クズの遺伝子が強すぎる!なお努力で改善は可能です
騎士団の鍛錬場は、毎日誰かしら見物客で賑わってはいるが、今日はいつもの比ではない。
何せ、二大公爵家の一つハワード公爵家の嫡男アーサーと、その従兄弟で美丈夫の呼び名も高いロックウェル侯爵家の次男ヘンリーが、揃って姿を見せ模擬試合をしているからだ。
観覧席には溢れんばかりのご令嬢たち。
熱烈に婚約者を求めている一部に至っては、席を立ち鍛錬場の目の前を陣取っている。
(まるで狩ね……)
その様子をアデライン・ハワード公爵令嬢は観覧席の一番後ろから冷めた目で見つめていた。
来るんじゃなかったと、アデラインは小さく息を吐く。
その様子に、気を利かせた侍女が日傘の位置を調整する。
「……ありがとう」
日差しが不愉快だとか、そういう意味ではなかったのだけどと、出かかった言葉は呑み込んで、アデラインは優雅に微笑んだ。
侍女にあたっても仕方がない。
あたるなら、相手はこの場にアデラインを強引に連れ出した、兄一択だ。
そんな不毛なことを考えていると、観覧席に割れんばかりの歓声が上がる。
どうやら兄とヘンリーに勝負がついたらしい。
見ていなかったので、わからないが。
「……どっちが勝ったのかしら?」
勝者に興味もないが、この後労いの言葉をかけなければならない。
さすがに見ていませんでしたは、失礼というものだろう。
しかし頼みの侍女も、決定的な瞬間は試合よりも日傘の調整に集中していた。
どうしたものかとアデラインが思案していると、背後から噛み殺した笑い声が聞こえて来る。
「くっ……あ、失礼」
振り返ると、観覧席の通路に一人の少年が立っていた。
目が隠れてしまう程長い銀の前髪で顔はよくわからなかったが、小柄なせいかアデラインより少し歳下に見える。
「勝ったのはロックウェル侯爵令息ですよ」
笑った詫びのつもりか、少年はそう言うと、呼び止める間もなくその場をすぐに去って行った。
「どなたか知ってる?」
尋ねても、侍女も知らないと首を振るばかりだ。
多少の気味悪さは残るものの、知りたい情報は手に入った。
アデラインは重い腰を上げると、鍛錬場へと歩き出した。
「アデラインは妹みたいなものだから」
鍛錬場の側まで行くと、まず耳に入ってきたのがこれである。
ヘンリー・ロックウェル侯爵令息は、今日もいつも通り、舌好調の様だ。
取り囲むご令嬢方に、輝くばかりの笑顔を振り撒きながら嘯く従兄弟の姿を、アデラインは何の感情も湧かない目で見つめていた。
(面倒ね……帰ろうかしら)
群がる女たちを押し除けてまで、声をかける義理もない。
今この場にアデラインが登場すれば、嫌でも周囲の注目を集めることになる。
考えただけで気が重い。
「アデライン!」
アデラインが踵を返そうとした瞬間、ヘンリーの後ろから歩いて来た兄が目ざとくアデラインを見つけ、よく通る声でその名を呼んだ。
(あーあ……)
内心とは裏腹にアデラインは微笑み、兄に小さく手を振って応える。
兄妹の遣り取りに気づいたヘンリーもご令嬢方を振り切って、兄と並んでアデラインの元へとやって来た。
「アデライン!見てくれたかい?」
ヘンリーの弾んだ問いに、アデラインは自然な笑顔を作って向ける。
「はい。お見事でした」
「今日は少し危なかったけどな」
「余裕だったろう」
「だから少しだって」
アデラインの賞賛に気をよくしたのか、ヘンリーはそのまま兄と小突きあっている。
おそらく今日もこのまま公爵邸へと一緒に来るつもりだろう。
この後のことを考えると、アデラインは少し憂鬱になった。
◇
公爵邸へ帰ると、父が待ち構えていた。
ハワード女公爵配。
アデラインとアーサーの父であり、ヘンリーの叔父である。
「やあやあ!今日も大活躍だったそうじゃないか!」
従者からの報告で、父は既に今日の模擬試合の結果を把握済みだった。
満面の笑みで兄とヘンリーを迎え入れている。
このまま三人で、いつも通り盛り上がるに違いない。
アデラインは理由をつけて自室に引きこもろうと、そっと侍女に目配せをした。
「まぁ大変!」
応接室へと向かう三人の背に向かって、アデラインは大袈裟に声を上げる。
「どうした?アデル」
振り返って愛称で呼んだのは父だ。
「お母様がお呼びですって……何か大切なお話だそうですの……」
しおらしくそう言えば、父は一瞬気まずそうに視線を彷徨わせた後、落ち着かない様子で言った。
「そ、そうか。それはすぐに行きなさい。こちらのことは気にしなくて良いから」
「はいお父様。わたくしはこれで失礼いたします……」
さも名残惜しそうにそう言うと、アデラインは三人に向かって優雅にカーテシーを執りその場を後にした。
「お嬢様……どうなさいますか?」
三人が完全に見えなくなると、忠実な侍女はアデラインに尋ねてきた。
「そうね……今日は行こうかしら。お母様のご機嫌伺いに」
「かしこまりました」
当主の執務室の前に立つと、自然と背筋が伸びる。
アデラインは扉が開かれると、模範的な所作で中へと足を踏み入れた。
「またあちらの方が来ているのね」
質問ですらない断定。
執務机に向かったまま、女公爵である母は、ちらりとアデラインに視線を寄越す。
「はい。ロックウェル侯爵令息がいらしてます」
「次男でしょう」
「はい」
「また騎士の真似事をしてるアーサーをやり込めて、喜んでいるのかしら」
「……はい」
空気が凍る。
「貴女の父上は相変わらずね」
「……その様です」
母が大きく息を吐く。
「下がりなさい」
「はい。失礼いたします」
母の執務室を出ると、アデラインは重い足取りで自室へと戻った。
◇
母は、本来なら公爵家を継ぐはずではなかった。
母にはハワード家の嫡男である兄がいたのだが、子を成す前に急死してしまった。
そのため、隣国の公爵家への輿入れが決まっていた母が婚約を解消し、急遽後を継ぐことになったのだ。
取り急ぎ問題になったのが、新たな婚約者の選定だ。
めぼしい高位貴族は、早くから婚約者が決まっている。
しかし女公爵の相手ともなれば、優秀だからといって下位貴族から婿を取るのも憚られた。
多少の瑕疵は目をつぶり、家格に見合った家の次男、三男から選ぶのが現実的だ。
そうして選ばれたのが、当時のロックウェル侯爵の次男だった父ジェームズである。
ロックウェル侯爵家は美貌の家系である。
金の髪に青い瞳。美しい容姿は男女問わず魅了する。そんな一族は嫁入りも婿入りも引く手数多であった。
けれどジェームズは、適齢期を過ぎても婚約者がいなかった。
有能でない代わりに、特別無能でもない。
多少軽薄なところはあれど、分け隔てない性格で多くの人間に好かれていた。
そう、好かれ過ぎていたのだ。
ジェームズは、移り気な男だった。
寄せられる好意を受け入れはしても、誰か一人に決める素振りはなく、去る者は追わず。
その時、その場で、心を寄せる相手がいつも違う。
一言で言えば、容姿が極上の下の緩いただの女好きであった。
そんな男を婿に迎えたのである。
母の心労は計り知れない。
公爵家の財産に指一本触れさせないのは当然として、問題は女性関係であった。
一つ、後継を含め二人は子を成すこと。
一つ、公爵家の名に傷をつけないこと。
最低限これらを守れば好きに遊んで構わないと、母は完全に割り切ったのだ。
父は素直に言いつけを守った。
母がアデラインを身籠るまでは、自らの立場をわきまえて、女遊びは控えていた。
けれどアデラインが十歳になる頃、夜会で父をめぐる貴婦人の争いが起きた。
一人の伯爵夫人の名はアデラータ。
もう一人の子爵夫人の名はアデリーナ。
そう、父は当時アデラインとよく似た名前の女性とばかり関係を持っていたのである。
何故か。
それはアデラインの名こそ、母に似ていたからに他ならない。
母の名はアデライード。
『アデル』と、妻と娘がいずれも同じ愛称なら、間違って呼んでも、手紙をしたためても、すぐに隠せるからという理由だった。
母を愛称で呼んだことなど、一度もないくせに。
結局、クズはどこまでいってもクズのままなのである。
しかし母が取り乱すことは無かった。
淡々と後始末をし、醜聞を消し、自らの視界から父も消した。
これに焦ったのは父である。
子どもたちが成人するまでは、母が大きな決断をするとは考え難かった。
けれど、その後は?
どれだけ女遊びをしようとも、子らの父であるという一点だけで、約束されていた未来。
だが、それはあくまでも『公爵家の名に傷をつけない』ことが前提である。
複数の既婚者との醜聞は、一夫一妻とする国教の教えにも反していた。
それを衆人環視の中で晒したのである。
いずれ身一つで捨てられるのは明白だった。
それならば、自身に与えられた資産を増やすなり事業を起こすなりすれば良いものを、そんな才覚もなかった父は、ある名案を思いつく。
侯爵家の血筋と美しい容姿のみを武器に生きてきた男は、結局そこに活路を見出した。
侯爵家を継いだ兄には二人の男子がいる。
ならばそのどちらかと、アデラインを娶せてしまえば良い。
そうすれば、自身の地位は安泰であると。
かくして父ジェームズの浅はかな企みの元、その時期から公爵邸では、二人のロックウェル侯爵令息の姿が頻繁に見られる様になったのである。
◇
「あら」
先日とは違い、随分と余裕のある鍛錬場の観覧席。その一番後ろ。
今日も定位置に座っていたアデラインは、通りかかったその人の姿に、思わず声を上げた。
「こんにちは」
先日よりもずっと落ち着いた声でそう返された。
長い前髪のせいで表情が読み難い。
もしや随分と優秀な猫を飼っているのでは?
アデラインは頭に浮かんだ疑問ごと、口元を素早く扇で覆い隠した。
「先日はご助言、ありがとうございました」
「僕は何も。ただ興味のない試合結果をお伝えしただけですよ」
「まぁ」
「僕が、ですけどね」
そう言うと、まるで悪戯が成功した子どもみたいに、目の前の彼は笑った。
何故だろうか。
不思議とその笑い声が、心地良かった。
「わたくしはアデライン・ハワードと申します」
そういえばと、アデラインは今更ながら名を名乗った。既に知られているだろうことは承知の上で。
「お名前をお聞きしても?」
促す様に視線を向ければ、目の前の少年は素直に頷いた。
「ええ勿論。ルカ・エルドリッジです」
ただ、告げられた名は予想外のもので。
「エルドリッジ……?」
二大公爵家の家名だったのだ。
ハワードとエルドリッジ。
その二家の者が今、目の前に会していた。
次に言うべき言葉を考えあぐねていると、不意に通路の少し先から声が飛んで来た。
「やあ、待たせたかい?」
声の主は一際美しい青年だった。
言いながら、アデラインへと近づいて来る。
当然だ。アデラインは青年と会うために今日この場にいたのだから。
青年はアデラインの目の前まで来ると、ちらりと横目でルカを見た。
視線の意味に気づかない訳がない。
「では、僕はこれで」
そう言うと、ルカはすぐに去って行った。
「お邪魔だったかな?」
残されたアデラインに、さも愉快そうに青年は尋ねてきた。こういう軽妙なところは、やはり血筋を感じさせる。
「まさか」
否定しながらも、アデラインは漠然とそんなことを考えていた。
一人分空けて席に座ると、徐に青年が口を開いた。
「今まで申し訳なかった」
そう言って青年――ロックウェル侯爵家の嫡男ジョージは、アデラインに頭を下げた。
「頭をお上げください。謝られるような事は何も」
アデラインは穏やかな声でジョージに告げた。本心である。ジョージ個人に対しての蟠りなどあるはずがなかった。
「優しいね。それにずっと大人だ」
アデラインに向き直ったジョージは自嘲気味な笑みを浮かべている。その表情が憂いを帯びて、また一段と彼を美しく彩っていた。
「父の体調が良くならなくてね。正式に私が侯爵家を継ぐことになった。来週には婚約も発表される」
「おめでとうございます」
「ありがとう」
病による当主交代を祝うのは非礼だろうが、婚約なら話は別だ。
侯爵家の嫡男でありながらジョージはずっと、アデラインとの婚約を望む父と叔父によって、婚約者を決める権利すら取り上げられていたのだから。
「しかし……可愛い従妹にあれの対応を押し付けるのは心が痛むよ」
あれが何を指すのか、聞くまでもなかった。
ジョージとは違い、努力することを知らずに自身の美貌しか誇る物の無い、典型的なロックウェル家の血筋の男。
「お引き受けするつもりはございませんが?」
「それは当然、わかってるよ。ただ間違いなく煩わしいことが増えるだろう」
今後を想像したのか、ジョージは眉を顰めてそう言った。
「ええ……そうですわね」
心からの心配に、アデラインも素直に頷く。
「アデライン。君のことは本当の妹のように思ってる。どうか幸せになって欲しい」
邪心の無い真心からの言葉なら、何の疑いもなく受け入れられる。
「はい。ありがとうございます。ジョージお兄様もお幸せに」
アデラインは、歳上の従兄を久しぶりに兄と呼び、感謝と祝福をした。
「ありがとう」
笑みを浮かべたジョージの顔は、この上なく美しかった。
◇
ロックウェル侯爵家の当主交代とジョージの婚約が発表されてから、予想通りアデラインの生活は煩わしさを増していた。
あれ以来、ヘンリーの顔を見ない日がないのである。
父の協力があってこそではあるが、ヘンリーは毎日の様に公爵邸を訪れていた。
父に、兄に、アデラインに。
誰かしらに用があると、大した用などありもしないのに。
事態を把握しているはずの母は、静観を決め込んでいる。この程度で手を煩わせるなということだろう。
アデラインは対応を試されているのではと、直感していた。
「今日も見学に来るだろう?」
朝食を終え自室に戻ろうと廊下を歩くアデラインに、いつの間にかヘンリーが声をかけてきた。
まさか昨夜は邸に泊まったのだろうか。
うんざりとする本心を押し殺して、アデラインはヘンリーに微笑みかける。
「お早いのですね。お兄様が行かれるのでしたら後ほど伺いますわ」
「アーサーかい?今日は来るはずだ。ただ彼がいなくても、君はいつでも私を見に来ていいんだよ」
何を馬鹿なことをとでも言うように、ヘンリーは大仰に両手を広げて宣った。
「君は妹みたいなものだからね」
まるで自身の言葉に酔っているかの様に、うっとりと告げられたその言葉に、アデラインの肌は無意識に粟立っていた。
◇
「あら」
「こんにちは」
以前と同じやり取りを交わしたのは、鍛錬場のいつもの定位置。
「よろしければご一緒しません?」
違ったのは、アデラインがルカを相席に誘ったことだった。今日は兄とヘンリーの試技のせいで、観覧席は満席である。
ルカは一瞬だけ躊躇いを見せたが、素直にアデラインの隣に腰を下ろした。
「……妙な噂になりませんか?」
囁かれた問いにアデラインは顔を顰める。
「妙とは?」
予想はついたが、どれだけ出回っているのか確認する必要がある。
アデラインの圧のある問いかけに、ルカは不思議そうに鍛錬場を指差した。
「婚約されるのでは?」
「誰と、誰が、でしょうか?」
間髪を容れない質問返しに、ルカは身体を強張らせる。
「すみません……僕の勘違いだったようです」
アデラインの迫力が、相当堪えたのだろう。すぐに謝ると、気の毒なくらいに身体を小さく縮こませている。
ここまで萎縮させてしまっては、アデラインとて良心が痛む。
「こちらこそ失礼いたしました。少々不本意だったもので」
「少々どころでは無いのでは?」
「……」
今度はアデラインが、ルカの鋭い返しに言葉を詰まらせた。
「ふふっ。意外と感情が出る方なんですね」
緊張から解放されたルカは、無邪気に笑う。
「忘れてください」
アデラインの方が切り替えられずに、視線を彷徨わせていた。
「ははっ。嫌です」
「まぁ!」
子どもの様な発言に、アデラインは堪らず声を上げる。
その瞬間、アデラインの視線は自ずとルカに定まっていた。
エルドリッジ公爵令息は、アデラインより一つ歳下の今年十六歳だと聞いたことがある。
幼い頃病弱だったため、一人息子の身体を案じた両親により、長い間領地で療養をしていたそうだ。
学園には通わず家庭教師について学んでいるが、大変優秀だと言われている。
そんな彼が、つい最近王都に戻って来た。
けれど令息の姿を知る者は、王都でもごく僅かだ。噂の真偽のほどなど、大抵の貴族には確かめようもなかった……のだが。
「騎士の鍛錬はどうかと、父に勧められまして」
だから見学に来ているのだと、他人事の様にルカは言う。
「人には向き不向きがありますからね」
鍛錬を行うつもりなどはさらさら無いが、ようやく健康になった我が子への尽きない心配を無下にするつもりもルカにはないようだ。
しばらくは、騎士団の鍛錬を見学するつもりなのだという。
「良いお父様ですわね」
アデラインは感心したように呟いた。
父にも、ルカのお父上くらい我が子を思いやる心があれば、自分はしなくても良い苦労をせずに済んだのに、というやるせない気持ちもあった。
「では、何か他にお身体のためにされてみては?」
不毛な考えを振り切る様に、アデラインは話題を変えた。
「他にですか?」
「してみたいことでもよろしいかと」
「う〜ん……」
ルカは顎に手をやって暫く考え込むと、思いついた様に言った。
「それなら、乗馬を」
「乗馬?」
「昔から動物が好きなんです。特に馬が駆けているのを見るのが好きで……まあ、危ないからと禁止されていたんですが」
病弱だったという幼い頃なら、心配で止められるのもわかる。しかし騎士の鍛錬を勧められるほどに健康になった今なら、その願いは問題なく叶うはずだ。
「では、やってみますか?」
「え」
細かい事情を考えるより先に、アデラインはそう口にしていた。
「王家にほど近い我が家の領地には馬産地がございます。ご招待いたしますわ」
「いいの?あ、でも……」
躊躇いながらも、期待を抑えられないルカの口調が幼くなっていく。
「子どもの試乗用にポニーもおりますわよ」
「それはちょっと傷ついたかも……」
「まぁ」
提示した安全策は、どうやらプライドを傷つけてしまったらしい。
どこか拗ねた様なルカに、アデラインは目を丸くした。
けれどすぐに、ルカはアデラインに小さく頭を下げて言った。
「よろしくお願いします」
「はい」
その言葉に、アデラインは目を細めて頷いた。
不意に、割れんばかりの歓声が、観覧席に響き渡った。
辺りを見渡すと、一斉に人が立ち上がっている。
どうやら兄とヘンリーの試技が終了したらしい。
見ていなかったので、勝敗の行方は今日もわからなかった。
とはいえ、一言労いに行かねばならない。
アデラインは深い息を吐くと、その場に立ち上がった。
「わたくしはこれで失礼いたします」
「ああ。僕から連絡しても?」
ルカの申し出に、アデラインは小さく首を振る。
「いいえ。邪魔が入るといけませんから、わたくしからいたしますわ」
「ああ……そうか」
ルカの視線が鍛錬場へと向かう。
その先には、数えきれない程の令嬢たちに取り囲まれたヘンリーの姿があった。
◇
アデラインの十七歳の誕生日を祝う夜会が近づいて来た頃、日常生活は本格的に煩わしさを増していた。
簡単に言えば、毎日ヘンリーに付き纏われていた。
「可愛いアデル、ドレスは何色がいい?やはり青に金の刺繍だろうか」
顔を合わせれば、意味のわからないことを言われる日々。
そもそも何故ヘンリーの選んだドレスを着る前提なのだろうか?ドレスなど三ヶ月前には出来上がっている。
しかも腹立たしいことに、ヘンリーの髪と瞳の色のドレスを勧めてくる始末だった。
薄茶の髪に薄緑の瞳をしたアデラインの顔色が、絶妙に悪く見える組み合わせを。
「ヘンリー様、ドレスなら母が誂えてくれてますわ」
笑顔を浮かべるにも限度というものがある。
今にも口輪筋が引き攣りそうだった。
「そうか……なら次は私に贈らせてくれ」
さも残念そうに、ヘンリーは眉を下げる。
次とは?そんな機会は永久に来ないのだが。
アデラインは困った様に曖昧に微笑んだ。
「ヘンリー様は人気者でいらっしゃいますから、夜会の招待が沢山おありでしょう?」
「ん?まあそうだね。なんだい、可愛らしい嫉妬かい?」
遠回しな会話の意図など読めるはずもないヘンリーに、アデラインは内心舌打ちした。
普段どうやって貴族社会で生きているのだろう。
「いえ……ヘンリー様にドレスを贈られたいご令嬢は、大勢いらっしゃるのではと」
夜会で散々女遊びをしていることは、知っているぞと言っているのだ。
男爵令嬢、子爵令嬢、伯爵夫人。
侯爵家の力で揉み消せる家格までしか手を出さないところが、また癇に障る。
「ははは!それは間違いない。だが私が贈るに値するのは君だけだよ、アデル」
しかしヘンリーには全く伝わっていなかった。もしや振りなのだろうか。
アデラインは判断に迷い、無意識に呟いていた。
「……まぁ」
「拗ねないでおくれ。誕生日の夜会では君とだけ踊ろう」
どうやら本当にわかっていなかった方だ。
なんて愚かな男なのだろう。
アデラインは小さく息を吐いた。
「……そんな」
眉を顰めたアデラインの姿に、何を思ったのか、ヘンリーは宥めるように大仰に宣った。
「君と私の仲だからね。咎める者などいやしないさ」
「……」
父方の従兄妹である以外、何の関係もないのだが。
「ああ、そうだ。当日のアクセサリーは私が贈ろう。身につけないといけないよ?周りに教えてやる必要があるからね」
「……」
何を教えるというのだろう。自分の頭が足りないことをだろうか。
「楽しみだね」
「……」
もう一言だって答える気力さえ、残されてはいなかった。
アデラインはただ黙って微笑むだけで、精一杯だったのだ。
◇
「やあ、アデル!今日はまた一段と美しいね」
十七歳の誕生日を祝う夜会当日、ヘンリーは我先にとアデラインの元へとやって来た。
「……ありがとうございます」
招待客の目がある中、迂闊な態度は取れない。アデラインは無難に笑顔で礼を返した。
「ダンスが始まるまで私の友人を紹介しよう」
そう言ってヘンリーが視線を向けた先には、数人の令息の姿があった。いずれも公爵家と何とか縁を持ちたい家門であろう。
「ヘンリー様、あの」
「ロックウェル侯爵令息」
「!」
アデラインが断りを告げる前に、その場に凛とした声が響いた。
ハワード女公爵、母の声が。
「アデラインは本日重要な役目があります。お下がりなさい」
温度の無い声でそう言いきられ、ヘンリーは一気に顔色を悪くした。
無理も無い。ヘンリーがアデラインの母から直接声をかけられる事など、この数年無かったのだから。
ヘンリーは助けを求める様に、アデラインの後ろに控えていた父ジェームズに視線を向けたが、気まずそうに逸らされる。
兄アーサーなどは侍従に指示を出していて、最初からこちらを見ようともしていなかった。
なす術のないヘンリーは、怯える様にその場を去って行った。
「お手数をおかけしました」
ヘンリーの姿が見えなくなってから、アデラインは母に頭を下げた。
「今日を問題なくこなせば良いだけです」
「はい」
「どうせまた来ますよ」
「……はい」
「しっかりおやりなさい」
「はい……!」
母から激励の声をかけられた事など、初めてではないだろうか。
来客へと声をかけに行く母の背中を見送りながら、アデラインは一人感動を覚えていた。
「お兄様」
しかし、感傷に耽ってばかりもいられない。
アデラインは兄に近づくと、そっと囁いた。
「お遊びの時間はお終いにしていただけますか?」
兄はアデラインの言葉に目を見開くと、小さく頷いた。
「ああ、悪かった。あそこまでとは思わなかったんだ」
「……本当に?」
「本当だ。ただ、私に都合が良かった点は否定しない。すまなかった」
「……」
兄がヘンリーを諌めもせずに連んでいた理由。
それは偏に騎士の真似事をしたかったからだ。
残念ながら兄には壊滅的に騎士としての適性が無かった。けれど昔から騎士に強い憧れがあった兄は、結婚までの僅かな時間、特例で騎士団の鍛錬に交じることを許されていた。
ヘンリーは兄の騎士生活に付き合う相手としては、適任だったのである。
だが、それももう終わりだ。
翌年には隣国の公爵家から兄の婚約者が嫁いで来る。
母が嫁ぐはずだった公爵家から。
万全の状態で迎える為にも、兄のお遊びは今アデラインの都合で切り上げてもらって構わないはずだ。
何せアデラインは、今日まで散々我慢して来たのだから。
「アデライン」
「二度は許しませんわよ」
「ああ、感謝する」
あからさまにほっとした兄に、アデラインは苦笑いする。
あと釘を刺すとすれば父だが、それはもういい。
父が助かる道は、既に全て塞がれた後だ。
アデラインは父を振り返る事なく、来客の前へと歩き出した。
「アデライン!アデル!」
来客との歓談の隙を突いて、アデラインの目の前にヘンリーが姿を見せた。
お遊びは今日でお終いだ。
それは兄だけではなく、ヘンリーも。
アデラインは一歩後退ると、ヘンリーとの間に距離を取った。
そうして、真っ直ぐにヘンリーを見つめた。
「なんでしょうか」
アデラインの気迫にヘンリーは息を呑んだ。
こんなに強い意思をしたアデラインを、見たことがなかったからだ。
「な、なんでしょうかじゃない!君のパートナーは私だろう!」
狼狽えたまま叫べば、うんざりとしたアデラインの声が返ってくる。
「はあ?」
「なっ!?……もうダンスが始まる。さあ、一緒に来るんだ!」
ヘンリーが強引にアデラインの腕を掴もうとした瞬間。
「アデライン!」
アデラインを守る様に、一人の令息がヘンリーの前に立ち塞がった。
「ルカ!」
アデラインはその姿に明るい声を上げる。
「なっ!?誰だっ!」
寄り添う二人の姿を目にすると、ヘンリーは酷く取り乱した。
見覚えの無い、まだ幼さの残る美しい顔を惜しげもなく晒した銀の髪の男。
数年すれば、間違いなく社交界の中心になっているだろう。
そんな美しい男がアデラインに寄り添っているのだ。ヘンリーが正気でいられるはずがなかった。
その場所は自身のものなのだと、ずっと彼は妄信してきたのだろうから。
「ルカ・エルドリッジですが、貴方は?」
「!?」
ルカの言葉にヘンリーは顔色を失った。
遠巻きに見ている周囲の人間も、誰も助けてはくれない。友人ですら。
ヘンリーが喧嘩を売った相手は、ルカ・エルドリッジ。
二大公爵家であるエルドリッジ公爵家の嫡男だったのだから。
「名乗らないのですか?」
「!!」
ルカの言葉にヘンリーは小刻みに震え出した。
最上位の公爵家からの問いに答えない訳にはいかない。だが答えたら最後、どんな処罰が下されるかわからなかった。
「あ……あ、わ、私は……」
震える声で、ヘンリーが名乗ろうとした時。
「その者はヘンリー・バーネット男爵です!」
「!?」
観衆の中からはっきりとした声が飛んだ。
一斉に周囲の視線が声の主へと注がれる。
「なっ!?な、なにっ、を!?あ、兄上!?」
そこにいたのはジョージ・ロックウェル侯爵。
ヘンリーの実の兄だった。
衆目の中、ジョージは堂々と歩いて来るとルカの前で礼をとった。
「お初にお目にかかります。ジョージ・ロックウェルと申します」
「こちらこそお会い出来て光栄です。ロックウェル侯爵」
和やかに挨拶を交わす二人に、存在を無視されたとでも感じたのか、ヘンリーが狂った様に叫び出した。
「あ、兄上っ!!どういうことですっ!?私はロックウェル侯爵家の者ですよ!!男爵などとっ!!」
ヘンリーの醜態に、ジョージは眉を顰める。そして淡々と事実のみを語って聞かせた。
「お前にはバーネット男爵位を授け、ロックウェル侯爵家からは既に除籍してある」
「はあっ!?」
「正式に騎士団に入るなり、領地に行くなり好きにしろ。あと、この場限りでもう私を兄とは呼ばない様に」
「!!」
ジョージからの宣告に、ヘンリーは気を失ってその場に倒れ込んだ。
観衆から、いくつもの悲鳴が上がる。
「誰か!」
それまで静観を決め込んでいたアデラインが使用人を呼び、ヘンリーを運び出させる。と同時に楽団の演奏が始まった。
遠くから兄のアーサーが手を振っているのが見えた。
「もう……」
罪滅ぼしのつもりか、今日のアーサーは随分とアデラインに協力的なようだ。
「アデライン」
アデラインに、ルカが手を差し出す。
ダンスの申し込みだ。
「ええ」
アデラインは嬉しそうにその手に自身の手を重ねた。
軽やかにステップを踏み出すと、いつの間にか二人の側から離れていたジョージの隣に、婚約者が寄り添っているのが見えた。
幸せそうに笑い合っている。
「良かった……」
アデラインの本心から溢れた声に、ルカは戯けて尋ねた。
「僕のリードが?」
「まぁ!ふふ」
アデラインは幼さの残る美しい男の顔を見上げた。
出会った当初はアデラインと大して目線も変わらなかったのに、今では見上げるほどだ。
その上この美貌である。一度ダンスを終えれば令嬢たちが黙っているはずがない。
その事を考えると、晴れやかなはずのアデラインの心が少しだけ暗くなった。
乗馬の際に危険だからなどと言って前髪を上げさせた事が、今更ながら悔やまれる。
「彼、この後が大変そうだね」
「え」
考え事をしてしまっていたせいか、ルカに耳元で囁かれる。
アデラインは赤く染まった耳を隠したかったが、ダンスが終わるまでは叶わない。
動揺するままに視線を泳がせていると、ルカのいつもより少し低い声が鼓膜を揺らした。
「だって彼、今まで下位貴族の女性ばかり弄んでいたんだろう?恨まれてるんじゃない?」
「……そうね」
もう不始末を揉み消してくれる実家はない。
男爵では報復されるがままだろう。
「まあ、自業自得だね」
納得といった顔でルカは頷くと、不快な会話をそこで打ち切った。
そうして一曲目が終わった。
礼をとり、その場から離れようとするアデラインの手をルカは再びとった。
「もう一曲踊ってよ」
「だめよ……」
未婚の男女が二曲続けて踊る意味を、知らないはずがない。
困惑するアデラインの手をルカは構わず取ると、再び踊り出した。
「ルカっ!?」
「この曲が終わったら、かっこよく求婚するから付き合ってよ」
「!?」
「さっきは緊張して、言う前に踊り終わってたんだ」
「まぁ!」
頬を染めてそんな可愛い種明かしをされてしまっては、アデラインとて否と言えるはずがない。
「あ、ハワード女公爵のお許しは先にいただいてるから、安心してね」
「!?」
根回しの上手さは、やっぱり少し可愛くないかもと、アデラインは唇を尖らせたのだった。
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