7
砦から森へ向かう道を、誰も口を開かないまま歩いていく。
遠くに見える森と、その上にかかる黒いもやが近づくにつれ、胸の奥を塞ぐような息苦しさが少しずつ増す。
(あんなに強い薬を飲んだのに……)
砦を出る前に、ロイベルや兵長たちにも薄めた薬を飲んでもらっていた。
それでも、私でさえこれだけ苦しいのなら、みんなはもっときついはずなのに――誰ひとり顔には出さなかった。
やがて、森の入り口が見えてきた。
枝先に霜が降りた冬の森は、ひっそりとしている。
ここまで来たのは初めてだけれど、砦の近くよりも、空気がずっと重たく感じられた。
(寒い……)
吐く息は白く、頬を刺す空気は冷たい。
外套の前を、ぎゅっと寄せる。
ロイベルや兵長たちも、厚手の外套に身を包んでいた。
森の手前で、ロイベルが足を止める。
私はその背に声をかけた。
「辺境伯様。この先へ進む前に、一度薬を調整させてください」
短く頷いたロイベルは、砦を出た時よりもわずかに顔色が悪く見えた。
はやる気持ちをぐっと抑え、持ってきた調合道具を手早く地面に並べた。
(まずは、強めの薬を少しだけ和らげてみよう……)
慎重に手を動かし、薬を調整しては、ロイベルに少しずつ試してもらう。
森の奥ではもっと強い薬を使うことになるだろうし、ここで無理はさせないよう気をつけながら。
ひとまず、この場ではいちばんよさそうな薬を飲んでもらうと、ロイベルが兵長に告げる。
「兵長たちはここで待機だ。俺たちが戻ったら、すぐ砦へ引き返せるよう備えてくれ」
「はっ!」
力強い返事の奥ににじむ心配を背に、私とロイベルは森の奥へと足を進めた。
◇ ◇ ◇
ロイベルのすぐ後ろを追うように、足早に進む。
木々のあいだを抜ける風は冷たく、足元の土はじっとりと湿っていた。
ふと、来た道を振り返る。
森の入り口は、もう木立の向こうに隠れていた。
戻る道が遠ざかっていくのを感じながら、前を行く背中へ視線を戻した。
(大丈夫……大丈夫だから……)
なにが大丈夫なのかなんて、自分でもわからない。
それでも、そう自分に言い聞かせて進むしかなかった。
途中で何度か、森の入り口より少し強めにした薬を、ロイベルに試してもらううちに……ふと気づく。
森に近づくだけで増していた息苦しさが、いつのまにか少し和らいでいた。
――『俺が瘴気を抱え込むぶん、まわりの瘴気は少しだけ薄くなる』
ロイベルは前にそう言っていた。
もしかしたら、強い薬を飲んでいるぶん――彼のまわりの瘴気は、森のなかでさえ薄くなるのかもしれない。
もちろん、まったく平気というわけじゃないけれど……おかげで私は、薄めた薬を飲むだけで済んでいた。
どのくらい歩いただろうか。
前方の木立が、ふっと途切れた。
その先にあったのは、ぽっかりと開いた窪地と――人の背丈をはるかに超える、黒く濁った結晶のような塊だった。
根元には黒い泥のようなものが絡みつき、そこから噴き上がる黒いもやが、窪地を中心に森の上へと広がっている。
その塊は、半ば崩れた石の祭壇の中心部を深く抉るようにして、せり上がっていた。
近づくだけで、肌がぴりぴりと痛んだ。
「なに……あれ……」
思わず目を見開く。
私の斜め前に立つロイベルも、息を詰めたまま動かなかった。
――その肩が、わずかに震えていることに気づく。
「辺境伯様……?」
回り込むようにして見上げると……その顔色は、森の入り口に来た時よりも明らかに悪くなっていた。
「辺境伯様……っ、大丈夫ですか!?」
彼の袖を掴んで支え、窪地から少しでも引き離そうと身体を引く。
ロイベルは片手でこめかみのあたりを押さえながら、引かれるまま足を動かした。
その場に膝をつくのとほとんど同時に、私は急いで薬の小瓶を地面に並べる。
(さっき飲んでもらった薬でも足りないなら……あとはもう、いちばん強い薬しかない)
ためらいながらも、その小瓶をロイベルの口元へ運ぶ。
ひと口含ませた瞬間――
「……っ」
きつく眉を寄せる。けれどすぐに息を整えていた。
「ありがとう、ソフィアーナ嬢……」
そう短く言うと、頭を軽く振った。
「まさか、森の奥がこうなっていたとはな……。濃すぎる瘴気は黒いもやとして見えるが、あの結晶は――瘴気そのものが形を持ったようにしか見えん。あんなものは、初めて見た」
「瘴気そのものが、形を……」
繰り返しながら、どうしてそんなものがここにあるのかと息を呑む。
その戸惑いを拾うように、ロイベルがぽつりと言った。
「……遠い昔、この地の『穢れ』を王家が封じた話がある。完全には封じきれなかったそうだが……これがそうなのかもしれんな」
ロイベルはゆっくりと立ち上がる。
「辺境伯様……もう少し休まれたほうが……」
慌てて声をかけたけれど、彼は首を横に振るだけだった。
「瘴気をどうにかする手がかりだけでも掴めればと思っていたが……ここから見ただけでは、よくわからん。少し近くで確かめてくるから、君はここで待っていてくれ」
そう言い残し、窪地のほうへ近づいていく。
「待ってください……! 私も行きます!」
調合道具をその場に置き、薬の小瓶だけを持ってロイベルのもとまで駆け寄る。
足を止めた彼が振り返る。
「ソフィアーナ嬢……君はちっとも、俺の言うことを聞かんな」
もはや呆れる様子さえ見せなくなったロイベルが、淡々と続ける。
「その目の下のクマも……俺が気づかないと思ったか。薬を頼んだのは俺だが、無理だけはするなとあれほど言ったのに」
「うっ……でも、いまは違うんです! 辺境伯様が強い薬を飲んでいるぶん、森のなかでも、まわりの瘴気がいつもより薄まってるみたいで……だから、その……むしろ、おそばにいたほうが――」
必死になって訴えると、ロイベルが片手で軽く制してきた。
「もういい、わかった。……俺のそばから離れるな」
そう短く言われ――なぜだか、ひどく落ち着かなかった。
「はっ……はい……!」
小さく頷き、ロイベルのすぐそばへ寄る。
いつでも薬を取り出せるよう、布包みを抱え直した。
結晶のほうへ近づくにつれ――心なしか、まわりの黒いもやの流れが変わった気がした。
まるで……ロイベルの身体に吸い寄せられるように。
そのたびに、彼の歩みがわずかに重くなる。
「大丈夫ですか……?」
声をかけると、ロイベルは短く「ああ」と返した。
「瘴気が取り込まれている感覚はある。だが、そこまで影響は感じられない。……君の薬のおかげだな」
「……ありがとうございます」
嬉しいような、畏れ多いような、気恥ずかしさに目を伏せる。
けれど次の瞬間、その言葉の重みが胸に落ちてきた。
(ロイベル様の身体が無事で済むかは……私の薬にかかってるんだ)
やがてロイベルが、結晶の前に立つ。
足もとに広がる、泥のような瘴気の塊を踏みしめながら。
ぐちゃりとした感触が足裏に伝わるたび、生気かなにかを吸われていくような気がした。
「……ソフィアーナ嬢」
ロイベルは振り返ることなく呼んだ。
「先ほどの薬を頼む」
「えっ、はい……」
鞄に戻していた、いちばん強い薬を急いで取り出し、栓を抜いて横から差し出す。
「どうぞ、辺境伯様」
ロイベルは薬を受け取ると、ひと息に飲み干す。
「……ッ、は……」
顔を歪め、喉元を押さえる。
そのまま、苦しさを逃がすように外套の襟元を緩め、詰襟に手をかけた。
金具が外れ、瘴気の黒い紋様が浮かぶ首筋があらわになる。
私は空になった小瓶を受け取り、ロイベルの様子が落ち着くのを待った。
しばらくすると、肩で息をしながらも「……大丈夫だ」と短く言った。
「効きは問題ない……痺れと、焼けるような痛みに耐えられれば、息苦しさはほとんどない。これなら――」
(……これなら?)
疑問を抱くよりも早く、ロイベルは結晶に向かって手を伸ばした。
「へっ、辺境伯様……!? なにを――」
その手が結晶に触れた瞬間、表面を覆っていた濁った黒が、ロイベルの手へ引き寄せられるように集まりはじめた。
瘴気が、彼の腕を通して吸い上げられるかのように、首筋の紋様が一気に濃く浮かび、黒髪に混じる青灰の筋も色を増す。
結晶そのものも、じわりと溶けるように崩れはじめる。
ロイベルが低く呟く。
「……もしやと思って触れてみたが、本当に取り込めるとはな」
額に玉のような汗を浮かせながら、声は妙に落ち着いていた。
見ているこっちの心臓がもたない。
「もう……辺境伯様は、どうしてそう平然と無茶をなさるんですか……」
張りつめていた息が、ようやく少し抜けた。
……とはいえ、まだ安心できる状況ではなかった。
ロイベルも、真剣な声色で続けた。
「あれをすべて取り込むことができれば、この国に広がる瘴気そのものを――本当に、どうにかすることができるかもしれんな」
その言葉を聞いても、驚き自体はなかった。
彼ならそう判断するだろうと、自然に思えた。
それでも、思わず声が強くなる。
「むっ、無茶ですよ! いくらなんでも、辺境伯様の身体がもちません……!」
なんとか止めようとしたけれど、ロイベルは答えず、ただ、
「ソフィアーナ嬢。次の薬を」
とだけ告げた。
(もう……言うこと聞かないのは、どっちなのよ……)
すぐに次の薬を用意する。
(でも、こんなに強い薬を飲んでも、すぐに次が必要になるなんて……どれだけ濃い瘴気なの……)
ロイベルは片手を結晶に当てたまま、もう片方の手で小瓶を受け取り、飲み干す。
直後、先ほどよりも深く顔を歪めた。
「ぐ……っ、ぅ……」
喉元を押さえ、浅く息を継ぐ。
肩がわずかに上下していて、見ているだけで苦しさが伝わってきた。
薬の小瓶は、まだたくさん持ってきている。
けれど、薬が途中で切れる心配よりも、飲ませ続けなければいけないことに胸が苦しくなり……つい息を呑んでしまう。
その気配に気づいたのか、ロイベルはふっと口元を緩めた。
「……また、そんな顔をする。俺が耐えさえすれば、それで終わるかもしれないんだ。どれだけの兵や民が苦しんでいたかを考えれば……俺ひとりの負担で済むなら、安いものだ」
「でも、それでも……辺境伯様が、皆の苦しさをひとりで引き受けているのは……辛いです」
そう言って、わずかに目を伏せる。
これ以上、彼の苦しむ顔を見ていられなかった。
一拍置いて、低い声が返ってきた。
「そんなことはない。俺の苦しさを支えているのは……君の薬だ」
「えっ……」
顔を上げると、ロイベルは結晶のほうを向いたままだった。
「君の薬があったから、ここまで来れた。耐えようと思えた。いま俺を支えているのは――君だ」
返す言葉が、見つからなかった。
ただ、手の中の小瓶を落とさないよう、ぎゅっと握りしめた。
そんな余韻を断ち切るように、ロイベルは言う。
「次の薬を」
そのあとは、ただ同じことの繰り返しだった。
結晶の瘴気を取り込むたび、ロイベルの呼吸は浅くなり、首筋の紋様が濃く浮く。
喉の奥で息を詰めるような音が混じりはじめ、薬を飲んだあともしばらく肩で息をする時間が続いた。
呼吸の乱れかたを見て、次の小瓶を差し出す。
もう言われなくても、その頃合いはわかるようになっていた。
けれど、その間隔はみるみる短くなっていった。
声は掠れ、言葉を返すのも厳しそうだった。
気づけば結晶は、最初に見た時よりかなり小さくなっていた。
とはいえ、消えきるにはまだ遠い。
その時――ロイベルの肩が大きく揺れた。
結晶に触れたままの腕が、目に見えて震える。
次の瞬間には、がくりと片膝をついていた。
「辺境伯様……!?」
このままではまずい。
とっさに腕を掴んで引いたけれど……なぜか、その手だけは離れなかった。
まるで、結晶のほうがロイベルを離すまいとしているみたいに。
「そんな……どうしたら……」
せめて、早く次の薬を飲ませないと。
膝をついたロイベルのそばへしゃがみ込むと、急いで小瓶を取り出し、口元へ運ぶ。
彼はわずかに顔を向け、なんとか唇を開いた。
けれど、流し込んだ薬は喉の奥まで落ちきらず、苦しげに咳き込んだ拍子に半分ほど口からこぼれた。
顎から喉元へ、濃い薬液が筋になって伝う。
(だめだ……このままじゃ足りない)
結晶の表面では、ロイベルの手に集まっていたはずの黒い濁りが、ゆっくりと戻ろうとしていた。
彼の手が離れれば、ここまで取り込んだものまで逆流するかもしれない。
だからといって、これ以上飲ませれば副作用はさらに強くなる。
それでも――
「――飲んで、ロイベル様」
気づけば、そう言っていた。
片手で小瓶を持ったまま、もう片方の手でロイベルの顎を支える。
こぼれた薬で濡れた口元を親指でぬぐい、喉が少しでも通りやすいよう顔を支え直した。
「お願いです、ロイベル様……これを飲まないと、もっと危ない……!」
至近距離で見上げた顔は、もう青ざめきっていた。
薄く開いた唇の奥で、喉がひとつ震える。
一気には流し込まなかった。
こぼれないぎりぎりの量を、何度かにわけて口へ含ませる。
そのたびにロイベルの喉元に手を添え、飲み下すのを待った。
苦痛に顔を歪めながらも、今度は薬をこぼさなかった。
喉が動く。もう一度。さらにもう一度。
最後のひと口を、ロイベルは苦しげに、どうにか飲み下した。
喉が大きく上下する。けれど、息が楽になったようには見えない。
表面の黒い濁りは、ふたたびロイベルの手に集まり始めた。
結晶もまた溶けるように小さくなっていき、その勢いも増していく。
(たぶん……もう少しなんだ)
あとは、ロイベルの身体が耐えきることを信じるしかなかった。
彼の様子を慎重に見ながら、薬を飲ませ続ける。
そうしているうちに、やがて――ついに結晶は、音もなく崩れ落ちた。
結晶のかけらは、根元に絡みついていた泥のようなものと一緒に、黒いもやになって薄れていく。
窪地を覆っていたもやも、みるみる空へ引いていき、見えなくなった。
残ったのは、半ば崩れた祭壇の石と、冬の白い空だけだった。
次の瞬間――ロイベルの身体から、ふっと力が抜けた。
「ロイベル様!」
慌てて抱きとめる。ずしりと重かった。
息をしているのを確かめようと、顔を覗き込む。
腕の中で、ロイベルの目がかすかに開き、その視線が揺れながらも私に向いた。
その瞬間――張りつめていたものが一気にほどけた。
泣きそうなのか、安堵しているのか、自分でもわからないまま……彼の肩口に、自分の額を押しつけた。
「よかった……ロイベル様、よかった……」
この時だけは、瘴気の大元が消えたことよりも……彼を失わずに済んだことのほうが、ずっと大事だった。




