第4話【育成が始まる】――ただ大地で輝く
北関東の、つくばエクスプレスが止まる小さな街の、駅近のカフェ。
二人の男の打ち合わせは、ようやく本編が開始されていた。
「月末に北海道へ行くので、そのときこの馬の現物を見てくるんだけど――」
ここまでの熱弁に喉が渇いていたのだろう。頼んだコーラのグラスはあっという間に氷だけになってしまい、さらに紅茶をオーダーしていた調教師は、今はとりあえずコップの水を一口飲んで続けた。
「――できたら担当スタッフとも話をしてこようかなと思ってるんだ」
「あ……あの……」
ゆったりと紅茶を飲んでいた青年の表情に、サッと焦りの色が浮かんだ。この馬の育成プランについて現場へ連携されるというのであれば、「やりたいこと」を早く、実行可能な育成プランにまで落とし込まなければならない。
青年の緊張を見て取った調教師が割り込む。
「……ああ。大丈夫だよ。この時期こっちから伝えることは、だいだいいつも同じだから」
「そうなんですか?」
青年は少し拍子抜けした表情になった。
「うん。……馬の体に合わせてとにかく無理のないように、は決まり文句だな」
「……」
「あとはそれぞれだけど、いついつ頃に入厩できたらいいなと思ってる、とか。この馬だと、バッチリいける感じになるまではこっちにお願いする予定、みたいなことは言ってくると思う」
「……そういう感じですか」
青年はかなり拍子抜けした表情になって言った。
バッチリいける感じ、などと言ってしまうようだ。
「あ。あと、オーナーが若者で、育成レポート作りたいらしいから、馬の様子を今後ちょいちょい聞くと思う、も言っておこうかな。うん、これは言っておこう」
「育成レポート……ですか?」
そんな話は初耳だ。
「いや、口実だよ。こう言っとけば、様子をうるさく聞いてもそれなりに対応してくれると思う。今だと、SNSに、とか言ったらもっと効果あるかもな」
調教師は、ホントにやってみたら?と続けて、クスクスっと笑った。
「ステイヤーに育てたいとかは、話さないんですか? そういうのはまだ早い?」
青年のイメージだと、さすがに菊花賞とか春の天皇賞といった話はしないだろうとは思ったが、もう少し具体的な育成メニューに繋がる話をするものと想像していた。
「う~ん。そういうことを話す人もいるかもしれないけど……今はあまり意味がないし、下手をするとマイナスに働く恐れもあるから、自分は言わないな。まだ」
「マイナスに……なりますか?」
これも青年のイメージだと、大きな方針があるなら、それを伝えるのは早ければ早いほど効率がいいように思われた。が、どうもそうでもないらしい。
調教師は、そうか、といった様子で説明を始めた。
「育成牧場って、若駒の育成に関してはプロだから。そのスキルやノウハウは、100%活かした方がいい」
「それは……そうですね」
「そこに変に口出しして、彼らの制約になるのは得策じゃないと思う。人によるかもしれないけど、私は」
「制約、ですか……」
丁度よい、といった風情で調教師が今後のこの馬の過ごし方について説明を始めた。
「これからこの馬は基礎トレーニングが始まる。……とは言っても、つい何か月か前までは仔馬だったような馬だよね」
「それはそうですね。生まれてまだ……え~と、1年半くらいですし」
競走馬は3月か4月生まれであることが多い。
「そんな馬を、競争界のルールや常識に沿って動き、かつレースを走って勝負になる『競走馬』の形に育て上げるために、代々受け継がれて、改善も重ねてきたノウハウがある」
「そうでしょうね……。――なるほど。そのプロが育成牧場の皆さん、ということですか」
「そういうことだ。多くのことを教え込ませ、トレーニングに耐えられるフィジカルを作り、その進捗に合わせて徐々にトレーニングをハードなものにしていく、かつこれを毎日顔を突き合わせているからこそ知れるその馬の個性に合わせて、細やかにチューニングしながら実践していく、そういった技術・ノウハウだ」
「なるほど」
当然のことなのだが、改めて言葉にされるとその難しさをはじめて認識する。
「なにせ、今の段階ではどの馬も、能力の何もかもが足りていない。ステイヤーとかスプリンターとか言う以前に、まずすべての能力をレースができるレベルに引き上げないとならない。それを効率よく、短期間で実現してくれるシステムが育成牧場、ということだ」
「だから今は邪魔しないことで、そのシステムを100%活かしたい、と」
「そういうことだ。……だいたい、職人気質のスタッフも多いし」
調教師は何か過去の失敗でも思い出しているのか、ちょっと照れ笑いを浮かべた。そしてここで先刻の謎の『育成レポート』の話も、その意味が理解できた。
「なるほど、よくわかりました」
「いや、この辺は人によるかもしれないけど」
調教師は繰り返してそう言った。
そして続ける
「能力が一定のレベルになったら、最終判断は我々厩舎側との調整になるけど、育成牧場から外厩やトレセンに移して、レースに向けた仕上げになっていく。普通は」
「もうレースの準備なんですね」
「レースの準備にだいだい2ヵ月から3ヵ月。2歳の新馬戦は6月から始まるから、早い馬だと4月に入厩することになり、つまり育成牧場での育成は今から3月まで、あと残り5ヵ月、というわけだ」
「なるほど……あっという間ですね」
「残り5ヵ月というのは6月デビューの一番早い馬で、ここからは馬の成長速度によって、6ヵ月、7ヵ月、もっと長くと変わっていくわけだが――」
ここで調教師は、コップの水を飲み干すと、グッと身を乗り出してきた。
「――ここまでを、そうだな……フェーズ1としようか。この馬の場合」
調教師はいきなりフェージングを始めた。
「フェーズ1ですか。え~と……ここまでは他の馬と同じ内容の育成で、それがフェーズ1?」
「そうだ」
「じゃあ、次がフェーズ2として、この馬の独自の、ステイヤーとしての育成が始まる、ということですか?」
「その通りだ」
青年はおお…と唸る。
調教師は大きく頷いた。
「まず、フェーズ2への移行時期だが、これは5月とする。引き続き育成牧場だ」
「5月ですか。……ここまで育成牧場には口出ししない姿勢でしたが、大丈夫なんでしょうか?」
「大丈夫だ。若駒を一人前にするまでは育成牧場の、信頼と実績のメソッドでいいけど、その後の強化育成はこちら側の要望・要請を聞かないことには、牧場側もどう進めていいか分からないわけだし」
「なるほど……」
「だから、その移行のタイミングが計画から大きくブレないように、場合によっては牧場側を急かすためにも、この馬の場合は普段から育成状況をこまめに意見交換する必要がある」
「ははあ。そのための前振りだったんですね。育成レポートとか」
「まあ、あれは思い付きだけどね」
でもホントにいい方法かもな、と言って調教師は笑う。
「4月から入厩していく馬もいるわけだから、5月にそれなりの仕上がりを期待するのは自然だし、育成牧場としても、仮に入厩レベルには至っていないとしても、まだ全然です、というわけにもいかない時期にあたる。5月は」
「すごく繊細な判断方法ですね……」
ここでも、調教師の育成牧場の職人スタッフへの警戒は尋常ではない。やはり過去に何かあったのではないだろうか。
逆に、5月はどうしても譲れないライン、とも受け取れた。
「それじゃあ、5月からフェーズ2として――」
青年はここでタブレットを手に取った。
「――この馬のデビューが12月の予定で、デビューの準備に2、3ヵ月という話でしたから、仮に3ヵ月とすると――」
青年の視線に、調教師は黙って頷く。
青年は入力しながら続ける。
「デビュー準備は9月から、ですね……つまり、フェーズ2は8月まで、ということですか?」
「うん。当たりだ」
調教師は笑顔で頷いた。
ここで青年はタブレット置いて、調教師の側にクルリを回す。
「こういうこと、ですね?」
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<育成スケジュール>
11~4月 フェーズ1(全般)
5~8月 フェーズ2(強化)
9~11月 デビュー準備
12月 デビュー戦
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「うん。あってる」
画面をサラリと眺めた調教師が答えた。
デビューまでの詳細なスケジュール感と、フェーズ2が4ヵ月間であることが明らかになった。
「で、フェーズ2は、ステイヤーとしての特別強化期間、なんですよね。どんな内容になりますか?」
青年が興味深そうに尋ねる。
「ステイヤーの命といっていい、2つの要素の大幅な強化だ」
「2つの要素、ですか?」
「心肺機能と、走行中の折り合い、だ」
調教師はシンプルに答えた。
「長距離を走り抜くのに必要なフィジカル面の要素が心肺機能であり、メンタル面の要素が折り合いだ。この両面を、この期間で集中的に強化する」
『折り合い』とは、力一杯走りたい本能を抑え、騎手の指示に合わせてリラックスして走り続けることを言う。
「なるほど……分かる気がします」
青年はこれまで見てきた長距離レースのシーンを思い出しながら言った。
続けて尋ねる。
「トレーニング内容は、どのようなものになるんでしょう?」
「まずは、担当スタッフと協議だね」
「……これもスタッフさんですか」
肩透かしだった。
調教師は説明を続ける。
「ゆくゆくは長距離で使いたいから、今からそれに向けた強化をお願いしたい、という点を明確に伝える。あと、デビュー戦は12月で、ダートを予定していることもここで伝える。……ここは君にも来てもらおうかな」
「わ、私もですか!」
驚いた青年が紅茶のカップをガシャっと置いた音が、静かなカフェの店内に響いた。
「その方が、フェーズが変わった、という印象が強まるだろ? 育成牧場に依頼内容を提示する人は、契約上はオーナーなんだし」
「……確かにそれはそうですが」
担当スタッフへ指示を出すことが苦手な調教師が自分を盾にしようとしているのでは、との疑念は晴れないが、そこはとりあえず置いておく。
調教師の説明は続く。
「育成牧場には、数々の競走馬を育成してきたノウハウが豊富にある。その中にはステイヤーを強化育成したノウハウも当然あるはずだから、それをこの馬の現況に合わせて、考えられる強化メニューを出してもらうんだ」
「なるほど。育成牧場って……ホントにすごいですね」
若駒の育成からステイヤー能力の強化まで、まさに万能システムだ。
「一方で、こちらからは次のことを要望する。負荷より本数を重視した坂路調教を可能な限り高頻度で。あと、追走型の長めキャンターを日々のルーティーンにする」
ここは調教師のこだわりポイントのようだ。
「多めの坂路調教が心肺機能の強化で、追走が折り合い強化、ということですね」
「そうだ。これらに育成牧場のトレーニングメニューをミックスして、最適化する、という感じかな」
青年はまたおお…と唸り、2回大きく頷く。
信頼と実績の育成牧場の推奨メニューに、調教師肝入りの強化策。これを4ヵ月間。素人目にもかなり有効に思える。
そして言った。
「ここでも育成牧場の役割は大きいんですね」
「こと馬の育成・強化に関して、育成牧場はそのノウハウはもちろん、施設の圧倒的な規模、北海道という気候も合わせて、欠かすことができない極めて重要な存在だよ」
「ここまで聞いていてそれがよく分かりました」
追加で頼んていた紅茶が運ばれてきた。調教師はそれを一口飲み、フーッと息をついた。
どうやら育成も一段落のようだ。
「8月いっぱいでこの強化育成を終えたら、残り3ヵ月、ここからデビューに向けた仕上げに入る。この馬の場合、この仕上げの中でダート対策も行う」
「育成の最終フェーズですね」
「そうなるね。まず9月に、馬を育成牧場からトレーニングセンターに移す。そこでゲート練習して、目途が立ったところでゲート試験受けて合格させる」
「そうか。ゲート試験ってありますね。確かに」
レースを競技として成立させるため、競走馬はスムースなゲート入り・発走ができなければならず、デビューにあたってはその能力を審査するゲート試験に合格する必要がある。
「うん。これが意外と大変なんだけど、トレセンなんで、私ががんばって面倒みて、早い合格を目指すよ」
「先生がみてくださるんですね」
トレーニングセンターの中に、調教師たちが運営する厩舎がある。従って、トレセンに入るということは、調教師の管理下に入るという意味でもある。
「まあね。で、合格し次第、目途としては9月末に今度は外厩に移して、ここからダートのデビュー戦に向けて仕上げていく」
「仕上げは外厩なんですね」
外厩はトレセンの近隣にある、大型の訓練施設だ。入厩を待つ馬を預かり、その仕上げを担当している。
「ダート対策は、どんな内容ですか?」
「ダート戦は出足で置いていかれると巻き返せないので、砂でのスタートダッシュ練習かな。あと、ダート戦ではどうしても他の馬が蹴り上げる砂を顔面に受けることになるから、ダートコースで追走型のキャンターやって、砂礫に慣れさせることになる」
「これはこれで大変そうですね…」
「そうだけど……まあ、このあたりはもう安心かな」
不思議な言い回しに青年は首を傾げる。
「デビューが12月のダート戦であることを伝えて、それに合わせて仕上げてもらうだけだから。外厩に」
「……ダート対策の内容はいいんですか?」
「わざわざ指示しなくても大丈夫だよ。外厩は仕上げのプロだから」
調教師はサラッとした口調で言う。
「仕上げのプロ、ですか……色んなプロがいるんですね」
育成のプロの次は仕上げのプロだ。
じゃあ先生は何のプロなんですか、と青年は聞きそうになったが、話が長くなる予感がしたので思いとどまった。
「あまり知られてないかもしれないけど、実際はその道のプロたちで、よってたかって一頭の競走馬を作り上げていくんだ」
競走馬の育成は、専門制の高い人々による分業制が確立している、ということらしい。
「そういうことなんですね。すごく勉強になりました」
「それが分かってもらえたなら、まずは僥倖だな」
どうもこれがお気に入りのフレーズのようだ。
調教師は話を戻す。
「そしてレース日が決まり次第、半月前を目途にトレセンに入厩させる」
「再び先生のところですね」
「あとは私が、馬の調子とレースまでの日数を睨みながら、ベストのコンディションで出走できるように調整する」
「いよいよですか……先生、締めはよろしくお願いしますね!」
愛馬のデビュー戦が、いよいよ目前に迫った。
「大丈夫だ。ここまで来れば、あとは自分たちが馬に叩き込んだ能力を信じるだけだし、そうであるなら、このときそこに一片の不安もあるはずがない」
「……今なら分かる気がします。プロフェッショナルの輝きですね」
現時点からデビュー直前までのプランニングが終わり、二人はしばらく、アールグレイを飲みながらくつろいだ。
「いよいよデビュー、ですね……」
「やっとだな。まだ先は長いよ」
打ち合わせが始まってから2時間ほど。
二人の打ち合わせも、まだ先は長いようだ。
※※※
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次話「限界の彼方へ」は4/5(日)の23:30までに投稿予定です。
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