第1話【イメージを語る】――永遠の3・6秒
10月の北関東、つくばエクスプレスが止まる小さな街。開店直後の駅近くのカフェの、少し薄暗い、奥まった席。
男が二人、テーブルを挟んで座っていた。
「でも先生、ホントに良かったんですか? お忙しいでしょうに」
20代半ばと見える青年は心配そうに言った。
「いや、気にしなくていいよ。それくらいの時間はあるし――」
先生、と呼ばれた50代に見える男性は、コーヒーをスプーンでかき回しながら、
「――ずっとお世話になってる君のお父さんに、早くツケを返したいし」
ちょっといたずらっぽい表情で言う。
「いや、お世話になってるのは父の方だと思いますけど」
青年は困ったような苦笑いを浮かべる。
「その……馬の方もまだ、慣らしをはじめたばかりなんですけど……」
「いや、この段階だからこそ、オーナーと調教師がビジョンを共有するのは面白いと思うよ」
50代の男は、どうやら調教師のようだ。
「オーナーって……ただ父に、一頭好きにしていいから勉強しろって言われただけなんですけどね」
青年の父親は複数の競走馬を所有する、いわゆる『馬主』のようだ。青年は、その将来の後継者ということなのかもしれない。
おそらくその指導役を任されたらしい調教師は、気にせず続ける。
「それに、この時代に正真正銘のステイヤーを育ててみたいというのが、なんだかすごく面白くて楽しみだよ」
ステイヤーとは、長距離レースを得意とする競走馬を指す。
育成の方針は既に共有されているようだ。
「初めてなので、まず何かテーマを持って教えてもらった方がいいかなと思って」
調教師は同意したのだろう、小さく2回頷いた。
そして続ける。
「血統見たけど、その『テーマ』にすごく合っていると思う」
「そう思われますか?」
まだ恐縮が消えていない様子だった青年は、ここでグッと身を乗り出す。
「うん。何というか……まあこればっかりは走ってみないと分からないんだけど――」
続きを促すように、青年は調教師を見つめる。
「――主流のサンデーサイレンス系で3000メートル級のG1いくつも勝ってる父親に、母方の一転して古風な、パワーとスタミナがにじみ出てる血脈の組み合わせ。特に母系にパーソロンが入ってるのが非常に面白いと思った」
「先生がそう言ってくれるのは心強いです」
青年はすぐ、目を輝かせて言った。彼なりに血統はかなり調べていたのだろう。
「あとね。北海道の場長に聞いたら、『いい心臓してる』って獣医が言ってたらしいよ。この馬」
「それ、私も父から聞きました!」
本当ならかなりいいニュースだ。
「月末に北海道行くんで、実物を見てこようと思ってる」
「はい!ぜひよろしくお願いします」
打ち合わせがはじまってまだ5分程度だが、お互いに固さもすっかり消えたようだ。示し合わせたように、二人はテーブルに置かれたコーヒーを口に運んだ。
「で、今日はまず、この馬をどうしたいのか、具体的に何を目標にするつもりなのか、そこから教えてくれる?」
調教師が、スッと真剣さを加えた口調で青年に告げた。
話が本題に入ったようだ。
「はい。あらかじめ言われていたので、考えてきました」
青年は脇に置いたカバンから少し慌てた様子でタブレットを取り出した。
「あの……」
操作中のタブレットと調教師の顔を交互に見ながら、青年は話す。
「素人丸出しの、空想みたいな目標だとは思うんですが……」
「それは想定できてるよ。何を言っても大丈夫だ」
調教師は安心させるように、何度か頷きながら言う。
「では……書いてきたので……え~と、これです」
青年はタブレットをテーブルに置き、調教師側から読めるようにクルリと回した。
画面には、大きめのフォントで次の内容が表示されていた。
------------------------------------
<目標>
1.菊花賞に出ること(勝算を持って)
2.春の天皇賞に勝つこと
3.凱旋門賞に勝つこと
------------------------------------
それほどの情報量が書かれているわけではない、しかし大それた内容が書かれた画面を、調教師は表情を変えずに、思いのほかじっくりと見つめた。
青年は一緒に画面を見るような角度で、しかしそんな調教師の表情を上目で見ている。
「うん。なんというか……面白いな。色々」
調教師は呟くように言う。
「すいません。大それたことを簡単に」
自覚は十分にあるようだ。
「いや、それは全然いいよ。最初なんだし、これくらい言って悪いことはない」
調教師は特に気にする様子もない。
コーヒーを一口飲んで、続ける。
「それより……これ、書かれていることは少ないけど、すごくいいな」
「あの……そうですか?」
覚悟していたものとは違う反応に、青年は意外そうに尋ねる。
「うん。いいね。明快な目標で、しかも書かれていないことも含めて、すごく的確に見える。文字は少ないけど、裏でかなり考えたんじゃない?」
「はい。自分なりには」
開き直ったのか、青年の雰囲気も腹の据わったものに変わっている。
「じゃあ、順を追って聞いていくけど。最初の目標は菊花賞になってるよね。――春のクラシックは、いいの?」
皐月賞、日本ダービー、菊花賞は合わせてクラシック三冠とされるが、『春のクラシック』は前の2つを合わせた言い方だ。多くの競走馬が目標にする花形レースだ。
「はい。事前に話した通り、長距離戦に特化したステイヤーを育てたいので、皐月賞やダービーは考えなくていいと思ってます」
「どうして?」
「ステイヤーを育てる上で、回り道になるかな、と。春のクラシックを目標に入れると」
「うん。……やはりしっかり考えてるみたいだな」
春のクラシックはステイヤー向きのレースとはいえない上に、花形レースのため出走への競争も厳しい。
調教師は満足そうに続ける。
「春のクラシックに本気で取り組むと、出るのはもちろん、出るための権利取りや、それに向けた調整とかでほとんどカレンダーが埋まってしまう。入厩から3歳夏まで、ステイヤーとしての能力を高める育成はかなり限られるだろう」
「やはりそうですよね。……本当は、菊花賞もどうするか悩んだんです。負担になりそうで」
「でも入れた、と」
「はい。菊花賞はやはりステイヤーにとって檜舞台ですし。それに3000メートル戦に照準を合わせるわけだから、ステイヤー育成の上で回り道にはならないかな、と」
菊花賞の開催は秋。3000メートルの長距離戦だ。
調教師は小さくだが何度も頷いた。
「分かった。いいと思うよ。それどころか、詳しくはあとで話すけど、育成面でかなり合理的だと思う」
「そうですか。よかったです」
会話のテンポがよくなってきた。
「あと、ここだけ『勝つ』じゃなくて『出る。勝算を持って』になってるのは?」
「菊花賞は3歳馬だけのレースなので負けても再挑戦ができません。なのでここは勝ち負けじゃなく、その過程を目標にした、ということです」
「なるほど。つまり、勝てる状態でレースに送り出してやることが目標、と」
「はい」
「うん。よく分かった」
澱みない青年の答えに満足したのか、ここで調教師は小さく笑みを湛えて、頷いた。
「で、2番目の目標が、春の天皇賞か。ステイヤーという以上、これは欠かせないよな」
「長距離戦の最高峰ですから。真っ先に浮かんだ目標です」
春の天皇賞は伝統の3200メートル戦で、その存在自体がステイヤーの歴史といっていい。
「ちなみにこの目標の立て方からすると、デビューから真っ直ぐ菊花賞を目指して、その後は、ルートはともかく、春の天皇賞へ向かうということになるよね」
「そうなりますね」
「リストの中にジャパンカップや有馬記念がないけど、それはいいの?」
調教師はタブレットに落としていた視線を上げて、青年の顔を見た。どちらのレースも、トップホースなら必ず視野に入れるビックレースで、クラシックディスタンスと呼ばれる、長目の中距離レースだ。
「はい。ジャパンカップも有馬記念も、秋の天皇賞も外しました。どれも近年はスピードとキレが生きるレースになったように思えるので、この馬が目指す姿には合わないかなと」
「それに対応する回り道をするくらいなら、初めから目標から外す、と」
「はい」
「いいね。見解もその通りだと思うし、常に育成を意識しているのが伝わってくるよ」
このあたり、二人は波長も合ってきたようだ。
「そう言ってもらえてありがたいんですが、でも、3つ目の目標が……」
「凱旋門賞か」
凱旋門賞は、フランスで開催される世界レベルの中距離戦、クラシックディスタンスだ。
「……はい。いろいろ考えて、結局こうなりました」
「いろいろとは、どんな?」
「最後の目標として、世界一のレースに挑めないか、と考えて――」
青年は少しためらってから続けた。
「――ここ最近の凱旋門賞のレース映像を見て、自分のイメージするステイヤーなら、通用するように思えたんです」
「つまり、ロンシャンの2400メートルは、スピードとキレが武器になりにくい。逆に言えば、この馬が目指す姿でも勝負できる、ということか」
「そうなんです!先生もそう思われますか?」
青年は真剣な表情で調教師の顔を見つめた。
凱旋門賞が行われるフランス・ロンシャン競馬場は、柔らかくて深く沈む欧州コースの代名詞だ。
「うん。基本的には同意だ。ただ、単に長距離馬・ステイヤーとして一流というだけで攻略できるレースではない。どんな走りをする馬か、それもあわせて考える必要がある」
「脚質、ということですか?」
「まあ、雑に言うならそうなるけど、もっとこう……君の中に、この馬に期待する走りのイメージはある?」
「実はあります」
即答されたのが意外だったのか、調教師は少し驚いた表情を見せた。
「ほう。話してみてよ」
「え~と……。ちょっと言葉にしにくので――」
青年はここで、テーブルに置かれたタブレットを自分の方に回して引き寄せた。
「代わりに見てもらいたい映像があるんです」
「そうなの?」
ふたたびタブレットの向きを調教師側に戻し、操作を続ける。
「今出しますね。え~と……うん、これです。流しますよ」
動画が再生され始めた。
「何かのレース映像だな」
「はい」
「……え~と、これは……」
調教師はグッとタブレットに顔を近づける。
「あれ?これって……」
「ご存じと思いますけど、1995年に川崎競馬場で行われた『エンプレス杯』です」
「もちろん知ってるけど……ひょっとして、このホクトベガの走りをイメージしてるってこと?」
調教師はこのレースの勝ち馬の名前を言った。
「そうです。ほら、ここでもう他馬とは手応えが違いますよね」
青年は早くも映像に見入っているようだ。
レース動画の再生が進む。
「この3コーナーあたりでもう馬なりで先頭に出て――」
「……」
調教師も無言で画面に見入る。
「――直線はもう、2番手がカメラに収まらなくなるほどの大差です」
画面上では、ホクトベガがただ一頭でゴール板を通過していった。
「……まあ、何度見てもすごい光景だけどな……」
ホクトベガがゴールしてから、まるでゴール付近の静止画像かと思われる映像になり、3.6秒後に、やっと現れた後続馬たちがバラバラとゴール板を通過して、動画の再生は終了した。
「……いや。これは全く予想してなかったな。エンプレス杯のホクトベガの映像を見せられるとは」
「すいません。地方のダート戦だし、長距離戦でもないんですが。でもこれが、自分のイメージにすごく近い走りなんです」
青年は続ける。
「自分がすごいと思うのは、4コーナーを回る時点ですでに決着を付けてしまっているというところです」
「つまり、え~とだな――」
調教師は目を閉じ、右手の中指で額を押さえて少し考えたあと、顔を上げる。
「道中は周りに楽をさせないラップを淡々と刻んで――」
「……」
「周りが疲れてラップが落ちるところで逆にペースアップして突き放し――」
「……」
「4コーナーを独走で回って、そのままセイフティリードでゴールする、ということか」
「はい、そういうことです!」
的確な解釈・解説に、青年が嬉しそうに答える。
「う~ん……王道中の王道だな」
「どうでしょう?」
「参った。すごくいいと思う。これができれば、正真正銘のステイヤーでありながら、凱旋門賞も戦えるだろう」
調教師の手応えは、かなりいいようだ。
「ホントですか?」
「ああ。そもそも、差しとか先行とかの型通りの単語じゃなくて、こういう具体的なイメージを持っているのがすごくいいよ。あとで話すけど、これなら育成目標において、強化ポイントがとても明確にできる」
調教師がちょっと興奮気味に続ける。
「さらに言うと、この馬の血統構成がその走りのイメージにすごく合っていて、実効性を補強している」
そして
「いいんじゃない。3つ目の目標、凱旋門賞で」
と話をまとめた。
「ありがとうございます。よかったです!」
自分の意図が100%伝わったことを理解した青年は、心から嬉しそうに言った。
調教師は満足そうに頷きながら、ゆっくりとコーヒーを口に運ぶ。
二人の会話が始まってから30分ほど。
議論はいよいよ熱気を帯びてきたようだ。
※※※
お読み頂きありがとうございました。
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