8(終)
あの日――森の奥で、瘴気の結晶が崩れ落ちてから、いくつかの季節が過ぎた。
王都から北境に来て、もうすぐ一年。
私にとって、二度目の秋を迎えようとしていた。
朝晩の風はもうすっかり冷たくなっていて、ここに来たばかりのころを思い出す。
けれど、北境で暮らす人々は……あのころとはまるで違った。
砦やその周辺の町で息苦しさを訴える者は、目に見えて減っていた。
森の見回りに出た兵の具合が悪くなることも、ほとんどなくなった。
瘴気の影響は、完全に消えたわけじゃない。
あの日を境に森からは噴き出さなくなったけれど、空に残っていた黒いもやは、すぐには消えなかった。
それでも、こうして穏やかな日々を過ごせている。
◇ ◇ ◇
少し前に父から届いた手紙には、こんなことが書かれていた。
意外なことに、ロイベルは瘴気の件を報告しに王都へ赴いた際、私の元婚約者ルシアンの見舞いにも立ち寄ったそうだ。
王都の瘴気が薄まったころ、ルシアンが意識を取り戻したことは、私も知っていた。
けれど、ロイベルはそんなことひと言も言っていなかったから、初めて知って驚いた。
ロイベルはルシアンに、「あの時、命をつないだ薬が誰のものだったのか」――それだけを、淡々と告げて帰ったそうだ。
父がその話を知ったのも、つい最近のことだったらしい。
そして、ルシアンは……静養の名目で、神殿の療養院へ移されたらしい。
彼の新しい婚約者となったマリエラもまた、献身を示すべきとして付き従わされ、人前から姿を消した。
華やかな祝福を受けるはずだったふたりに残されたのは、喝采のない、長く静かな日々だけだった。
そのことを知っても、とてもすっきりした気持ちになんてなれなかった。
ただ、あの人たちのことはもう……自分とは遠い場所の出来事になったのだと、はっきり感じた。
手紙の最後には、私が「毒薬令嬢」なんて呼ばれていた噂も、とっくに消えたと書かれていた。
エルネリア家の汚名が返上できたこと自体は、素直によかったと思う。
けれど、私自身にとってはもう、そんなことはどうでもよかった。
そう、私は王都には帰らず……薬師として北境に残ることを選んだ。
父も母も、私が選んだ道ならと、最後には頷いてくれた。
今日も、薬師としての仕事のひとつ――あの人のための薬を作っている。
◇ ◇ ◇
ロイベルの執務室の前に立ち、扉をノックする。
「ロイベル様、ソフィアーナです」
「入ってくれ」
いつもどおりの、落ち着いた低い声が返ってくる。
扉を開けると、ロイベルは机に広げた地図の上に片肘をつき、書類に目を落としていた。
その顔色には、以前と比べてすっかり血の気が戻っていた。
ただ……黒髪に混じっていた青灰色は、まだ少し残っている。
肌に浮いていた瘴気の黒い紋様も、よく見ればわかる、という程度まで薄くなった。
完全に消えたわけじゃない。
(いつかは……薬で消すことができればいいのだけれど)
そんなことを考えながら、鞄から小瓶を取り出す。
「ロイベル様、今日のぶんの薬です」
小瓶の中身は、相変わらず濁った深緑色のままで……キツい臭いも、まったく変わっていない。
効き目を抑えたぶん、副作用はほとんど出なくなったけれど。
「ああ……ありがとう」
薬を受け取ったロイベルは、いつものようにすぐに栓を抜き、そのまま飲み干した。
その顔色は、飲む前後でなんら変わりはない。
たまに、自分の薬が信頼されていることよりも……彼の味覚のほうが心配になる。
――なんて、思っていたら。
「ソフィアーナ嬢……俺は別にいいんだが、本当にもう少し……なんとかならないのか? 他の連中が、この薬を飲んでいるのを見ると……そろそろ気の毒になってきてな。兵長も、ついに俺にだけ弱音を吐いた」
「うっ……申し訳ないです。でも、その……何度も試してはいるんですけれど、それだけはどうしても上手くいかなくて……あはは」
笑って誤魔化す。
やっぱり、ロイベルもずっと平気な顔をしながら、本当は我慢して飲んでいただけらしい。
「まあ、薬の本質は『効くこと』だと示すには、ちょうどよいのかもな。……ところで、ソフィアーナ嬢」
「はい。なんでしょう?」
「明日の予定は? 薬の仕事は入っているか」
「明日ですか? ええと……最近は具合の悪い人もあまりいませんし、新しい配合を試すか、新しい素材でも採りに行こうかと考えていましたけれど」
「最近の君は、自分で素材を採りに行くのが好きだな……まあいい。明日、どこかで時間をくれ。ようやく仕事が落ち着いてきたんだ」
「時間……なにか、薬についてのご用ですか? それでしたら、明日なんて言わずにいますぐにでも――」
「違う」
ロイベルはバッサリ言い切ると、椅子からゆっくりと立ち上がった。
そのまま私のそばまで歩み寄って……じっとこちらを見下ろしてきた。
(うう……ロイベル様はそもそも背が高いのに、軍服だから余計に威圧されている感じがするのよね……)
いまだに慣れなくて目を泳がせていると、彼は静かに口を開いた。
「素材を採りに行くついででも構わない。……君と一緒に過ごしたいんだ」
「はあ……でも、いまもこうして一緒に過ごしているのでは……?」
「……本当に厄介だな、君は」
ロイベルが小さく、ため息を吐く。
その反応で――どうやら自分が、やらかしてしまったらしいことに気づいた。
「えっ……あっ……ええっ!?」
顔が一気に熱くなり、体ごと背ける。
「ええと、あの……明日は、はい。何時でも、大丈夫ですので……素材を採りに行くのは、また今度にします……」
「そうか。では、明日迎えに行く」
それだけ告げると、ロイベルは机に戻っていった。
私はまだ、彼の顔をまともに見ることができなかった。
いけないとわかりながらも、顔を伏せたまま、
「それでは……失礼します」
と言って、扉に向かった。
「ああ、また明日な。……楽しみにしている」
扉が閉まる直前、確かにそう聞こえて――静かになった廊下に、自分の鼓動だけがやけに大きく響いている気がした。
(明日はなにを着ていこう……)
そんなことを考えたあとで、
(……いやその前に、髪についた薬の匂いをどうにかしなきゃ)
と、小さく息をつく。
そうして私は、少しだけ浮き足立ったまま、自分の部屋へと戻っていくのだった。
【完】
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