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完璧な狙撃は偽りの罠。




第1話 消えた大物政治家


東京に夜の帳が降りる頃、浜離宮恩賜庭園の周囲を取り囲む高層ビル群は、まるで巨大な墓標のように冷たい光を放ち始める。その無機質な輝きとは対照的に、広大な庭園の敷地は深い闇と静寂に包まれていた。

汐留の喧騒から遮断されたその空間で、水原亜美はスマートフォンの画面をじっと見つめていた。画面に表示されているのは、一通の送信完了メール。宛先は、彼女が私設秘書として仕える大物政治家、龍崎厳である。

「これで、すべてが始まる」

亜美は小さく呟いた。その声は、夜風に混じって消えてしまうほど微かだったが、そこには凍りつくような決意が宿っていた。

彼女の手元にあるスマートフォンには、数分前に龍崎から返ってきた短い返信が残されている。

『わかった。誰にも見られずにそちらへ向かう。例のデータ、確実に持ってこい』

龍崎を動かした動機は、単純な強欲と猜疑心だった。亜美は数日前から、対立政党の有力議員である鷹野一馬に関する、極秘の裏金データを入手したと龍崎に匂わせていた。龍崎にとって鷹野は、次の選挙で確実に叩き潰さねばならない最大の政敵である。その決定的な弱みを、警察や他の秘書に知られることなく独占できる好機。貪欲な老政治家が、この誘い針に食いつかないはずがなかった。

もちろん、そんなデータは実在しない。すべては龍崎をこの夜の庭園に、ただ一人で呼び出すための罠だった。

亜美はスマートフォンの電源を完全に切ると、コートの深いポケットに滑り込ませた。そして、足元に置かれた黒いナイロン製のスポーツバッグに視線を落とす。バッグのジッパーを少しだけ開けると、中には金属製の不気味な光沢を放つパーツが整然と収まっていた。特殊な小型クロスボウ。海外の闇ルートを伝って手に入れたそれは、驚くほど軽量でありながら、至近距離からであれば人間の肉体を容易に貫通する威力を秘めている。

彼女はバッグのジッパーを閉め、ゆっくりと息を吐き出した。胸の鼓動は驚くほど静かだった。恐怖はない。あるのは、長年この瞬間のために捧げてきた時間の重みと、ようやく宿敵の息の根を止められるという冷徹な高揚感だけだった。

龍崎厳。世間では清廉な政治家を気取っているが、その裏では数々の人間を泥沼に突き落とし、自らの権力を肥大化させてきた男。亜美の家族もまた、数年前に龍崎の身勝手な政策と利権調達の犠牲となり、すべてを失って破滅した。生き残った亜美は、名前を変え、経歴を偽り、龍崎の私設秘書という最も近いポジションにまで這い上がってきた。すべては、この男に合法的な手段では届かない鉄槌を下すためだ。

「先生、あなたはいつもおっしゃっていましたね。政治の世界では、油断した者が負けるのだと」

亜美は闇の向こう、庭園の入り口の方角を見つめた。

警察の目を欺くための計画は完璧だった。龍崎が死ねば、警察は当然、激しい政治闘争を繰り広げていた鷹野一馬や、直近で龍崎と金銭トラブルのあった地元の名士、源義明を疑うだろう。さらに、彼女が用意した『ある仕掛け』によって、警察の捜査班は庭園の外にある高層ビル群へと視線を誘導されることになる。まさか、事件直後も平然と秘書としての業務をこなす自分が、目と鼻の先から矢を放ったなどとは夢にも思うまい。

遠くで、庭園の通用口の門が微かに軋む音が聞こえた。事前に亜美が手配し、解錠させておいたルートだ。

暗闇に目が慣れた亜美の視界に、外套を深く羽織った大柄な男のシルエットが浮かび上がる。間違いない。龍崎厳だ。周囲を極度に警戒しながら、足早にこちらへと歩いてくる。

亜美はスポーツバッグから静かに、しかし迅速にクロスボウの本体を取り出し、慣れた手つきで組み立てを始めた。カチリ、と金属が噛み合う小さな音が、彼女の耳に心地よく響く。矢を番え、弦を限界まで引き絞る。

闇の中に佇む彼女の瞳に、標的の姿がはっきりと映り込んだ。復讐の舞台は、完全に整った。





第2話 浜離宮の夜霧


暗闇の向こうから近づいてくる足音が、しだいに大きく聞こえ始める。砂利を踏みしめるその不規則な音は、龍崎厳が抱える焦りと、誰にも見られてはならないという緊張感をそのまま物語っていた。

水原亜美は息をひそめ、松の木の影に身を潜めた。組み立てを終えた小型クロスボウのグリップを握る手には、わずかな迷いもない。冷たい金属の感触が、手のひらを通じて彼女の神経を研ぎ澄ましていく。

「水原、いるのか」

低く、押し殺した声が静寂を破った。龍崎は周囲をきょろきょろと見回しながら、亜美が事前に指定した池のほとりへと歩み寄る。その顔には、いつもの記者会見で見せる尊大な笑みはなく、どす黒い欲望に突き動かされた執念だけが張り付いていた。

「遅いぞ。例のデータはどこだ。鷹野を失脚させる証拠は、確実に持ってきたんだろうな」

龍崎は懐から手を出し、いら立ちを隠そうともせずに呟く。彼は自分の命が、あと数十秒で尽きることなど微塵も疑っていない。それどころか、この夜を境に自らの権力がさらに確固たるものになるという幻想に浸っているのだ。

亜美は暗闇の中で、静かに照準を合わせた。狙うのは、龍崎の広い胸の、その中央。衣服の上からでも、老いた心臓が傲慢に脈打っている位置が手に取るようにわかった。

「……ええ、ここにありますよ、先生」

心の中でそう答えると同時に、亜美は人差し指に力を込めた。

鈍い風切り音が、夜の空気を切り裂いた。

パシュッ、という弦の弾ける短い音と同時に、特殊なカーボン製の矢が放たれる。至近距離から放たれた一撃は、一切の猶予を許さず、正確に龍崎の胸部へと突き刺さった。

「が、はっ……!?」

龍崎の口から、押しつぶされたような絶叫が漏れた。

何が起きたのか理解できないまま、龍崎はその場に激しくよろめいた。胸元に強烈な衝撃と、それに続く灼熱の痛みが走る。手を当てると、生温かい液体が急速に溢れ出し、指の隙間から溢れていくのが分かった。

「な、んだ……これは……何が……」

視界が急速に狭くなっていく。激痛のなかで龍崎は必死に顔を上げ、暗闇を見つめた。松の木の影からゆっくりと姿を現したのは、見慣れたはずの私設秘書、水原亜美の姿だった。彼女の顔には、生気を感じさせないほど冷徹な、しかしどこか晴れやかな笑みが浮かんでいた。

「水原……お前、が……なぜ……」

「お忘れですか、先生。六年前、あなたが利権のために見捨てた、あの開発地区のことを」

亜美の声は、どこまでも静かで、優しかった。それがかえって、瀕死の龍崎にとっては悪魔の宣告のように響く。

「あの時、すべてを奪われて絶望の中で死んでいった家族の痛みに比べれば、矢の一本くらい、大したことはないでしょう?」

「あ、あ……」

龍崎の膝がガクガクと震え、ついに地面へと崩れ落ちた。肺が血で満たされ、まともな呼吸すらできなくなる。激しい恐怖が老政治家の脳内を支配した。助けてくれ、誰か、と叫ぼうとしても、口から漏れるのはゴボゴボという血の泡だけだった。

地面に這いつくばり、泥にまみれながら、龍崎は必死に虚空に手を伸ばした。だが、その手が何かを掴むことは二度となかった。やがて、大きく見開かれた瞳から光が消え、大物政治家の肉体は完全に物言わぬ肉塊へと変わった。

亜美は数秒の間、微動だにせずその遺体を見つめていた。周囲には、再び浜離宮の深い静寂が戻ってくる。

「終わりよ、龍崎厳」

彼女は小さく息を吐くと、すぐに次なる作業へと取りかかった。復讐は果たされたが、彼女の計画はまだ、前半戦を終えたに過ぎないのだ。





第3話 空白のレーザー光


冷たくなった龍崎の遺体を見下ろしながら、水原亜美の思考は驚くほど冴え渡っていた。感情に浸る時間は終わった。ここからは、警察という巨大な組織を相手に回す、周到に仕組んだゲームの始まりだった。

亜美はコートのポケットから、念入りに準備してきた小さなデバイスを取り出した。指先ほどの大きさのそれは、微小な反射レンズを組み込んだ特殊な仕掛けだ。彼女は手袋をはめた手で龍崎の遺体に近づき、矢が突き刺さった胸元の衣服に、そのデバイスをピンで慎重に固定した。

そして、あらかじめ設定しておいた遠隔スイッチを押す。

刹那、対岸の汐留にある高層ビル群の窓から放たれたかのように、一本の微弱な赤色レーザーの光線が、龍崎の胸元をピンポイントで照らし出した。実際には庭園内のすぐ近くに隠した発信器からの光を、デバイスが受けて反射させているに過ぎない。しかし、夜間に遠くから見れば、まるで超高層ビルの客室から高性能なレーザー照準器で狙撃されたかのような完璧な錯覚を生み出す。

「警察はまず、あのビル群を躍起になって調べるわ」

亜美は冷ややかに微笑んだ。キャリア組の刑事たちが、ビルの宿泊履歴や防犯カメラの映像、周辺の宿泊客のアリバイを洗うために何日間も不毛な時間を費やす様子が、容易に想像できた。その間に、自分への疑いの目は完全に逸らされる。

偽装工作を終えると、亜美はすぐさま手元にあるクロスボウに視線を移した。手際よくネジを緩め、弦を外し、一体化していた金属のフレームをいくつかのパーツへと分解していく。訓練を重ねたその手つきに迷いはなく、わずか数十秒で、それはただの無機質な金属片の塊へと姿を変えた。

分解したパーツをすべて黒いナイロン製のスポーツバッグに詰め込むと、彼女は現場の周囲を一度だけ見回した。自分の足跡や遺留品がないことを確認し、ゆっくりと歩き出す。

目標の場所は、庭園内の出口付近にある、目立たない大型のゴミ箱だった。明日の早朝には、庭園の清掃員によって回収され、そのまま処理場へと運ばれる手はずになっている。

亜美は周囲の闇に完全に溶け込みながら、音もなくゴミ箱へと近づいた。そして、スポーツバッグから取り出したクロスボウのパーツを、園内の一般ゴミに紛れ込ませるようにして、いくつかのゴミ箱へと分散して投げ入れた。カツン、と鈍い音が響いたが、それも夜風の音にかき消されていく。

凶器は消えた。狙撃場所の偽装も完了した。

最後に、自分の衣服や髪に不自然な汚れがないかを携帯の画面で確認すると、亜美は通用口の門へと向かった。解錠された門を抜け、再び鍵を閉めると、彼女は何事もなかったかのように、汐留の明るい街頭が照らす歩道へと足を踏み入れた。

数分前まで人殺しを行っていた凄腕の暗殺者から、どこにでもいる「優秀で健気な私設秘書」へと、彼女の表情は完全に切り替わっていた。

背後を振り返ると、浜離宮恩賜庭園は深い闇のなかで、静かに息を潜めている。明日の朝、あの場所で日本を揺るがす大事件が発覚することになる。その劇的な幕開けを思い描きながら、水原亜美は夜の街へと堂々と消えていった。





第4話 看板探偵と影の知性


大物政治家の命が闇に葬られたその翌朝、港区から少し離れた場所にある「乃木探偵事務所」は、全く別の意味で重苦しい空気に包まれていた。

「げほっ、ごほっ……! うう、小百合……お水、お水をおくれ……」

事務所の奥にある居住スペースのベッドで、この事務所の所長であり、一応は「名探偵」の看板を掲げている乃木礼司が、情けない声を上げてのたうち回っていた。額には冷えピタが貼られ、顔は真っ赤に火照っている。体温計が示した数字は、39.8度という壊滅的なものだった。

「もう、お兄ちゃんうるさい! 黙って寝ててって言ってるでしょ!」

事務員の乃木小百合は、呆れ果てた顔で兄の枕元にスポーツドリンクのペットボトルを叩きつけた。普段はキリッとしたスーツ姿で依頼人を迎える礼司だが、ひとたび風邪をひけば、ただの大きな子供に成り下がる。

「だって、今日中に仕上げなきゃいけない調査報告書が……ごほっ、それに、さっきテレビのニュースで言ってた、浜離宮の事件……僕の天才的な直感が、何かを告げているような……」

「はいはい、直感じゃなくて熱のせいで頭がバグってるだけ。大人しく寝てなさい」

小百合は兄を布団の中に無理やり押し込むと、パタンとドアを閉めてリビング兼オフィスへと戻った。

オフィスには、もう一人の人物が静かに佇んでいた。

探偵助手の流石田美衣。彼女は淹れたてのコーヒーを口に運びながら、テレビから流れる臨時ニュースをじっと見つめていた。画面には『浜離宮恩賜庭園で大物政治家・龍崎厳氏の遺体発見』という衝撃的なテロップが躍っている。

「美衣さん、お兄ちゃんは完全に戦力外通告です。当分は起き上がれそうにありません」

小百合がため息をつきながらソファに腰掛けると、美衣はテレビから視線を外さずに口を開いた。

「困ったわね。実はさっき、うちの事務所の上客から連絡があったの。今回の龍崎氏の事件、警察の裏で独自に動いて真相を調べてほしいって、かなりの額の手付金が振り込まれたわ」

「えっ!? 本当ですか?」

小百合は目を丸くした。ランキング上位の探偵事務所としてのメンツもあり、こんな大きなヤマを逃す手はない。しかし、肝心の「飾り探偵」である礼司がこの有様だ。いつもは礼司が表で適当に立ち回り、その影で美衣が超名探偵としての恐るべき推理力を発揮して事件を解決してきたのだが、表の看板がいなければ、美衣も動きようがない。

「礼司さんが動けないとなると、警察とのパイプ役や、表立って関係者に聞き込みをする『大人の男』の存在が必要になるわ。私や小百合ちゃんが表に出すぎると、余計な警戒を誘うし、警察のキャリア組に舐められるだけだから」

美衣はコーヒーカップを置くと、ふう、と小さくため息をついた。その瞳には、いつもの冷静沈着な光の中に、少しだけの躊躇いが混じっている。

「……仕方ないわね。あの人を使うのは、本当に気が進まないけれど。背に腹は変えられないわ」

「あの人? 美衣さん、誰か心当たりがあるんですか?」

小百合が首を傾げると、美衣はスマートフォンを取り出し、ある番号を表示させた。

「私の父親よ。元警視庁捜査一課の警視。……今は、ただの頑固な引きこもりだけどね」

美衣の手指が、発信ボタンを押した。その選択が、この難解な事件の歯車を大きく動かすことになることを、小百合はまだ知る由もなかった。





第5話 キャリアの傲慢


乃木探偵事務所のオフィスに、重苦しい沈黙が流れていた。美衣が父親に電話をかけてから、わずか数時間。事務所のドアが、ノックもなしに乱暴に開け放たれた。

そこに立っていたのは、くたびれたトレンチコートを羽織り、無精髭を蓄えた五十代半ばの男――流石田彰だった。かつては警視庁捜査一課の伝説として名を馳せ、今は見る影もなく引きこもりの生活を送る元警視である。

「……娘の頼みとあらば仕方あるまい。だが、この私が『飾り探偵』の代わりなど、笑わせるな」

彰は、ひどく不機嫌そうに低く唸った。その眼光は鋭く、室内を一瞥しただけで、小百合が隠し持っていた礼司の隠し酒の場所まで見抜いたかのような凄みを放っている。

「お父様、来てくれたのね」

美衣が冷静に迎えると、彰は鼻を鳴らしてソファに深く腰掛けた。その所作の一つひとつに、長年叩き上げの刑事として現場を生き抜いてきた者特有の、研ぎ澄まされた気配がある。

「礼司のヤツが寝込んでいるのは聞いた。……風邪か? 軟弱な男だ。私の娘を預かるには、少々荷が重すぎるのではないか」

「お兄ちゃんは……繊細なんです。現場には向かないけど、彼の『運』は異常なほど良くて、結果的に私たちが助かっていることも多いの」

小百合が慌ててフォローするが、彰は興味なさそうに肩をすくめた。彼にとって重要なのは、目の前の「大物政治家暗殺事件」というパズルだけだ。

「で、現場の状況はどうなっている? ニュースでは『高層ビルからの狙撃』を警察が躍起になって探しているようだが」

美衣は表情を引き締め、手元のタブレットを彰の前に差し出した。そこには、事件現場となった浜離宮恩賜庭園の航空写真と、周辺のビル群の位置関係、そして警察が公表している初期捜査の断片的な情報が整理されていた。

「警察は完全に、犯人の仕掛けたミスリードに踊らされています。高層ビルから庭園の死角を狙撃するなど、素人目には完璧なトリックに見えるでしょう。ですが、至近距離の検証を行っていない点が致命的です」

美衣の分析に、彰の表情がわずかに険しくなった。彼はタブレットの画面を指でなぞり、地図上の特定の地点を何度も叩く。

「……なるほど。現場付近にゴミ箱が設置されているな。清掃のスケジュールは?」

「昨晩の事件直後に回収は行われていません。犯人がもし、凶器を園内に廃棄したのなら、まだゴミ箱の中にある可能性があります」

「フン、小百合だったか。お前、所長代理のお供だ。今すぐ現場へ向かうぞ。ただし、警察に顔を売るなよ。捜査の邪魔をするつもりはないが、こちらの動きを悟られるのは得策ではない」

彰が立ち上がると、空気がピリリと張り詰めた。引きこもり生活など嘘のような、鋭い警察犬のオーラ。小百合は圧倒されながらも、その圧倒的な存在感に、兄の時とは違う頼もしさを感じていた。

「わかりました! すぐに行きます!」

「美衣、お前は事務所で情報整理だ。警察の無能な発表を片っ端からモニターし、矛盾をすべて洗い出せ。……今回は、礼司の『運』などという不確かな要素には頼らん。私がこの手で、地獄まで犯人を追い詰めてやる」

彰はコートを翻し、事務所を後にした。彼の背中は、かつて警視として戦っていた頃の強さを取り戻しつつあった。その様子を見ていた美衣は、微かに口角を上げ、キーボードを叩き始めた。

浜離宮の静寂に潜む犯人にとって、最大の誤算は、この伝説の元刑事が動き出したことだったのかもしれない。






第6話 叩き上げの違和感


朝の光が浜離宮恩賜庭園を照らし出す頃、園内は瑞々しい緑の匂いではなく、鼻を突くような血の匂いと、張り詰めた警察車両の排気音に満たされていた。

「……まさか、こんなことになるとは」

規制線の内側、池のほとりで立ち尽くす一人の男がいた。警視庁警護課のSP、奥村智である。彼の表情は、まるで自分が重大な大ポカをやらかしたかのように青ざめ、苦渋に満ちていた。

奥村は、暗殺された龍崎厳の警護担当ではなかった。しかし、長年龍崎の動向をマークしていた彼は、昨晩、龍崎が誰にも告げずに私邸を抜け出したことを独自に察知していた。不審に思った奥村は急ぎその後を追ったが、庭園の広大な敷地と夜の闇に阻まれ、標的を見失ってしまったのだ。

そして今朝。夜明けとともに園内を執念深く捜索していた奥村の目に飛び込んできたのは、松の木の根元で冷たくなっている大物政治家の姿だった。

「俺がもっと早く見つけていれば……。せめて、あと一時間早く動いていれば、防げたかもしれないのに」

奥村は拳を強く握りしめ、地面を見つめた。彼の胸中を占めるのは、職務を全うできなかったという激しい悔恨と、犯人に対する言葉にならない怒りだった。SPとしてのプライドは完全に打ち砕かれ、ただの無力感だけが彼を支配している。

現場には次々と警察車両が到着し、静かだった庭園は一気に騒がしくなっていく。

「おい、第一発見者はあいつか?」

遠くから、鋭い声が響いた。やってきたのは、警視庁捜査一課の面々だ。先頭を歩くのは、仕立ての良いスーツを完璧に着こなしたキザな男。今回の捜査の指揮を執るキャリア組のエリート、暁隼人警視だった。そのすぐ後ろには、少し猫背で泥臭い雰囲気を纏ったベテランの米沢数馬警部、そして鋭い眼光を放つ才女、増田元子警部補が続いている。

「はい。警護課の奥村です。今朝、遺体を発見し、すぐに通報しました」

奥村が声を絞り出すようにして答えると、暁警視は品定めするような冷たい視線を向けた。

「SPでありながら、重要人物の単独行動を止められず、挙句の果てに死体となってから見つけるとは。警護課の教育はどうなっているのかね」

「……申し訳、ありません」

暁の容赦のない言葉が、奥村の胸に突き刺さる。しかし、奥村は反論しなかった。彼自身、自分の責任の重さを誰よりも痛感していたからだ。

「まあまあ、暁管理官。奥村も非公式に動いていたようですし、まずは現場の状況を確認しましょう」

米沢警部が少し押しの弱い声を出しながら、険悪な空気をなだめるように間に入った。その横で、増田警部補はすでに奥村の表情や立ち振る舞い、そしてその足元に残された足跡をじっと観察している。

「奥村さん、あなたが遺体を見つけた時、周囲に不審な人物や、他に動いたような形跡はありましたか?」

増田が尋ねると、奥村は首を横に振った。

「いえ、何も。ただ……龍崎先生の胸元に、何か不自然な光のようなものが一瞬見えた気がしたんです。朝の光の反射かと思いましたが、どうも違和感があって……」

「光、ですか」

増田はその言葉をメモ帳に書き留め、遺体のある方向へと視線を向けた。警察の鑑識班が周囲を囲む中、大物政治家の暗殺という前代未聞の事件は、奥村の悔恨の涙とともに、その本格的な捜査の幕を開けようとしていた。







第7話 張り巡らされた網


「遠距離からの、一撃による狙撃。これはプロの仕業だ。間違いない」

現場の指揮を執る暁隼人警視は、整った容姿の顎に手を当てながら、断定するように言い放った。彼の視線は、龍崎の遺体ではなく、遥か対岸にそびえ立つ汐留の高層ビル群へと向けられている。高級ブランドのスーツを完璧に着こなしたその姿は、凄惨な殺人現場にあって不自然なほどにキザで、浮いていた。

「すぐに近隣の全ビルを封鎖し、昨晩の宿泊履歴と防犯カメラのデータをすべて押さえろ。犯人は今も、あの無機質な窓のどこかから、我々の狼狽える姿を見下ろしているかもしれんぞ」

エリートキャリア組としてのプライドを隠そうともしない暁の指示は、迅速で、かつ合理的であるように聞こえた。しかし、その足元で泥まみれになりながら遺体の周囲を観察していた米沢数馬警部は、少し押しが弱そうな、それでいてどこか粘り気のある声を上げた。

「あのう、暁管理官。お言葉を返すようですが……確かにビルからの狙撃に見えますがね、どうも現場の草木の踏まれ方や、この池のほとりの泥の撥ね方に、妙な違和感がありましてな」

「違和感? 何が言いたいんだね、米沢警部」

暁は不機嫌そうに眉をひそめ、米沢を見下ろした。叩き上げのベテランである米沢の泥臭い直感を、暁は内心で「時代遅れの勘」と切り捨てている。その心理が、冷たいセリフの端々に透けて見えていた。

「いやね、もしあんな遠くから撃たれたんだとしたら、矢の角度はもっと上から斜め下に突き刺さるはずじゃありませんかね。これ、なんだか地面と水平に近い角度で刺さっているように見えるんです。まるで、このすぐ近くの茂みから、誰かが平地で狙い澄まして放ったかのような……」

「フン、素人の浅知恵だな。犯人が特殊な弾道を描く超高性能の弓を使用していたか、あるいは被害者の姿勢が崩れていた可能性を考慮していない。我々が今すべきなのは、そんな不確実な現場の泥を捏ねくり回すことではなく、最新の科学捜査に基づいてビル群を徹底的に洗うことだ」

暁は米沢の意見を一蹴すると、背を向けて無線で本部に指示を飛ばし始めた。自らのエリートとしての判断に一切の疑いを持っていない、傲慢な心理がその背中に表れていた。

米沢は「はあ、まあ、確かに管理官の仰る通りかもしれませんが……」と、頭を掻きながら引き下がった。少し気弱に見えるその態度の裏で、米沢の鋭い刑事の目は、暁の指示とは全く別の方向――庭園内の鬱蒼とした死角――をじっと見つめていた。

「管理官、私は米沢警部の懸念にも一理あると考えます」

二人の間に割って入ったのは、才女として名高い増田元子警部補だった。彼女の冷静な一言に、暁は再び不快そうに振り返る。

キャリアのプライドに固執する暁と、現場の違和感を捨てきれない叩き上げの米沢。捜査方針を巡る二人の静かな火花は、混迷を極める事件の行く末を予感させるように、夜明けの庭園にパチパチと弾けていた。






第8話 現場の語る事実


「管理官、私は米沢警部の懸念にも一理あると考えます。いえ、むしろそちらを本筋として検証すべきかと」

増田元子警部補の凛とした声が、暁警視の放つ傲慢な空気を切り裂いた。女性でありながら、その明晰な頭脳と果敢な行動力で数々の難事件を解決に導いてきた才女。彼女の瞳には、暁のようなエリートの体裁への固執も、米沢のような遠慮もなかった。ただ、現場が語る事実だけを冷徹に見つめている。

「増田警部補、君まで現場の泥に惑わされるのかね?」

暁が不快感を露わにするが、増田は動じない。彼女は龍崎の遺体の胸元、そしてその周囲の地面を指差した。

「龍崎氏の衣服に残された微かな光の痕跡。これは確かにレーザーポインターのものです。ですが、その軌跡を脳内で逆算すると、どうあがいても対岸の高層ビルからは角度が合いません。ビルの上階からであれば、もっと鋭角に光が落ちるはず。この光は、ほぼ水平に照射されています」

「それは……」

「つまり、犯人は『遠距離から狙撃された』と我々に思い込ませるために、意図的に光の罠を仕掛けた可能性が極めて高い。現場はここ、浜離宮の内部です」

増田の淀みのない分析に、米沢は「ほう、さすがだねえ」と感心したように頷いた。

増田はすぐさま後ろに控えていた若手刑事たちに鋭い視線を向けた。

「山崎、堂本。あなたたちはすぐに周囲の聞き込みに回りなさい。特に事件のあった深夜、この園内、あるいは通用口付近で不審な人物や不自然な物音がなかったか、徹底的に洗うのよ」

「了解です! すぐに行ってきます!」

突っ走るタイプの若手刑事、山崎拓海は待ってましたとばかりに拳を握り、勢いよく駆け出した。直感と行動力だけで動く彼にとって、じっとしている現場検証ほど退屈なものはない。

「山崎、待て。焦るな。聞き込みのルートを分担する。お前は東側の通用口周辺だ、俺は西側を回る」

生真面目タイプの刑事、堂本忠保がため息をつきながら山崎の襟首を掴み、冷静に引き留める。堂本は手帳を取り出し、すでに頭の中で組み立てた効率的な聞き込み対象のリストを確認していた。どれだけ山崎が先行しようとも、一つずつ地道に事実を積み上げていく堂本の捜査スタイルは、一課の中でも信頼が厚い。

「わかってるよ堂本! どっちが先に有力な証言を引っ張れるか勝負だからな!」

「勝負ではない、捜査だ。行くぞ」

対照的な二人の刑事が足早に現場を離れていくのを見送りながら、増田は再び遺体へと視線を引き締めた。

「犯人は、警察の目をビル群に向けさせて時間を稼ぐつもりだった……。だとしたら、その目論見はここで叩き潰す」

増田の内に秘めた執念が、静かに燃え上がっていた。その横で暁警視は、自らのプライドに泥を塗られたような屈辱感に唇を噛み締めながら、スマートフォンの画面を乱暴に睨みつけていた。捜査の主導権は、確実に現場の「真実」へと移りつつあった。






第9話 エリートのシナリオ


「お言葉ですが、増田警部補。君の言う『水平の光』など、現段階では憶測の域を出ないな。まずは科学的な確定要素を優先すべきだ」

増田の鋭い指摘を受けてなお、暁隼人警視は自らの判断を曲げようとはしなかった。エリートキャリア組としてのプライドが、現場の叩き上げたちの意見に素直に従うことを拒絶させている。

暁はキザな手つきで前髪をかき上げると、手元の無線機を口元に近づけ、本部に鋭い口調で指示を飛ばした。

「こちら暁。直ちに捜査員を汐留の全高層ビルへ配置しろ。昨夜の宿泊客、訪問者のリストの提出を要求する。特に庭園を一望できる客室を徹底的に洗うんだ。防犯カメラの映像データも一秒たりとも見落とすな。犯人は必ずあのビル群のどこかに痕跡を残している!」

暁の厳命により、警視庁捜査一課の大部分が対岸のビル群へと投入された。

きらびやかな高層ホテルのフロントや、最新のセキュリティが施されたオフィスビルの管理室には、たちまち強張った表情の捜査員たちが溢れかえった。

「昨夜、庭園側の客室にチェックインしたお客様全員の身元を確認させてください!」

「防犯カメラの録画、23時から午前2時までのデータをすべてコピー頼む!」

捜査員たちは、暁の期待に応えるべく、必死の形相で膨大な書類と映像データに食らいついた。もしここから国際的なスナイパーや対立組織の暗殺者が浮上すれば、暁のキャリアには確固たる実績が刻まれることになる。暁自身も、本部に設置されたモニターを睨みつけながら、「犯人は必ずここにいるはずだ」と自らに言い聞かせるように心理的な焦燥を募らせていた。

しかし、時間が経つにつれて、捜査班の空気は徐々に重苦しいものへと変わっていった。

「管理官、ホテル『ロイヤル汐留』の防犯カメラ、解析終わりましたが……不審な人物の出入りはありません。宿泊客も全員、身元が確かな者ばかりです」

「こちらオフィスビル班! 屋上および上層階の窓周辺の検分を行いましたが、硝煙反応も、何かを設置したような微細な擦れ跡も一切見つかりません!」

無線を通じて次々と飛び込んでくるのは、「収穫なし」という冷酷な報告ばかりだった。どれだけ網を広げても、決定的な証拠どころか、怪しい影すら掠りもしない。

「バカな……。あれだけの好条件の狙撃ポイントだぞ? 何も見つからないはずがない!」

暁はスマートフォンの画面を乱暴に叩きつけ、苛立ちを露わにした。彼の完璧だったはずのシナリオが、足元から音を立てて崩れ始めていた。警察の全力が対岸のコンクリートジャングルで不毛な時間を費やしているその間にも、真犯人が仕掛けた「時間稼ぎの罠」は、完璧に機能し続けていたのである。






第10話 泥臭い足跡


警察の大部分が対岸の高層ビル群で不毛な捜査に奔走する中、浜離宮恩賜庭園の周辺では、地道な聞き込みが続けられていた。

「大丈夫ですよ、ゆっくり思い出してくださいね」

刑事の里中真紀は、トレードマークである優しい笑顔を浮かべ、近所の主婦である斉藤絹代の言葉をじっくりと聞き出していた。里中は物腰こそ柔らかく親しみやすいが、いざとなれば空手黒帯の技で暴漢をねじ伏せる凄腕の持ち主だ。その独特の安心感が、極度に緊張していた斉藤の心を解きほぐしていく。

「そうねえ……。昨日の夜、夜中の一時を過ぎた頃かしら。この辺りは夜になると本当に静かになるんだけど、庭園の裏手の通用口あたりから、なんだかバイクの排気音みたいな音が聞こえたのよ」

斉藤は顎に手を当て、思い出すように語った。

「バイク、ですか。新聞配達にしては少し早い時間帯ですね」

「そうなの。ブォンって、一度だけ小さく吹かしたような音がしてね。そのあとすぐに静かになったから、気のせいかと思ったんだけど……」

「大切な情報です。ありがとうございます、斉藤さん」

里中は優しく微笑みながら手帳にメモを取ると、すぐにインカムで増田警部補へと報告を入れた。現場周辺で夜間に動いていたバイク。それは重要な手がかりになる可能性があった。

その直後、東側の通用口付近で網を張っていた山崎拓海と堂本忠保が、不審な青年を確保した。派手なジャンパーを着たその男は、バイクの配達員である小野寺翼だった。

「おい、お前! 昨日の夜中、この辺りで何をしてたんだ!」

突っ走るタイプの山崎が、小野寺の胸ぐらに掴みかからんばかりの勢いで問い詰める。小野寺は怯えた表情を浮かべ、両手を上げて激しく首を振った。

「な、なんすか急に! 俺はただ、夜間の特急配達の指定があったから、近くまで荷物を届けに来ただけですよ!」

「深夜一時に浜離宮のすぐ近くにか? 嘘を吐くとためにならないぞ!」

山崎の威圧的な態度に、小野寺は完全に萎縮して口を閉ざしかける。すかさず、後ろから生真面目な堂本が割って入った。堂本は山崎の手を優しく制すると、警察手帳を小野寺に見せ、極めて平穏なトーンで語りかけた。

「小野寺君、怯えなくていい。我々はただ、昨夜の状況を確認したいだけだ。君が配達をしていたという証明……例えば、配送管理のデータやスマートフォンの履歴を見せてもらえるかな。それが確認できれば、君の疑いはすぐに晴れる」

堂本の理路整然とした対応に、小野寺はホッとしたように息を吐き、ポケットからスマートフォンを取り出した。

「これです……。ほら、確かに汐留のオフィスビルへの深夜配達が入ってるでしょ。でも、その帰りに、庭園の門の近くで、変な女の人が歩いていくのを見ましたよ」

小野寺が漏らしたその一言に、山崎と堂本、そして合流した里中の表情が一斉に引き締まった。真犯人が残した微かな足跡が、泥臭い捜査によってようやく、その姿を現し始めようとしていた。







第11話 偽りの拒絶と動揺


「変な女、だと?」

山崎拓海が身を乗り出した。小野寺翼は気圧されながらも、記憶を辿るように視線を泳がせる。

「え、ええ。コートのフードを深く被ってて顔はよく見えなかったんすけど、黒いスポーツバッグを肩に掛けてて……。こんな時間に庭園の通用口から出てくるなんておかしいな、って思ったんすよ」

堂本忠保が生真面目な顔で手帳に素早くペンを走らせる。

「その女の体型や、歩き方の特徴は? 何か他に目立つものはなかったか」

「そこまではちょっと……。でも、暗がりに消える前に、汐留の交差点の方へ歩いていきました」

貴重な証言を得た捜査一課だったが、本部の暁警視からは全く異なる命令が下った。

「バイクの配達員の妄想に付き合っている暇はない。対立政党の鷹野一馬、および地元の名士である源義明の身辺を即座に洗え」

水原亜美の計算通り、警察の矛先は政治的動機を持つ『大物』たちへと向けられた。

龍崎厳と激しい議席争いを繰り広げていた鷹野一馬議員(45歳)は、突如として自宅に押し寄せた捜査員たちを前に、不快感を露わにしていた。

「私が龍崎を殺しただと? 冗談じゃない。昨夜のその時間は、自宅で次の本会議の資料に目を通していた。秘書もその場にいたし、書斎のパソコンのログを調べてもらっても構わんよ。私があんな男を物理的に排除するメリットがどこにある?」

鷹野は冷徹な笑みを浮かべ、毅然とした態度でアリバイを主張した。

一方、龍崎と地元の再開発利権を巡って深刻な金銭トラブルを抱えていた名士、源義明(58歳)の元へは、米沢数馬警部が直接足を運んでいた。

「源さん、ちょっと昨夜の足取りを伺いたくてねえ」

米沢が少し押しの弱い調子で尋ねると、源はあからさまに狼狽しながらも、必死に声を荒らげた。

「刑事さん、何度も言わせないでくれ! 昨夜は銀座の料亭で接待を受けて、その後は運転手の車で真っ直ぐ自宅へ帰って寝たんだ。龍崎先生の訃報には驚いているが、私には何の関係もない!」

源の額には大粒の汗が浮かんでおり、その心理的な動揺は誰の目にも明らかだった。

「管理官、鷹野議員には完璧なアリバイがあります。源氏に関してはアリバイに不審な空白時間がありますが、犯行時刻に浜離宮にいたという決定的な証拠がありません」

増田元子警部補からの報告を受け、暁警視は机を激しく叩いた。

「ええい、どいつもこいつも! 核心に迫る証拠はどこにあるんだ!」

二人の大物が見せる、完璧な拒絶と不自然な動揺。水原亜美が精巧に編み上げたミスリードの罠は、警察の判断力を確実に奪い、捜査本部を終わりのない迷宮へと引きずり込んでいた。








第12話 スペシャリストの証明


捜査本部が二人の重要参考人のアリバイ崩しと、対岸の高層ビル群の空振りに右往左往する中、警視庁の地下にある薄暗い部屋では、全く異なる角度から真実の断片が繋ぎ合わされようとしていた。

「これを見てください、皆さん」

鑑識のプロである等々力安治が、ピンセットで小さな透明なケースを持ち上げた。中には、現場の草むらから採取された、米粒よりも小さな金属の破片が収められている。

「龍崎氏が倒れていた周囲の土壌から見つかったものです。顕微鏡で分析したところ、これは高精度のアルミニウム合金。通常の銃器の部品ではなく、競技用、あるいは特殊な狩猟用のクロスボウのフレームを分解・結合する際に生じる、微細な金属の削り屑であることが分かりました」

「クロスボウ……。やっぱり、洋弓だったのね」

検死官の五月香住が、手元の解剖記録に目を落としながら深く頷いた。彼女の横には、執刀を終えたばかりの監察医、野原頼子が、まだ厳しい表情のまま腕を組んで立っている。

「等々力さんの見立てを、遺体が完全に裏付けているわ」

野原頼子は一枚のレントゲン写真と、傷口の断面を写したマクロ写真をアクリル板に貼り付けた。そこには、龍崎厳の胸部を容赦なく破壊した矢の軌跡が、生々しく映し出されていた。

「暁管理官は、高層ビルからの遠距離狙撃だと決めつけて捜査員を躍起にさせているけれど、それは医学的に100パーセント不可能です。見て頂戴。矢は龍崎氏の第四肋間から侵入し、ほぼ水平、わずかに下から上へと向かう角度で心臓のド真ん中をぶち抜いているわ」

五月香住がその言葉を引き継ぎ、人体の模型を示しながらセリフを重ねる。

「もし対岸のビルから放たれたのだとしたら、どれだけ放物線を描いたとしても、矢の侵入角度は鋭角に上から下へ向かわなければおかしい。これは、被害者と同じ地面に立ち、極めて近い距離――おそらくは数メートルから十数メートルの死角から、水平に狙い澄まして放たれた一撃よ。死因は胸部大動脈損傷による急速な失血死。即死に近かったはずだわ」

「つまり、犯人は被害者の目の前にいた……。ビルからの狙撃に見せかけるためのレーザーポインターは、警察の目を現場から逸らすための、最初からの安っぽい目くらましだったというわけね」

増田元子警部補が部屋に入りながら、プロフェッショナルたちの見解を総括した。

「ええ、その通り。犯人は現場にいた。それも、龍崎厳が警戒もせずに至近距離まで近づくことを許した、極めて親しいか、あるいは彼を油断させる材料を持った人物よ」

野原は手袋を脱ぎ捨て、冷然と言い放った。科学と医学のスペシャリストたちが導き出したこの冷徹な真実は、暁警視が躍起になって進める「ビル群の捜査」が、完全に真犯人の手のひらの上で転がされている何よりの証拠であった。







第13話 伝説の元警視の眼光


「……ふん、相変わらずあの小僧は、上ばかり見て足元の泥に気づかんようだな」

乃木探偵事務所のオフィス。流石田彰は、美衣が警察の知人から密かに入手した鑑識の等々力と監察医の野原による最新の報告書に目を通し、鼻で笑った。引きこもり生活で鈍っているかと思われた彼の刑事の勘は、現場のデータに触れた瞬間、全盛期の鋭さを完全に取り戻していた。

事務所の奥からは「げほっ、ごほっ……うう、僕の天才的な直感が、何かを……」と、熱にうなされる礼司のうめき声が聞こえるが、彰はそれを完全に無視した。

「お父様、警察の捜査本部はまだ対岸のビル群の防犯カメラ解析と、鷹野議員たちのアリバイ崩しに人員の八割を割いています。完全に犯人の思惑通りです」

美衣がタブレットのキーボードを叩きながら、冷徹な声で状況を補足する。その横で、小百合は彰の放つただならぬ威圧感に圧倒されながら、おそるおそるお茶を差し出した。

「あの、彰さん……。警察の鑑識や検死の結果が正しいなら、犯人はビルから撃ったんじゃないってことですよね?」

「当たり前だ」

彰は小百合から湯呑みを受け取ると、鋭い眼光を地図の上に落とした。

「高層ビルからの遠距離狙撃など、最初からただの演出に過ぎん。被害者の衣服に細工をしてレーザーを反射させ、いかにもビルから狙われたように見せかけた。警察がコンクリートジャングルを血眼になって這い回っている間に、犯人は悠々と現場から立ち去る……。典型的な『視線誘導ミスリード』のトリックだ」

彰は湯呑みを机にドンと置くと、親指で庭園内の特定の場所を指し示した。

「真実の鍵は、現場に落ちていた微細なアルミニウム合金の削り屑だ。犯人は凶器のクロスボウを、犯行直後にその場で分解している。なぜか? 組み立てたままの洋弓を持ち歩けば、深夜とはいえ目立ちすぎるからだ。そして、分解したパーツをそのまま持ち帰るリスクを、狡猾な犯人が冒すと思うか?」

美衣の瞳が、彰の言葉に呼応してパッと輝いた。

「……いいえ、私なら持ち帰りません。検問や職務質問に遭えば一発で終わりですもの。一番安全なのは、その場で処分すること」

「その通りだ。清掃のスケジュールから見て、現場周辺のゴミ箱にはまだ手が付けられていないはずだ。犯人は警察の目をビルに引きつけている隙に、凶器を小分けにして園内のゴミ箱に捨てた。小百合、美衣。警察が間抜けなビル風に吹かれている間に、我々が本物の物証を回収するぞ」

彰が立ち上がると、引きこもり特有の陰気さは消え失せ、飢えた狼のような凄みがオフィスを満たした。伝説の元警視による冷徹な分析が、水原亜美の完璧なはずのシナリオに、最初の決定的な亀裂を入れようとしていた。







第14話 影の横顔


流石田彰の冷徹な分析に背中を押され、美衣と小百合はすぐに行動を開始した。警察の捜査本部が鷹野議員や源氏といった表舞台の政治権力に目を奪われている隙に、彼女たちはより被害者の身近にいた人間たちの心理を洗うべく、港区のアークヒルズ近くにある高級クリニックへと向かった。

「龍崎先生のことで、何かお分かりになったのですか?」

そう言って二人を迎えたのは、龍崎の長年の主治医である日下部護(60歳)だった。白衣を着た日下部は、どこか疲弊した様子で眼鏡の奥の目をしばたたかせていた。

美衣は日下部の表情の微細な変化を見逃さず、静かに、しかし核心を突くように切り出した。

「日下部先生。龍崎氏は最近、何か特定の人物を非常に警戒していた、あるいは誰かと頻繁に密会していたという事実はございませんか」

日下部は一瞬、ためらうように視線を落としたが、深くため息をついて重い口を開いた。

「……実は、龍崎先生は最近、酷い不眠症と人間不信に陥っておられました。誰かに過去の弱みを握られた、と怯えておられてね。私には具体的な名前までは教えてくれませんでしたが、『一番近くにいる人間ほど信じられん』と漏らしていたのです」

「一番近くにいる人間……」

小百合がそのセリフを小さな声で繰り返す。

日下部のもとを辞した二人は、その足で赤坂の路地に佇む老舗料亭へと向かった。龍崎が最後の夜を過ごす直前まで利用していた場所である。

「お珍しいお客様ですこと。龍崎先生の件でしたら、もう警察の方々が何度もいらっしゃいましたよ」

艶やかな着物姿で現れた女将の安藤恵理(40歳)は、少し迷惑そうな素振りを見せながらも、美衣の真剣な眼差しに圧されてぽつりぽつりと当時の様子を語り始めた。

「あの日、先生はとても興奮していらっしゃいました。いつもならお酒を楽しまれるのに、お茶だけでずっと誰かからの連絡を待っているご様子で。お帰りになる直前、お部屋で私設秘水の水原亜美さんと、何か密談をされていたのは覚えています」

「水原亜美さん……」

美衣の脳内で、バラバラだったピースが急速に形を成していく。

安藤恵理は声を潜め、心理的な違和感を言葉にした。

「水原さんはいつも先生の影のように従順な方ですけれど……あの夜、先生が料亭を出られた後、彼女が一人で車を見送る時の横顔が、どうも耳に残っているというか、妙に冷たい目をしていらしたのが忘れられなくてね」

主治医が語った「一番近くにいる人間」という猜疑心、そして女将が見た「秘書の冷たい眼差し」。水原亜美という、これまで捜査線上の死角に隠れていた存在が、探偵たちの視界へと一気に、そして巨大に浮かび上がってこようとしていた。






第15話 消えた凶器のパズル


「……間違いないわ。犯人は、凶器をこの場所に残していった」

昼下がりの浜離宮恩賜庭園。美衣は、観光客に紛れて園内の植え込みの影に立ち、目の前にある大型のゴミ箱をじっと見つめていた。その傍らでは、大きなキャスケット帽を深く被った小百合が、周囲を警戒しながらノートを抱えている。

警察の捜査班は、今も対岸の高層ビル群での不審者割り出しと、対立議員たちの不毛なアリバイ検証に追われていた。現場周辺に残されたわずかな警察の監視の目をかいくぐり、二人は彰の指示通り、園内のゴミ回収ルートとスケジュールの裏をかいて、事件直後のまま手が出されていないエリアへと辿り着いたのだ。

「美衣さん、本当にこんな誰もが見るような場所に、人殺しの道具を捨てるでしょうか……」

小百合が不安げに声を潜める。

「ええ。犯人は心理学のプロ、あるいは人間の盲点を突き通せる冷徹な人物よ。組み立てられた状態のクロスボウは目立つ。でも、部品単位にまで細かく分解されて、ただの缶ジュースや弁当のガラに紛れ込んでしまえば、一般の清掃員はただの家庭ゴミとして処理場へ運んでしまうわ。そうすれば、凶器はこの世から完全に消滅するはずだったの」

美衣は手袋をはめた手を静かに伸ばし、ゴミ箱の奥へと手を差し入れた。すでに彰が事前に手を回し、管理事務所から手に入れた「未回収の廃棄物リスト」と照らし合わせながら、不自然に重い黒いビニール袋をいくつか引っ張り出す。

袋を開けると、中からいくつかの生活ゴミに混じって、鋭いエッジを持つ黒い金属のパーツが姿を現した。

「これ……!」

小百合が息を呑む。

「特殊軽量アルミニウム合金のフレーム。等々力さんが見つけた微細な削り屑と、完全に一致するわね。ボルトの締め跡、弦を通すための溝……これは間違いなく、龍崎厳の命を奪った小型クロスボウのパーツよ」

美衣はその金属片を光に透かし、その表面を凝視した。犯人は念入りに指紋を拭き取ったようだが、パーツの噛み合わせ部分の奥深くに、ほんのわずかな、赤黒い汚れが残っているのを見逃さなかった。

「指紋はなくても、これだけ激しく金属を分解したのなら、犯人の肉体にも相当な負荷がかかったはず。このパーツの隙間に付着しているのは……おそらく、作業の際に擦りむいた犯人の微量な血液、あるいは皮膚片ね」

美衣の瞳に、勝利を確信した超名探偵としての冷徹な光が宿る。

「これで、対岸の狙撃というデタラメなシナリオは完全に崩壊したわ。小百合ちゃん、これをすぐに探偵事務所へ持ち帰って、お父様に届けて。犯人がどれだけ完璧なアリバイを重ねようとも、この物証がすべてを裏切ってくれるわ」

「はい!」

小百合はしっかりとバッグに袋を収めると、足早に庭園を後にした。水原亜美が完璧にコントロールしていたはずの「消えた凶器」という最大のパズルは、警察ではなく、この無能探偵の留守を預かる者たちの手によって、完全に暴かれようとしていた。






第16話 剥がれゆく仮面


「これが、水原亜美の本当の顔というわけか」

乃木探偵事務所のオフィスで、流石田彰は小百合が持ち帰ったクロスボウのパーツを見つめながら、冷たく言い放った。机の上には、美衣が独自のルートで徹底的に洗った、水原亜美に関する戸籍と過去の経歴データが広げられている。

「ええ。彼女の本名は『佐藤亜美』。六年前、龍崎厳が強引に進めた湾岸地区の再開発計画によって、不当な立ち退きを迫られ、最終的に経営していた工場ごと破滅に追い込まれた佐藤鉄工所の長女よ」

美衣は淡々と、しかし確実な事実を積み重ねていく。

「当時、父親は過労と心労で自ら命を絶ち、母親も後を追うように病死しているわ。生き残った彼女は、名前を変え、経歴を偽り、龍崎の私設秘書という最も近いポジションにまで這い上がってきた。すべては、法律では裁けない龍崎への復讐を果たすためだったのよ」

「動機としては十分すぎるな」

彰は無精髭をなでながら、鋭い眼光を光らせた。

その頃、永田町のオフィスにいた水原亜美は、これまでにない心理的な圧迫感に襲われていた。

警察の捜査班は、相変わらず鷹野議員や源義明のアリバイ崩しに時間を取られている。自分の仕掛けたミスリードは完璧に機能しているはずだった。しかし、ここ数日、龍崎の主治医である日下部や、料亭の女将である安藤恵理の元に、警察とは違う「独自の調査員」が動き回っているという情報が、彼女の耳に入っていた。

(おかしい……。警察の目は確実に対岸のビルと、他の政治家に向いているはず。一体、誰が私の足元を嗅ぎ回っているの?)

亜美はスマートフォンの画面を見つめ、冷たい汗をにじませていた。

彼女が構築したアリバイは完璧だ。事件の夜、彼女は料亭で龍崎を見送った後、すぐに自身のマンションに戻り、オートロックの通過記録も残っている。庭園の防犯カメラにも、彼女の姿は一切映っていない。

だが、完璧に処理したはずのクロスボウの行方が、どうしても胸をざわつかせる。

「水原さん、少しよろしいですか?」

同僚の秘書から声をかけられ、亜美はビクリと肩を揺らした。

「え、ええ。何かしら?」

「いえ、なんだか顔色が悪いようですが……。龍崎先生のことで、お疲れが出たのではないですか?」

「……そうね。少し、横になってくるわ」

引きつった笑顔を浮かべながら、亜美は自室へと戻った。

彼女の胸中で、かつてないほどの恐怖と焦燥が渦巻き始めていた。完璧だったはずの復讐のシナリオ。その背後に、自らの存在をじっと見据える、見えない眼光の存在を、彼女の鋭い本能が察知していた。






 

第17話 歪められた真実


「……さて、迷宮入りの危機に瀕した捜査一課諸君に、私からささやかな手向けを差し上げよう」

乃木探偵事務所の応接スペース。重苦しい沈黙を引き裂いたのは、流石田彰の低く威厳に満ちた声だった。

奥の部屋からは「げほっ……うう、僕の頭脳が……」と熱に浮かされた礼司のうめき声がまだ聞こえてくるが、この場にいる誰もがそれを気にする余裕はなかった。彰の正面には、呼び出された警視庁捜査一課の米沢数馬警部と、増田元子警部補が硬い表情で座っている。

「流石田元警視……。引きこもり生活を辞めて、わざわざ我々を呼び出すとは、一体何の真似ですか」

増田が鋭い眼光で彰を睨みつける。米沢はいつも通り少し押しの弱そうな態度で「まあまあ、増田くん」と宥めつつも、かつての上司が持つただならぬオーラに背筋を正していた。

「お前たちが暁という小僧のデタラメな指揮に付き合わされ、対岸のビル群を血眼になって這い回っている姿が滑稽でな」

彰は不敵に笑うと、机の上に一つの黒いアタッシュケースを置き、それを開いた。中から現れたのは、厳重にポリ袋で密閉された、いくつかの金属パーツだった。

「これは……特殊軽量アルミニウム合金。まさか、失踪していた事件の凶器ですか!?」

増田が思わず身を乗り出す。

「その通りだ。等々力が見つけた微細な削り屑と100パーセント一致する、犯行に使われた本物のクロスボウだ。お前たちがコンクリートジャングルで風に吹かれている間に、私の娘と小百合が、浜離宮園内のゴミ箱から回収してきた」

「ゴミ箱に……? 犯人は持ち帰らず、その場で処分したというのですか」

米沢が驚きに目を見開く。彰は深く頷き、心理的な核心へと捜査員たちを引き込んだ。

「遠距離からの狙撃など、最初から警察の目を現場から逸らすための、安っぽい『視線誘導ミスリード』に過ぎん。犯人は被害者のすぐ傍にいた人物だ。龍崎厳が警戒もせずに至近距離まで近づくことを許し、事件の夜に料亭で最後に密談を行っていた、あの男の最も近くにいた人間……」

彰は机の上の資料を一気に広げた。そこには、私設秘書・水原亜美の、偽られた経歴と本名が克明に記されていた。

「犯人は、水原亜美。六年前、龍崎によって破滅させられた佐藤鉄工所の遺児だ。動機は復讐、そしてこの凶器の噛み合わせの奥には、パーツを分解した際に付着したと思われる、犯人の微量な血液が残されている。鑑識に回せば、水原のDNAと確実に一致するはずだ」

「水原亜美……あの従順だった秘書が……」

増田は突きつけられた圧倒的な物証とロジックに、言葉を失った。暁警視が躍起になって進めていた大物議員たちの政治闘争という筋書きは、この伝説の元警視がもたらした真実によって、完全に粉砕されようとしていた。






第18話 視線誘導の終焉


夜霧が薄く立ち込める浜離宮恩賜庭園は、数日前の事件の夜と変わらぬ、冷徹な静寂に包まれていた。

「……お待たせいたしました、暁管理官。お呼びだと伺いましたので、参りましたが」

水原亜美は、いつも通り仕立ての良いコートに身を包み、非の打ち所のない「健気な私設秘書」の仮面を被って、池のほとりへと歩み寄った。しかし、その視線が、暗闇の中に佇む警察関係者一同を捉えた瞬間、彼女の背筋に冷たい戦慄が走った。

そこには、苦渋の表情を浮かべる暁隼人警視だけでなく、米沢警部、増田警部補、さらには里中や山崎、堂本といった捜査一課の面々が、まるで彼女を取り囲むように整列していた。

そして、その中心に立っていたのは――普段の頼りない看板探偵ではなく、凛とした佇まいで冷たく佇む流石田美衣の姿だった。

「夜分遅くに申し訳ありません、水原亜美さん。いえ……佐藤亜美さんと言うべきかしら」

美衣の最初の一言が、亜美の心理的な防壁を容赦なく打ち砕いた。「佐藤」という本名を呼ばれた瞬間、亜美の瞳の奥が一瞬だけ大きく見開かれ、呼吸が止まる。

「何のことでしょうか。私は水原ですが……。それに、龍崎先生が亡くなられたこのような凄惨な現場に、なぜ民間人の探偵の方がおられるのですか? 暁管理官、これは一体……」

亜美は必死に声を震わせ、暁へ助けを求めるように視線を向けた。しかし、これまで傲慢だったはずの暁は、屈辱に唇を噛み締めながら黙り込んでいる。

「無駄よ。暁管理官は、ご自分が犯人の仕掛けた安っぽいミスリードに踊らされていたことを、ようやく理解されたの」

美衣は一歩、亜美へと近づいた。その後ろで、小百合が小さな発信器を手に持ち、特定のスイッチを入れる。

刹那、庭園の闇を切り裂くように、一本の微弱な赤色レーザーの光線が、亜美の胸元をピンポイントで照らし出した。

「なっ……!?」

亜美は思わず息を呑み、後ずさりした。その光景は、彼女が龍崎厳の遺体に施した、あの「遠距離狙撃の偽装」と全く同じものだった。

「あなたが仕掛けたトリックの全貌よ、亜美さん」

美衣は対岸の高層ビル群を指差すこともなく、すぐ近くの植え込みを指し示した。

「警察の目を対岸のビルへと向けさせるため、あなたは龍崎氏の衣服に微小な反射デバイスを仕込み、あたかも超高層階からレーザー照準器で狙われたかのように見せかけた。でも、本物の発信器はビルになんてない。最初から、この庭園内の死角に設置されていたのよ」

「……妄想です。そんな証拠がどこにあるというのですか。私はあの夜、料亭で先生を見送った後、すぐに自宅へ戻りました。マンションのオートロックの通過記録だってあるわ!」

亜美は声を荒らげ、自らが用意した完璧なアリバイを主張した。その表情からは、完全に秘書の従順さが消え失せ、隠しきれない焦燥と、探偵を睨みつける鋭い憎悪が剥き出しになっていた。

「アリバイなら、あなたが呼び出したバイクの配達員、小野寺翼君の証言で既に崩れているわ。あなたは深夜一時にこの通用口から出てくる姿を目撃されている。そして何より――」

美衣はポケットから、透明な証拠袋に取り出された金属片を提示した。

「あなたが完璧に分解し、園内のゴミ箱へ分散して捨てたはずの、凶器のクロスボウ。これはすべて、私たちが回収させてもらったわ。このパーツの噛み合わせの奥に、何が残されているか……あなた自身が一番よく知っているはずよ」

美衣の冷徹なロジックの実演が、夜の庭園に響き渡る。言い逃れの計画をすべて先回りされ、完璧だったはずの亜美の仮面は、いまや音を立ててひび割れようとしていた。








第19話 復讐者の慟哭


「……くっ、ふふ……あはははは!」

夜霧の立ち込める浜離宮恩賜庭園に、水原亜美の、いや、佐藤亜美の狂気じみた笑い声が響き渡った。これまでの健気で従順な秘書の仮面は完全に剥ぎ取られ、その顔に浮かんでいるのは、この世のすべてを呪うような深い復讐者の笑みだった。

「そうよ、私がやったわ。あの強欲な老害の胸に、この手で矢をぶち込んでやった!」

亜美は狂おしく叫び、取り囲む警察官たちを鋭い眼光で睨みつけた。

「完璧だったはずよ……。警察の無能どもが私の狙い通りに対岸のビルを這い回って、鷹野や源を疑っている間に、すべては終わるはずだった。なのに、なぜ……なぜあなたたちのような小娘に、私の六年間が邪魔されなければならないの!」

激しい憎悪を剥き出しにする亜美に対し、流石田美衣は一歩も引かず、冷徹な視線を崩さなかった。

「あなたの動機なら、もうすべて調べがついているわ。六年前、龍崎厳の身勝手な再開発計画によって破滅させられた、佐藤鉄工所の遺児。それがあなたね。父親を自死に追い込まれ、母親も失ったあなたの絶望は、私には想像もつかないほど深いものだったのでしょう」

美衣の静かなセリフに、亜美の身体がびくりと震えた。

「でも、どれほど正当な復讐心があろうとも、あなたが犯した罪と、張り巡らせた嘘は許されない。あなたが完璧だと信じていたアリバイも、そのクロスボウがすべてを裏切っているわ。パーツの隙間に残されたあなたの微量な血液。そこから検出されたDNAは、あなたのものと完全に一致したのよ」

増田元子警部補が、美衣の言葉を裏付けるように、鑑識の等々力から上がってきたばかりの確定報告書を厳かに掲げた。

「言い逃れはできないわ、佐藤亜美。あなたの負けよ」

増田の冷徹な宣告が、静寂の庭園に重く響く。

「負け……? 私が、負けた……?」

亜美はその場にがくりと膝をつき、湿った地面に両手を突いた。泥が彼女の高級なコートを汚していくが、もうそんなことを気にする気力すら残っていなかった。目から涙が溢れ落ち、地面の泥に吸い込まれていく。

「お父さん……お母さん……。私は、あの男に鉄槌を下したかっただけなのに……。どうして、正しい者がいつも踏みにじられて、あんな悪党がのさばり続けるのよ……」

その絞り出すような慟哭は、復讐のためにすべてを捨てて生き抜いてきた一人の女性の、悲しい終わりの心理を描写していた。

「山崎、堂本。連れて行きなさい」

米沢数馬警部が、少し悲しげな声を出しながら静かに指示を出した。山崎拓海と堂本忠保が、複雑な表情を浮かべながらも、静かに亜美の両腕を掴んで立ち上がらせる。

「……行きましょう」

堂本の促しに、亜美はもう抵抗する力もなく、ただ力なく首をうなだれて歩き出した。

大物政治家・龍崎厳の暗殺という、日本を揺るがした前代未聞の事件は、真犯人の哀しい叫びとともに、ついにその実質的な幕を閉じたのである。後に残されたのは、夜霧のなかに静かに佇む、超名探偵とその仲間たちの影だけだった。







第20話 探偵たちの日常


事件の熱狂が嘘のように去った数日後の午後。

乃木探偵事務所のオフィスには、いつもの穏やかで少し間の抜けた日常が戻っていた。

「げほっ、ごほっ……うう、僕の天才的な頭脳が、ついに世界の真理を暴いたぞ……」

奥の部屋から、ようやく熱が下がった乃木礼司が、パジャマ姿に冷えピタを貼ったままフラフラと姿を現した。彼は事件の全貌を美衣や小百合から聞かされ、自分が寝込んでいる間にすべてが終わっていたことを知ると、大げさに頭を抱えてのたうち回った。

「そんな……! 読者のみんなは僕の華麗な謎解きを待っていたはずなのに! まさか僕が寝ている間に、美衣ちゃんと彰さんが全部片付けちゃうなんて……。僕の主人公としての立場はどうなるんだい!?」

「礼司さん、病み上がりなんですから大人しくしてください。これ、お粥作ってきたので食べてくださいね」

小百合が呆れたような、それでいてホッとしたような優しい笑顔で、湯呑みとお盆を差し出す。礼司は「小百合ちゃんのお粥……! うう、これだけが僕の傷ついた心を癒してくれるよ」と涙目を浮かべながらスプーンを動かした。

その騒ぎを他所に、流石田美衣は窓辺のデスクで、今回の事件の報告書を静かにパソコンに打ち込んでいた。

「これで、龍崎厳暗殺事件の全記録は完了ね」

美衣がエンターキーを静かに叩くと、画面には「解決」の文字が浮かび上がる。彼女の横では、流石田彰がソファに深く腰掛け、小百合が淹れてくれた熱い緑茶をすすっていた。引きこもり特有の陰気なオーラはどこへやら、その佇まいはかつて警視庁を震撼させた伝説の刑事そのものだった。

「ふん。警察の面々も、少しは足元の泥を見る重要性を学んだだろう。特にあの暁という小僧は、しばらく大人しくなるはずだ」

彰は鼻で笑いながら、湯呑みを置いた。彼のもとには、今朝、米沢警部と増田警部補から、今回の非公式な協力に対する深い感謝の電話が入っていた。暁警視は自らのミスリードを認めざるを得ず、現在は本部での報告書作成に追われ、すっかりプライドをへし折られているという。

「お父様、今回の事件……佐藤亜美の動機は、法律では裁けなかった巨悪への復讐でした。彼女のしたことは決して許されませんが、その引き金を引いたのは、龍崎の犯した過去の罪です。私たちが暴いた真実は、本当に正しいことだったのでしょうか」

美衣がふと手を止め、彰に問いかけた。その瞳には、超名探偵としての冷徹さではなく、一人の少女としての割り切れない心理が揺れていた。

彰は娘の視線を受け止め、低く、しかし確固たる声で答えた。

「美衣。我々探偵は、神でも裁判官でもない。誰が正しく、誰が悪かを決める権限などないのだ。ただ、現場に残された事実を繋ぎ合わせ、歪められた『真実』を元の姿に戻す。それが我々の仕事であり、矜持だ。そこに私情を挟めば、それこそ犯人が仕掛けたミスリードの罠に自らはまることになる」

彰の冷徹で、それでいて道標のような言葉に、美衣の胸のつかえが静かに取れていく。

「そうね。私はただ、真実から目を背けない。それだけよ」

美衣は微笑むと、パソコンの画面を閉じた。

窓の外には、雲ひとつない青空が広がっている。引きこもりの元名刑事を父に持ち、頼りない看板探偵の裏で事件を解決する、少女の奇妙な探偵稼業。水原亜美が残した哀しい余韻を胸に刻みながらも、流石田美衣と乃木探偵事務所の面々は、また次なる謎が訪れるその時まで、それぞれの、愛おしい日常へと戻っていくのだった。








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