二話 母であり王妃である人
広間の熱がようやく落ち着きを取り戻した頃、広間の扉が開かれた。
「エリシア、少しよろしいかしら」
静かでありながら、誰も逆らえない声が響いた。
王妃であり、わたくしの母。そして、わたくしが次に落とすべき”駒”だ。
白銀の美しい髪を結い上げ、真珠の首飾りを纏うその姿は、優雅で、冷静で、そして何より、盤上を読む者の目をしている。
ざわり、と空気が変わった。
アルドリックも、レオニスも、一歩退いて深く頭を下げる。
わたくしも優雅に一礼した。
「王妃様、本日はこちらへは来られないと聞いておりました」
「ええ。ですが面白いことになっていると聞かされては顔を出さないわけにはいかないでしょう?」
にっこり笑って、わたくしに手を差し伸べる。
「エリシア、こちらへ」
それだけで十分だった。
わたくしたちは夜会の広間を離れ、奥の小さな応接室へと入る。
扉が閉まる。
音が、遮断される。
母娘ではない。
ここからは王族同士の会話だ。
王妃は椅子に腰を下ろし、わたくしをじっと見つめた。
「……あの場であなたが王位を示唆するとは思わなかったわ」
「示唆ではございません。わたくしの本心からの意思表示です」
即答。
王妃の唇がわずかに上がる。
「あなた、変わったわね」
ぴくり。
わたくしは一瞬だけ目を細めた。
やはりこの方は侮れない。
「変わった、とはお母さまから見てどのように?」
「そうね。まず今までと目つきが違うわ。数日に一度くらいしか会わなくても私の娘ですもの、分かるわ。あなたの中で何か別の人格が生まれたようだ、と思えるくらいの変わりようだわ」
恐ろしい。
さすがお母さま。
「あなたは聡明ではあるけれど、私の知っているエリシアならあそこまでまるで掴むように人心を掌握できるはずがないもの」
「褒め言葉として受け取りますわ」
王妃は笑わない。
だが視線は温かい。
「本気なのね」
「ええ」
間髪入れずに首を縦に振る。
「この国を良くするためには、わたくしが最良です」
「最良、なのね。最高、ではなく」
「最高にするために、まずは最良の女王となりますわ」
沈黙。
わたくしの目の前では母ではなく、王妃が思案している。
臣下に嫁がせるはずだった第二王女が突然王位を宣言するとは思ってなかったはずだ。
「第一王女は他国に嫁いだ。弟である王子はまだ幼い」
ゆっくりとわたくしが今の現状を口にすると、王妃が慎重に言葉を紡ぐ。
「王位継承順位を動かすということは、貴族勢力の再編を意味するわ。それは承知の上ね?」
「承知しております」
「反発もある」
「当然です」
「あなたは血を流さずにそれをやるつもり?」
わたくしは少しだけ微笑んだ。
「必要であれば、流します」
王妃の瞳が鋭くなる。
「ですが、もし血が必要となれば、最小で済ませます。この国の護るべき民にはその血は決して望みません。彼らを庇護するのはわたくしの命をかけて成し遂げるべきことだからです」
そう、わたくしが望むのは……。
「わたくしが欲しいのは恐怖による服従ではありません。この国をよりよい未来へ導くための忠誠と志です」
王妃は黙る。
わたくしはここぞと畳みかける。
「弟王子は聡明です。いずれ優れた王になる資質を持っているとは思いますが、今はまだ幼く、どのようにも染まる可能性もあります。でしたら、王子の資質をわたくしが正しく染めたいのです。王子をわたくしの腹心としてお付けください。そのうえであの子自身に生きる道を選ばせたいのです」
王妃の指先が、わずかに止まる。
弟の資質。
母として最も敏感な部分。
「……あの子の道を作りたい、ということ?」
「ええ」
柔らかく。
「大人になり、彼が王となりたいと思った時、わたくしは彼の手本でありたいのです」
「その時は弟に王位を譲る意思はあるということ?」
「そうですね。その時の情勢次第でしょうが、無駄に争うつもりはございませんわ」
これは本当だ。
わたくしだって弟は可愛い。
まだ8歳の幼いあの子は2年後には帝王学を学び始めることが決まっている。
そのいばらの道を少しでも調え、歩きやすくし、彼が選べる道は一つではないことを教えたい。
初めて、王妃の表情が揺れた。
それは母の顔。
「あなたは」
静かな声。
「本当に女王になりたいの?」
「いいえ」
即答。
「なるべきだからなります」
部屋の空気が変わる。
王妃の背筋が伸びる。
試しは終わった。
「理由は?」
「私が最も適任だからです」
「そうね。先ほどの広間を統べるあなたはとても素晴らしい手腕だったわ」
「わたくしは恐れられることも、嫌われることも、利用されることも耐えられます。ですが、弟にはこんな幼いうちからそんなことには触れてほしくないのです。帝王学を始めれば否応なしに様々なことに振り回されるでしょう。ですが、学びの場には逃げ場所も必要ですわ」
沈黙。
長い、長い沈黙。
その沈黙ののち、王妃はゆっくりと立ち上がり、わたくしの前へ歩み寄る。
「……あなたは私の娘でありながら、私より冷静ね」
「光栄ですわ」
次の瞬間。
王妃はわたくしの顎に指を添え、上を向かせた。
「覚悟はあるのね?」
「ございます」
「孤独になるわよ?」
「慣れております。それにわたくしにはわたくしを支えてくれる者たちがおりますわ」
ほんの一瞬。
王妃の目に哀しみがよぎる。
そして。
「よろしい」
静かに、しかし確かに告げた。
「私はあなたを支持します」
空気が震える。
それは母の言葉ではない。
王妃の宣言だ。
「ただし」
わたくしを見る。
「甘さを見せた瞬間、私があなたを切るわ」
ぞくり、と背筋が震える。
最高の条件ですわ。
「お母様ほど心強い後ろ盾はございません」
「違うわ」
王妃は微笑んだ。
「後ろ盾ではない。共犯よ」
共犯。
なんて甘美な響き。
「今夜から、王位継承の流れを変える」
王妃は静かに告げる。
「まずは宰相派を取り込む。次に軍部。最後に宗教」
「宗教は難敵ですわね」
「だからあなたが落としなさい。まずは宰相からよ」
ふ、と笑う。
「あなた、得意でしょう?」
……恐ろしい母。
わたくしは深く一礼した。
「承りました」
扉の外には、忠犬と騎士団長がわたくしを待っている。
盤は整った。
母が味方になったのではない。
王妃が、王を選んだのだ。
そしてその王は、わたくし。
王妃は微笑んで言った。
「エリシア」
「はい」
「あなたが女王になったとき、私はあなたを誇りに思うわ」
わたくしは微笑む。
「今から誇ってくださってもよろしいのですよ?」
王妃が、初めて声を上げて笑った。
――王位争いは、もう始まっている。
王妃は笑い終えると、ゆっくりと窓辺へ歩み寄った。
月光が白銀の髪に落ちる。
「エリシア。あなたは女王になると言ったわね」
「はい」
「ならば、まず一つ問うわ」
振り返る。
王妃の瞳は、冷たい湖のように澄んでいた。
「あなたは――私を利用できる?」
一瞬の静寂。
甘い問いではない。
これは確認だ。
娘としてではなく、政敵にもなり得る存在としての確認。
わたくしは迷わなかった。
「もちろんです」
王妃の眉がわずかに動く。
「お母さま。あなたはこの国の国母。貴族の半数はあなたの視線一つで動く。利用しない手はありません」
「では、私が邪魔になったら?」
「排除いたします」
きっぱりと言う。
だってお母さまはそう言ってほしいのだから。
そしてわたくしはそれができる。
空気が張り詰める。
だが、わたくしは続ける。
「ですが、お母様が邪魔になる未来は来ません」
「なぜ言い切れるの?」
「あなたは国を愛している。わたくしも同じです。目的が同じなら、敵になる理由はない。甘いと断じられますか?」
王妃はじっと見つめる。
「……甘い理想ではなく、娘としての甘えでもなくあなたはそう思うの?」
「利害の一致ですわ」
ふ、と王妃が小さく息を吐いた。
「なるほど。情ではなく合理で来るのね」
「情は後から育てればよろしいのです」
「怖い子」
「お母さまの娘ですもの」
「そうね」
そう言いながら、王妃の声はどこか誇らしい。
「エリシア。あなたは昔、王妃になりたいと言っていたわね」
「幼少期の黒歴史は忘れてくださいませ」
「あら、可愛かったわよ?ドレスを引きずって玉座に座って」
「今でも座れますけれど」
「……そうね」
王妃の瞳がやわらぐ。
「あなたはもう、座る側の目をしている」
そして。
「……私はあなたを支えるわ」
はっきりと。
「公では“慎重派”を装う。王の意向を尊重する立場を崩さない。その裏で、継承法の解釈変更を進める」
さすがでございます、お母さま。
「女性継承を認める先例は?」
「三代前に一度ある。だけど宗教が強く反対した記録が残っているわ。書庫に記録があるから自分で確かめなさい」
「分かりました。三代前と言うと、約100年ほど前ですね。今回も宗教は反対に回るでしょう。なので、既成事実を作ったうえで後で落とします」
「ええ。だから先に宰相よ」
王妃は椅子に戻り、静かに指を組む。
「宰相は私の幼馴染。情に厚く、国を第一に考える男」
「つまり、理屈が通れば動く」
「ええ。だけど彼はあなたを“妹”として見ている。そこが問題ね」
兄のように扱ってくる厄介な保護者枠の大人。
「感情を外させます」
「どうやって?」
わたくしはにこりと笑う。
「わたくしを女王として扱わせればよろしいのです」
「……簡単に言うわね」
「簡単ではありません。ですが可能です」
「自信の根拠は?」
「わたくしはあの方より、この国の未来を具体的に語れます」
王妃はしばらく考え、扇を鳴らした。
「よろしい」
と頷いた。
「三日後、私が宰相を茶会に呼ぶ。あなたも同席しなさい」
「ありがとうございます」
「その場であなたが彼を納得させられなければ、この話は白紙よ」
「望むところですわ」
王妃は立ち上がる。
そして、わたくしの額にそっと口づけた。
王妃としてではなく、母として。
「エリシア。私はあなたを守らない」
「承知しております」
「だけど」
静かに囁く。
「あなたが世界を敵に回したとき、最後まであなたの隣に立つのは私よ」
胸の奥が、わずかに熱くなる。
……ずるい。
政治の盤上でこれを言うのは反則ですわ。
わたくしは一歩下がり、優雅に礼を取った。
「共犯者として、どうぞよろしくお願いいたします」
「ええ、女王陛下候補」
扉が開く。
外にはアルドリックとレオニス。
わたくしが出てくると、二人の視線が集まる。
「どうなりましたか」
騎士団長の低い声に、わたくしは優雅に微笑む。
「王妃は味方です」
アルドリックがほっと息を吐き、レオニスの瞳が鋭く細められる。
「本当に?」
「ええ」
わたくしは扉の向こうを振り返らずに告げる。
「母ではなく、王妃がわたくしを選びました」
月が高い。
盤は整った。
次は――宰相。
兄の顔をした最大の関門。
あの人は、国のためなら王妃やわたくしを泣かせることも厭わない人だ。
わたくしは扇を広げる。
「さあ。理性で口説く時間ですわ」




