痛めつけられ、売り飛ばされ、狂った性癖を押し付けられ、殺されかけた。
そんな日々の中で、俺は何とか生きながらえつつも、人としての心を失っていた。
人を信じることが出来なくなっていた。
どんな状況においても、あらゆる可能性を模索し、その中で最悪のものを想定しながら生きる。相手がどれだけ優しさを見せても、柔和な笑みをこちらに向けても、俺は人を疑い続けて生きてきた。
そんな時だ、あの人と出会ったのは。
あの人とあの人の家族は、路上で死にかけていた俺を拾い、温かく迎え入れてくれた。勿論俺は信頼するはずもなく、目処がついたら音もなく消えるつもりだった。
だけど、俺はそうしなかった。出来なかった。
あの屋敷での生活が夢みたいに幸せだったから。警戒し、ひたすら距離をとり続けていた俺をあの人は諦めることなく、ゆっくり時間をかけて、優しく、優しく包み込んでくれた。
人間という存在を憎悪し、嫌悪し続けていた俺の心は、あの家族によって少しずつ解かされていった。生きることが少しずつ楽しくなっていって、笑顔なんてものを浮かべることだって出来た。この人たちなら、俺はそう思った。
「父さん」
あの人のことをそう呼んだ時の、あの人が浮かべた笑みは、今でも瞼に焼き付いている。
その時胸の奥に広がった温かな気持ちを、俺は宝物のように大切にしていた。
それなのに。
俺を裏切り続けたこの世界は、どこまで行ってもこの世界だった。
俺はまた、裏切られた。
他でもない、俺自身によって。
疑うという行為は、俺の知らない内に、俺という存在そのものになっていたらしい。
幸福を手に入れた俺は、次にその幸福を失うことを恐れるようになった。もし今の穏やかな日々が壊れてしまったらどうしよう、と。
そうなってからは、もう止められなかった。
あの人やあの人の家族の言葉、行動、全てが疑わしく見えた。何をしていても、どんな言葉を贈られても、その言動の裏を探るようになった。あるはずもない、その裏を。
ひとつの疑念は更なる疑念を呼び、そしてその疑念はどんどん膨らんでいき、いつしか俺は、その疑念が真実だと思うようになっていた。
そしてその結末が、目の前の光景だ。あの人たちが俺を裏切る前に、俺自身の手で、あの人を、あの人が大切にしてきたものと一緒に始末した。
俺は結局、人を信じることが出来なかった。
俺は、どうしたら。
どうしたら、よかったんだ。
目の前の屋敷は煌々と燃えているのに、俺の視界はどこまでも闇に飲み込まれていた。
どうしたら、どうしたら――。
「少年、私を呼んだのは君かい?」
突如鼓膜を打ったその声に、俺の思考は吹き飛んだ。反射的に音のした方向と逆方向に飛び退き、先ほどまで俺がいた場所に視線を向ける。
そこには、黒いコートに身を包んだ長身の男が立っていた。木々の陰になって、顔はよく見えない。
「お前、誰だ?」
「んん? 誰だとはご挨拶ですね、私は貴方を救いに来たヒーローだというのに」
「ヒーロー?」
意味が分からない。突然現れて、意味不明な言葉を並べて、こいつは一体何者なんだろう? この異常事態を察知した山賊か何かだろうか。
「あぁ、何も言わなくていい、何も考えなくていい。私が始まりから終わりまで、滞りなく救ってあげますから。えぇと、ふむふむ、あー、なるほど、そういうことか。人間というのは、難儀なものですねぇ」
瞬間、闇に解けるように男の姿が消えた。そしてその情報を脳が受け取ったと同時に、無機質な声が耳を撫でた。
「君の願い、叶えてあげよう」
弾かれるように振り向くと、先ほどの男が背後に立っていた。俺は瞬時に距離をとろうとするが、何故か体がぴくりとも動かない。たまらず、声を漏らす。
「な、何をした」
「暴れられても面倒なのでね、少しばかり動きを止めさせてもらったよ。と言っても怖がらなくていい。私は君に危害を加えるつもりはない、願いを叶えてあげるだけです」
「願いだって?」
そんなもの、もうない。
いつの間にか完全に炎に飲まれ、少しずつ倒壊していっている屋敷を視界に映す。
俺の幸せはもう、消えてしまった。俺が、跡形もなく燃やしてしまったのだ。
もう願うことなんてない、欲しいものなんて、望むことなんてあるはずがない。
あるのは自分自身に対する、絶望だけ。
あんなに優しくしてくれたあの人たちを、父さんを、俺の家族を。疑念に取り込まれて殺してしまった、自分に対する絶望だけ。
俺の幸せは、もう戻ってこない。
「うん、いいよ」
黒コートの男は、俺に向かって伸ばしていた両腕をゆっくり下ろすと、そう呟いた。
煌々と燃える炎が一瞬照らしたその顔に浮かんでいたのは、眩しいくらいの笑みだった。
「君は、信じることしか出来なくなった」