第3話【育成期間を決める】――時空の旅人
北関東の小さな街の駅近カフェ。
二人の打ち合わせは新たな局面に入っていた。
「馬の方はそろそろ北海道での基礎トレーニングに入るんだけど――」
調教師は、コーヒーに追加して頼んだロールケーキ(抹茶)にフォークを入れながら言った。
「――将来を見据えて、ここからステイヤーとしての基礎能力をじっくり鍛え込みたい、と思うよな」
「はい。ぜひ」
青年は大きく頷きながら、同じようにフォークを入れる。こちらはチョコレートケーキ(フランス風)だ。
「確かにここでじっくり鍛え込むことが、この馬の将来への大きな、何物にも代え難い財産になるだろう」
「そうですよね。大きく育って欲しいです」
目を輝かせながら言って、青年はケーキを口に運んだ。北の大地で伸び伸びと、日々成長していく愛馬の姿を思い浮かべているのだろう。
「で、その『じっくり』というのが、具体的にどのくらいの期間を指すか、つまり我々にはどのくらいの期間が与えられているのか、を考えてみる」
「……なるほど」
ファンタジックなイマジネーションは粉々に消え、青年は表情を引き締めた。
「ここで、君が菊花賞という第一目標を置いたことが合理的、といえるわけだ」
「どういうことですか?」
確かにそんな話だったが、青年には唐突感しかない。
調教師の説明は続く。
「目標から逆算して、『じっくり』の期間を決めるんだ」
「え~と、菊花賞から逆算して、ということですか?」
「そうだ」
「……」
菊花賞は2年も先の、しかも実戦である。
スケジュール作成の基本として、目標から逆算して全体計画を立てることから始まるのは分かるが、青年には菊花賞と育成期間との関係が全くイメージできない。
調教師は続ける。
「もしこれがなくて、第一目標が4歳の春の天皇賞だったとしたら、進んでいく路線に選択肢が多すぎて、いつまでに何をやればいいのかが仮定ばかりになり、具体的な育成プランに繋がらない。つまり現時点では、目標に向かうという意味での有効な育成プランは作れない、と言っていい」
「……それが菊花賞ならできる、と?」
「できる」
相変わらずイメージは全然できない。
ただ調教師の言いたいことは少し見えてきた。
目標として見たとき、菊花賞は春の天皇賞より半年以上前にあり、かつ3歳馬しか出走できないレースなので、そこに至る道のりが限られていてる、だから計画は立てやすい、ということだと理解した。
「で、菊花賞を起点に逆算を始めてみる。まずそもそもとして、菊花賞に出走できないと話にならないわけだけど、これに出走する方法は――」
調教師の説明が続く。
「『方法1』が春のクラシック戦線で活躍して賞金ボーダーをクリアしていること――」
「……」
「『方法2』が菊花賞指定のトライアルレースで3着以内の優先出走権を獲ること――」
「……」
「そして『方法3』が3勝クラスに昇級すること。この3つのいずれかだ」
「……改めて示されると、厳しさを痛感しますね」
青年はとりあえず調教師の逆算理論を傾聴してみることにしたのだが、ここで示された現実に、表情は厳しくなった。
「まず、この馬の場合、『方法1』はない」
「はい。春のクラシック戦線には参戦していませんから」
これは自明だ。
「そして『方法2』、トライアルもほぼない」
「そう思ってました。トライアルは中山の2200メートルか、阪神の2400メートルですから」
青年はこれも想定していたのだろう。
「春の実績馬を相手に、ここで中距離でのスピード勝負ができるような育成をする予定はないし、育成するとしたらこの馬の未来を別のものに変える必要があるだろう」
「その通りだと思います」
「つまりこの馬は『方法3』、3勝クラスへの昇級を目指すわけだ」
3勝クラスとはその名の通り、一般戦で通算3勝を上げている競走馬のカテゴリーだ。
「私は知らなかったです。3勝クラスは菊花賞に出走できるんですね」
「100%ではないけどね。過去の菊花賞の事例を見ると、3勝クラスが持ってる賞金なら、ほぼ間違いなく賞金ボーダーを突破できる」
無事に出走枠に入れるか除外されてしまうかの境界線を『賞金ボーダー』という。
「そういうことですか。ならつまり、デビューしてから菊花賞までに3勝しておく、ということですか」
「そうだ。で、いよいよ逆算するんだけど」
「はい」
「菊花賞は3歳10月の中旬。そして、菊花賞の前にはリフレッシュ・コンディション調整と仕上げの期間が最低で1ヵ月は必要だとすると、3勝クラスへの昇級は9月の中旬がリミット、となる」
「分かります」
「そして、だ。ここがポイントなんだけど――」
調教師は右手でフォークを握りしめ、グッと身を乗り出す。
「――長距離馬として育てているこの馬が勝ち上がるのに、すごく適したレースがある」
「そうなんですか!」
「うん。それが、6月から8月まで行われている、北海道シリーズだ」
「北海道シリーズって、函館と札幌の連続開催のことですか? 夏競馬っていわれる」
夏競馬は、春のG1シリーズがすべて終わり有力馬が休養に入る時期に開催される。一般ファンには地味な存在だ。
「そうだ。この北海道シリーズの何がいいかというと、各クラスにいくつか、芝2600メートルのレースが設定されているところだ」
調教師は目をギラつかせて語る。よほど狙いが強いのだろう。
「2600メートルですか!……この時期なら、この馬にちょうどいい気がします!」
「そうなんだ。シリーズの終盤、8月の下旬の2勝クラス『阿寒湖特別』まで使ったとしても、菊花賞までの間隔は約60日ある。だからこの北海道シリーズで、どうあっても3勝目を挙げておきたい、ということなんだ」
「なるほど。すごく分かりました」
青年の目もギラついてきた。
「むしろ、ここしかない、と思っていてくれ。菊花賞ギリギリまで育成・強化を続けて勝負するこの馬の場合、ここを逃して9月の中央に戻ったら、少なくとも君の言う『勝算を持って出る』という状況にはできないだろう」
「わ……分かりました」
「ただし。……ただし、だ」
調教師はここでさらに顔を近づけてきた。
「……6月から8月って、3ヵ月だよね」
「はい」
「だから北海道で走れるのは、各月1戦として、最大3戦までと思ってくれ」
「え~と、3戦ですか」
調教師の力説は続く。
主張の核心に近づいてきたようだ。
「分かる? デビューから菊花賞までに3勝する必要があって、北海道シリーズで走れるのは3戦。つまり3勝すべてを北海道で上げようとすると、一戦も落とせない、ということになるわけだ。……これって、計画として楽観的に過ぎるだろ?」
「はい。その通りだと思います」
「だから、北海道シリーズが始まる前に未勝利を脱出して1勝目を上げておき、北海道シリーズは最大3戦で2勝を上げる、と計算するわけだ」
「……う~ん。なるほどです」
青年にもロードマップのアウトラインが見えてきた。
「そして、ここからまた逆算する」
「……」
「最大3戦で2勝が必達の北海道シリーズは、当然だけど馬を目一杯に仕上げて、一戦必勝で臨むことになる。だから、北海道シリーズの前は、それに備えて完全なリフレッシュと、芝2600メートル仕様への再ビルドアップ、そして実戦に向けた仕上げが必要だ。これには3ヶ月かかる、と思ってくれ」
「……」
3ヶ月は少し長い気がしたが、ここはスルーすることにする。おそらく何か狙いを持っているのだろう。
「北海道シリーズの、おそらく初戦となる1勝クラス『駒ヶ岳特別』は、6月3週あたりに設定される。ここから3ヵ月遡ると、それは3月3週。つまり――」
「3月3週が、未勝利脱出のリミット、ですか」
「そういうことだ。つまり今からだと、え~と……17ヵ月後、になるのかな」
「……あってると思います」
急にリアリティが増すのを感じる。
調教師の言っている意味がようやく分かってきた。
「そしてここが一番難しいところなんだけど、この馬はダートでデビューさせようと思う」
「え~と……ダートデビュー、ですか」
話の展開の早さに、青年は懸命についていく。
一般ファンは競馬といえば緑のターフをイメージするものだが、下級戦はダートコースで行われるレースの方が多い。
「新馬戦や未勝利戦には長距離レースなど存在しないどころか、ほとんどが2000メートル未満の、短距離戦かマイルに近い中距離戦だ。仮に芝のレースを選ぶとして、これに対応するスピード強化を行おうとするなら、この馬の未来を別のものに変える必要があるだろう」
「よく分かります――」
聞いた気がするフレーズだが、長距離馬の育成をテーマとする青年は、これには完全に同意だ。
「――で、計画上、ダートの方がまだ勝ち目がある、ということですね」
スピード勝負になる芝に対して、ダートはパワーの勝負とされている。
「そうだ。ダートの、ある程度長目のレースを選び、無理やり先手を取って、スタミナ任せに押し切る単純な戦法が合うと思う。未勝利クラスであれば」
「なるほど」
理に適っているように感じる。
「前置きが長くなったが、そういうわけなんで、未勝利戦はある程度苦しむことを覚悟してくれ」
「勝ち上がるのに何戦かかかる、ということですね?」
初めからダート戦をターゲットに育てられている馬もいることだろう。勝ち上がりが容易でないことは想像がつく。
「ここは馬の能力への期待も込めてだけど、3戦以内に初勝利、を目途にする」
調教師が示した目途は、思ったより甘めだった。
「芝の長距離向けに育成してきたこの馬でも、3戦で勝ち上れるでしょうか?」
「勝ち上れるように育成するんだ」
「わ、わかりました」
軌道修正を許さないときの、調教師の必殺のフレーズだ。
「……ということは、北海道シリーズと同じく各月1戦、と考えると、未勝利脱出の所要期間は3ヵ月、ですか?」
「うん、分かってきたじゃない。その通りだ」
調教師は嬉しそうに、小さく何度か頷く。
「ありがとうございます。すると、3ヵ月遡って、デビュー戦は1月になりますか」
「合ってるよ。ただ出走登録のテクニックの関係上、もう1ヵ月早めて、12月デビューとしたい」
「テクニック、ですか?」
何か技があるらしい。
「まあ、簡単に言うと、出走除外をできるだけ逃れるための工夫だ。1月と2月の未勝利戦は必ずといっていいほどフルゲートになり、出走を除外されるケースが多発するんだ」
「そうなんですか……勝ち負け以前に、走れないのは厳しいですね」
「なので、12月までなら除外されにくい新馬戦がまだ多くあるので、これを出発点にしていく」
『新馬戦』はデビュー初戦となる馬だけが出走できる特別な未勝利戦だ。
テクニックというからには何かもっと細かなからくりがありそうだが、青年は今はその方が出やすい、ということだけを理解するに留めた。
「12月となると……今から14ヵ月後ですか。どんどん時間が迫ってきますね……」
「でも、早い馬だと4月5月にもうゲートを兼ねてトレセン入れて、6月や7月からデビューし始めるんだよ。この12月には、同期の馬たちによる2歳チャンピオン戦が行われてるし」
12月には2歳王者を決める、世代最初のG1レースがある。
「そうですよね。そう見るとかなり……遅れてますね」
「そう。そしてこれが、この馬の大きなアドバンテージになるんだ」
調教師は、言いたかったことがついに言えた、という風情だ。
「アドバンテージ、ですか」
「育成・強化の期間、つまり最初に言った『じっくり』の期間が、早期デビューの馬に比べて6ヵ月長いということだ。しかもこの長い部分は、真夏のシーズンを含んでいる。同期の馬が暑さとレースで疲弊してる間も、涼しい北海道で、質の良いトレーニングを黙々と積めることが、この馬のアドバンテージになるんだ」
「なるほど……これがこの馬の『じっくり』ということなんですね」
「そういうことだ。……そんなに余裕はないだろ?」
デビュー戦は14ヵ月後。
なんとなく無制限にあるように思えていた育成期間が、具体的な月数に置き換えられて、実感する。
「そうですね……思ったほどには」
「そしてまさに今日、これからの13ヵ月間で、世界を制するステイヤーの土台を作り上げなければいけない、ということだ」
全くその通りだ。
そして競走馬のライフサイクルの早さを、ここで改めて思い知る。
「一日も無駄にできないですね」
「それが分かったなら、まずは僥倖だな」
調教師はどこで知ったのか、不思議な言葉で話を締めくくった。
「で、先生。このあとは?」
「うん。全体像が共有できたと思うので、改めて、今この時点からの育成内容とローテーションについて詰めていこう」
「はい。よろしくお願いします!」
青年はここで調教師のオーダーを聞いて、紅茶とコーラを追加注文した。
二人の議論は、序章、インターミッションを終え、ようやく本編へと進む段階のようだ。
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次話「ただ大地で輝く」は3/29(日)の23:30までに投稿予定です。
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