不眠症の眠り姫
思いついてカッとなって書きました。短くて申し訳ありません。
だんだんと日が落ちてくると、彼女はどこか怯えたようになる。晩餐を済ませ、湯浴みをし、侍女に寝台に押し込まれる頃には、誰が見ても青い顔をして、震えながら縮こまる。それは、晩餐後も政務が残り、執務室にとんぼ返りする彼の耳にも、もちろん届けられる。侍女からそんな報告を受けるたび、彼はその秀麗な眉を寄せて、少しでも早く政務が終わるよう、机に向かって励むのだった。
夜も更け、忙しく立ち回る下女や下男も宿舎へ戻った頃、彼はようやく政務を追えて、己の寝室へと足を急がせた。否、今やあの部屋は彼のものだけではない。急く心を落ち着かせながら扉を開けば、寝室のもう一人の住人である彼女が、今日も震えながら寝台にうずくまっていた。
「ああ……ごめんね、今日もこんな時間になってしまった」
「いいえ……」
顔を曇らせた彼が詫びると、彼女は震えた声で一言だけ返事をした。そして、またすぐ黙ってしまう。かわいそうに、彼は唇を噛む。彼女は毎晩こうだ。彼よりも数刻早く寝台に入るはずなのに、こんな真夜中までまんじりともせずに震えているのだ。何人もの医師に診察させたけれども、未だに彼女の心の傷を癒すものは現れない。夜毎、彼女は恐怖と戦わなくてはならない。
「僕ももう寝台に入るよ。ほら、おいで」
二人で横になっても十分有り余る広い寝台で、けれど彼は彼女を呼び寄せ、しっかりと抱きしめた。彼がその腕で包み込んでも、彼女の震えはおさまらない。彼は、回した手で背をポンポンと叩き、安心させるように囁いた。
「おやすみ、僕の可愛い人。大丈夫、ゆっくりやすめば明日は綺麗な朝日が見られるよ」
「朝日……見られるの、かしら……」
「もちろんだよ。きみは明日の朝もちゃんと目が覚めるさ」
「そうだと……いいのだけれど……」
彼の腕の中で、彼女はいつまでも震え続ける。それは、疲れに耐えきれず、とうとう意識が落ちるまで続くのだ。なぜならば、彼女が怯えているのは、眠ることそのものなのだから。
今や、王子である彼の妃の座に納まり、王子妃として日々政務に励む彼女は、つい最近まで、いばらに守られた城の奥で、百年の眠りについていた。いばらの奥で眠り続ける美女の噂を、彼が本気にして城に乗り込んだりしなければ、彼女は今も眠り続けていたかもしれない。彼女の両親から話を聞いてみれば、原因は彼女の生誕祭でかけられた呪いらしいのだけれど、もちろん本人がそんなことをわかっているわけがない。彼女にとっては、十六歳という、これから輝いていくその歳に突然眠りに落ち、百年も目覚めることができなかったということだけが真実だ。
百年。それはとても長い時間だ。少しずつ人の寿命は延びているけれど、百年という歳月には太刀打ちできない。呪いで城の住人全員が眠りに落ちていなければ、彼女は、目覚めた時には、両親も顔見知りの城仕えもいない、孤独な世界にひとり放り出されていたはずだった。幸運なことに、その最悪の事態は避けられたわけだけれども、目が覚めたら世界の勢力図が変わっていて、各国の王族の顔見知りは一人としていなくなっていたのは歴然とした事実。話を聞けば、己は百年眠り続けていたという。このことは、どれだけ彼女に衝撃を与えただろう。
その事実を知ってから、彼女は眠ることができなくなった。また、長い眠りについてしまったらどうしよう。今度は、眠るのは自分ひとりかもしれない。ひとりぼっちで取り残されたらどうしよう。寝台でそう泣きじゃくる彼女をなだめたのが、夫となった彼であった。泣く彼女を慰め、なだめ続けるうちに、泣きつかれた彼女が眠りに落ちたのだった。当然、彼女は翌朝目をさました。それ以来、彼は夜の政務を可能な限り早く切り上げ、彼女の待つ寝室へ駆けつけるようにしていた。
「ほら、目を閉じて。大丈夫、僕がそばにいるよ」
「ええ……」
彼の言葉に、彼女は大人しく目を閉じるけれど、視界を暗闇が支配したとたん、その細い身体はこわばった。彼はあやすように、背中をさすりながら囁く。
「大丈夫。僕はきみをひとりにしたりしない。きみが眠りに落ちれば、きみが目覚めるまでずっと待っているよ」
彼女のためならば、百年だってこわくない。きっと、その麗しい瞳に己が映るまで、彼は永遠に待ち続けるだろう。
「それに」
彼は、一つ言葉を切って、おどけたように笑みを漏らした。
「もしもきみが目覚めなくなったら、僕が何度でも起こしてあげよう。きみが目覚めるまで、何回でもキスしよう」
だって彼は、彼女を起こすことができる人なのだから。再び眠りに落ちたら、今度は百年と言わず、すぐにでもキスするだろう。言葉の通り、彼女が起きるまで、何度も、何度も。
おどけた彼の台詞に、彼女はようやく顔のこわばりを解いた。そのまま背をさすってやれば、少しずつ漏れ始める寝息。彼女が眠りについたことを確認して、彼も目を閉じる。
大丈夫だよ、愛する眠り姫。きみが起こしてほしいというなら、僕はなんだってやってあげるから。だから安心しておやすみ。
彼の心の呟きは、ゆるゆるとまどろみに溶けて、夜空へ消えていった。
百年眠り続けるって、わたしはこわいです。