風の音色
「満瑠」
どこからか、声が聞こえる。
「満瑠…ごめん」
一体この声の主は何を謝っているのだろう?
「…ごめん」
聞いたことのない声だった。その声は、ただ謝りながらだんだんと小さくなっていった。何故だか、とても切なくなった。
その姿はどこにもなく、私はポツンとその場所に取り残されているようだった。
ふと、目を開けると、そこは私の部屋だった。
新しいこの部屋には、引っ越して来た時に外から見えた格子窓が存在し、そこから日の光が差し込んでいた。カーテンはないが、それほど眩しさは感じられない。床に格子の影が描かれているのを見た。
私は眠っていた。どうやら夢を見ていたらしい。それにしても、あんな夢を見るのは生まれて初めての事だった。 私の名前を呼ぶ声は、もう既に記憶が曖昧だった。聞いたことのない声だったせいか、はっきりとどんな声だったかは思い出せない。ただ、1つだけはっきりしていたのは、その声の主が男性だということだけだ。私には男性の知り合いなどいない。たまたま夢に出てきただけだろうか。私はなんだかモヤモヤしている気持ちを胸に抱いたまま、学校へ行く用意を済ませた。
新しく私が通っている中学校は、私の家から歩いて一時間ほど南に下って行った場所にあった。その中学校は高台で、下には大きな町が存在していた。どうやら、父の転勤先はこの町の中らしかった。この中学校は、町の全ての小学校から児童がエレベーター式に入学してくるようで、生徒の人数も私が前に通っていた中学校よりも多かった。
部活動なども豊富で、大会で良い成績を残している所ばかりだった。
「南条さんも、自分が入部したい部活を決めてね、一度入部したら卒業まで退部できないから、慎重にね」
担任の先生は、そう言い残し私に部活動の一覧表をくれた。この学校の生徒は、全員が何かしら部活に入部していないといけない決まりらしい。帰宅部など存在しないと言うことだ。
私は前の中学校ではテニス部に所属していた。と言っても、仮入部の期間が多かったため、ラケットを握る機会は少なかった。それは美奈からの誘いがあったからだった。元々、運動が苦手だった私は、少し無理をしているところもあった。初めてできた友達の美奈の誘いだからこそ、入部できたのかもしれない。
テニス部に入部したのは、美奈の誘いがあったからだけではない。前の中学校は、好きな時に部活を変えても良かったのだ。直ぐに辞められるとゆう安心感もあった為、私はテニス部に入ることを決めた。
しかし、この学校はそうはいかない。一度入部したら、もう辞められないとゆう緊張感が脳裏をよぎった。私は文化部の内の何かに入ろうと決めた。運動の苦手な自分が運動部に入ったところで、卒業までやっていける自信がなかった。
文化部は、吹奏楽部、工芸部 、コーラス部、美術部、演劇部があった。
私が気になったのは、コーラス部だった。コーラスの経験は無かったが、なにより歌うことが好きだったからだ。小学校に通っていた時から、音楽の時間が楽しみで仕方がなかった。ピアニカやリコーダーなどを演奏するのも楽しかったが、自分の声が音楽になることが一番楽しかった。私にもあるように、人は誰でも、気に入っている曲が必ずあるだろう。そんな曲を歌っている時間が大好きだった。 自分の周りが一瞬、輝いて見えた。温かい気持ちで胸がいっぱいだった。
その日の放課後、私は1人でコーラス部の部室へと向かった。コーラス部に入ろうと、心はもう決めていた。第一音楽室と第二音楽室があり、コーラス部の部室は第二音楽室の方らしかった。
「失礼します」
私は第二音楽室の扉を開けた。カラカラと音がして、中には先生と生徒の二人が話をしていた。私が音楽室の扉を開けたため、二人の視線は私に集中した。髪を一つにまとめている女性の先生が、このコーラス部の顧問のようだった。一緒に話をしているのは、背が高い男子生徒だった。
「何かご用でしょうか?」
その男子生徒は、私を見ながら不思議そうに訪ねて来た。
「あの、転校して来たばかりなので、まだ部活に入部してなくて…コーラス部に入りたいと思うんですが」
これが、初対面の人に対しての内気な私の精一杯の言葉だった。その声は弱々しく、ちゃんと聞こえていたかも定かではなかった。
「入部してくれるの?」
先生が私に確認してきた。どうやら、辛うじて聞こえていたらしい。
私はコクンと頷き、お願いしますと頭を下げた。
「よろしく。僕は、部長の新藤正です。じゃあ、ここにクラスと名前書いて」
部長が差し出したのは、入部届だった。私は言われるがまま、その紙に名前を書いた。すぐに、コーラス部に入部したことで二人の会話の中に混ざることができた。どうやら、今日は顧問の池内先生と部長との打ち合わせのみで、練習はしないようだった。
打ち合わせの内容は、秋に行われるコーラス部の大会に向けての課題曲を決める事だった。二人の間には机があり、その上に幾つもの資料と楽譜が散乱してあった。私も始めのうちは一緒に混ざって話を聞いていたが、今日は練習がなかった為、また後日に来るようにと言われ、私は二人よりも先に第二音楽室を後にした。
それからすぐに帰宅した私は、まだ時間も早く外も明るかったため、近所を散歩してみることにした。
引っ越しをしてから、まだ家の周りのことは何もわからなかった。中学校までの道のりは、家から一本道だった為、その道以外は見たこともなかった。
家を出て、学校へ下る道へは曲がらずに、真っ直ぐ伸びた道をただひたすら歩いて行った。周りには木々や無数の草花が私の足元を鮮やかに彩っていた。この時期には珍しくないオオイヌノフグリの花弁も、洗練された青で私を歓迎してくれているようだった。私はこの花が大好きだった。前に住んでいた街でも、この花は所々で咲いていた。小さいながらも一生懸命に咲くその花は、私に強い勇気と元気をくれた。植物とゆうのは、なんて生命力のある物なのだろう。
歩を進める度、同じ物でも彩りや風景が変わっていくのを私は楽しんでいた。 なんて気持ちの良い空気なのだろう。自然の中で静かに吹いている風は、当然、車の排気で薄汚れてなどいなかった。 身体全体にそれを受け止めながら、ゆっくりゆっくり歩いて行った。小鳥たちの囀りが耳を擽っていた。
ふと、立ち止まった。
私の耳は、どこからか微かに聞こえてくる音をしっかりと捕らえて逃さなかった。小鳥の囀りとは違う、波長の合った和音は、聞いていてとても心地の良いものだった。
「ピアノ?」
その音の主は、間違いなくピアノだった。別荘地のこの辺りなら、ピアノの教室をしていてもおかしくないのかもしれない。 それでも、私はその音色に心を奪われていた。聞いたことのないその曲は、風のように緑の間をすり抜けて自然の一部になっているようだった。
自分でも気付かない内に、私の足はその音のする方へと向いていた。何故だかとても、その音色に引き寄せられてならなかった。こんなに素敵な曲を弾いているのは、一体どんな人なのだろう?私は見てみたくなった。歩を進める度に、その音は大きくなっていく。 その内、細かった道が開ける場所まで来ていた。木々のトンネルを抜け、新しい土地に足を踏み入れた私の目の前には、木々に囲まれた一件の家があった。確かに、ピアノの音色はそこからしているのがよくわかった。その家は、別荘地と言えるこの場所にとって、なくてはならないような存在感を放ち、普通の民家とは違ったレトロな雰囲気を醸し出していた。ログハウスのようなその佇まいは、私にとっては非常に珍しく感動的だった。いつも雑誌やテレビでしか見たことがなかったからだ。本当にこんな家が存在するのか、疑問に思った事もあった。世界中には、ログハウスよりももっと珍しい私の知らない家々がまだ沢山ある。これほど私を感動的にさせた家が、他にあっただろうか。まだ人生経験の少ない私には
、別荘地にいるだけでも初めての経験で、喜ばしいことだった。
ピアノの音は、確かにこの家から聞こえてくる。
まだ、中学に上がったばかりで探求心の強い私は、この曲を弾いているのがどんな人なのか見たくなった。よくテレビなんかで、豪邸に住む綺麗な女の人がピアノを弾いていたりするシーンを見ていたりした。そんな人がいるのだと、内心ワクワクしていた。
どうやら、その家の裏側から音がするらしい。
私は思い切って、音のする方へと歩を進めた。家の角を曲がり、裏側に出る。 すると、一部屋の窓が中央から両側へ開いているのが見えた。白いレースのカーテンが、風に靡いて窓の中から飛び出し、ピアノの音色と共に踊っているようだった。私は恐る恐る、その窓の中を覗き込んだ。
言葉など出なかった。
真っ白なグランドピアノが優しい音色を奏でていた。そのピアノを、一人の青年が弾いていた。
その青年は座っている姿を見ても、とても背が高かった。ストレートなショートヘアーが、その横顔によく似合っていた。
切なくなった。
その青年の横顔が、とても寂しそうだった。目を伏せ、何かを考え込んでいるようだった。
(とても綺麗な曲なのに、弾いている人は…とても寂しそう)
私は心の中で、そんなことを考えていた。
それでも、その青年の弾くピアノの音色に聞きほれていた私は、その場から離れることができずにいた。
突然、ピアノが止まった。ピアノを弾いていた青年が、私に気付きこっちを見ている。
「あっあの…」
戸惑った私は、必死で何かを言おうとしたが、なかなか言葉が出ずに困惑していた。
青年の私を見る顔はなんだかとても驚いていた。無理もないだろう、急に窓から知らない女の子が現れたのだから。突然、青年はニコッと笑った。
「君、名前は?」
「え…み、満瑠です」
私はとっさに、自分の名前を名乗った。青年はゆっくりと立ち上がり、私の方に近づいてきた。そして、笑顔で言った。
「僕は、隆二」
隆二と名乗った青年が、よろしくと私に手を差し出す。私は戸惑う気持ちを抑えながら、その手を握っていた。
「よ、よろしく」
不思議な気持ちになった。隆二の顔から、大きな安心感が得られた。優しい眼差しが、私の心を見透かすようだった。初めの驚いた顔以外は、笑顔を絶やさないでいた。なんて優しそうな人なのだろう、私はそう思ってならなかった。
それが、私と隆二さんとの出会いだった。