4
名前を呼ぶ声と同時に、ぐい、と腕を引かれる感覚があった。
落ちていくはずだった視界が、別の方向に引き戻される。
硬い床にぶつかると思っていた背中は、予想に反して何か温かいものに支えられていた。
革の金具の、かすかに冷たい匂いがする。
「……ッ」
息を呑んで顔を上げると、すぐ目の前にロイベルの横顔があった。
片腕で私の肩を抱き寄せるように支えながら、反対の手で階段脇の石壁に手をついている。
黒髪の間に混じる青灰色が、近すぎる距離で揺れた。
「……階段で倒れるのは、洒落にならんぞ」
低い声が、耳元で静かに落ちる。
いつもと変わらない調子なのに、その奥には、わずかな苛立ちと、抑えた焦りが混じっているのがわかった。
「すっ、すみません……! 大丈夫、ですので……」
なんとか立ち上がろうとして、また膝が笑う。
そのたびに、ロイベルの腕にぐっと力がこもった。
「無理をするな。……詳しい話は、執務室で聞こう」
静かな一言で、今日の仕事はもう続けさせてもらえないのだと悟る。
(あ……やりすぎたんだ、私)
頭のどこかでずっとわかっていたことに、ようやく追いついた気がした。
◇ ◇ ◇
気づけば、ロイベルの執務室のソファに座らされていた。
肩には厚手の毛布がかけられ、目の前の低いテーブルには、ハーブティーの香りのするカップが置かれている。
机の向こうに立つロイベルは、腕を組んだまま、しばらく何も言わなかった。
鋭い視線が一度だけこちらをかすめて、すぐに書類の上へ落ちる。
(……ロイベル様、怒ってるよね。そりゃそうだ……階段から落ちかけるとか、迷惑以外のなにものでもない)
胸の奥がきゅっと縮む。
沈黙に耐えきれず、自然と口が開いた。
「その……さっきは、本当に――」
言い終える前に、低い声が落ちてきた。
「……すまなかった」
「――へっ?」
あまりに予想外すぎて、間の抜けた声が出てしまった。
(なんで……ロイベル様が謝るの……?)
ロイベルは組んでいた腕をほどくと、書類から視線を上げ、ゆっくりと私を見る。
黒い瞳に、申し訳なさがにじんでいた。
「君を止めるのが遅かった。最初から、『無理はするな』ときちんと言っておくべきだった」
「い、いえっ! 悪いのは、私のほうで……」
慌てて立ちあがろうとすると、ロイベルはこちらに手を向けて制した。
「動かなくていい。座っていろ」
強い口調の奥に、抑えた焦りが混じっていた。
私は短く「はい……」と答えて、そっと座り直す。
ロイベルは手を下ろさないまま、指先で額を押さえた。
「……階段で、君の体が崩れたのを見た時――瘴気にやられた兵が倒れるところと、重なって見えた」
一拍置いて、小さく息を吐く。
「正直……ああいうのは、もう見たくない」
「……」
彼は私に、怒りを向けていたのではなく――その時の恐怖や不安を、思い出していたんだ。
途端に、今度は罪悪感のような黒いもやが、胸の内に広がる。
額から手を離したロイベルが、私の目をじっと見てくる。
「薬についてのすべてを、君に任せておきながら……倒れかけるまで気づかなかったのは、俺の落ち度だ」
「でも……無茶をしたのは、私の勝手で……」
「それでもだ」
かぶせられた声は低いけれど、責めるというより、どこか自分に向けているみたいだった。
「君がここに来てから、砦や町がどれだけ楽になったか……毎日、兵長から聞かされている。皆が『あの薬のおかげだ』と、口をそろえていたと」
「そ、そんな……大げさです」
思わず否定しかけたところで、ロイベルは軽く首を振る。
「大げさじゃない。砦の空気がこんなに変わったと思えるのは……ここに来てから、初めてだ」
淡々としているのに、言葉の芯はやけにまっすぐだった。
「だからこそ――薬より先に、君が倒れるのは困る」
ちくりと胸が痛む。
「……そう、ですよね。ここに来てからようやく、北境のために役に立てるようになったのに――」
絞り出すように言うと、ロイベルは一瞬だけ目を伏せ、それからこちらをまっすぐ見る。
「北境のためでもあるが……俺が、見たくない」
「え……?」
「瘴気で崩れ落ちる背中を、もうこれ以上……目の前で増やしたくない。兵でも民でも、君でも同じだ」
言いながら、少しだけ表情をゆるめる。
「できれば君には、北境の薬師として長くここにいてほしい。だが――仮にも伯爵令嬢だ。いつまでも俺の勝手で、こんな辺境に置いておくわけにはいかない」
ひと呼吸おく。
「……せめて、預かっているあいだくらいは無事でいてくれ。君をやつれさせたまま、王都へ返すわけにはいかない」
「はい……気をつけます」
そう返事をしながらも……頭のなかは、「長くここにいてほしい」という言葉でいっぱいだった。
ロイベルに正面からそう言われたという事実に、胸の奥がじんと熱くなる。
(迷惑をかけてしまったのに……そんなふうに思ってくれるなんて)
ロイベルは視線をいったん私の前に置かれたカップへと落とし、それからまたこちらを見る。
「飲め。温かいうちに」
「……ありがとうございます」
両手でカップを包むと、指先から少しずつ温かさが染み込んでくる。
ハーブティーをひと口含んだところで、ロイベルがふと思い出したように言った。
「それと――」
「はい?」
「まさかとは思うが、今日は薬に関する作業はすべて禁止だ。寝ろ。明日の朝、目の下のクマが少しでも薄くなっていたら……許可を出そう」
「うっ……」
今日はもう仕事をさせてもらえないだろうなと思ってはいたけれど、まさかクマのことまで言われるなんて。
(……というか、ロイベル様も私のクマ、気になってたんだ……恥ずかしい)
何も言えず、視線を床に落としたまま、ちびちびとお茶を飲む。
ロイベルは小さく息を吐き、半ばあきれたように言った。
「君は自分の疲れどころか、見た目の変化にも疎いようだな。王都に帰ればまた、社交の場に出ることになるのだろう?」
「……どう、でしょうね」
困ったように笑ってごまかす。
(王都じゃ、私はもう『毒薬令嬢』だし。社交の場になんて、本当に戻れるのかしら)
カップのなかの淡い琥珀色を見つめていると、ロイベルが短く区切るように言った。
「いずれにせよ――北境にいるあいだは、俺の預かりだ。もう一度言うが、まずは眠れ。いいな?」
「……はい」
空になったカップをテーブルに戻して立ち上がると、ロイベルは軽くうなずき、視線を扉のほうへと向けた。
「おやすみ、ソフィアーナ嬢」
「おやすみなさいませ、辺境伯様」
一礼して執務室を後にする。
さっきまで包んでいたカップの温かさが、まだ手のひらに残っていた。
◇ ◇ ◇
翌朝。
言われたとおりぐっすり眠ったおかげか、いくぶんすっきりした気持ちで目を覚ました。
部屋を出たところで――廊下にロイベルが立っていた。
目の下をじっと確かめられた瞬間、心臓が止まりそうになった。
(まさか、本気でクマの具合まで見るとは思わなかった……)
「昨日よりはマシだな」と淡々と言われたのが、妙に恥ずかしかった。
そのあとも廊下ですれ違うたびに、さりげなく視線を落とされているような気がする。
おかげで、もう夜更かししようなんて思えなくなった。
◇ ◇ ◇
それから数日――夜通し作業するのだけはきっぱりやめるようにして、前ほどクマが目立たなくなったころの午後。
(たまにロイベル様が、ちらっと目の下を見てくるけれど……きっともう、大丈夫なはず)
そんなことを思いながら、今日作った薬の小瓶たちを机の上に並べる。
ようやくひとつ――症状の重い人たちのための配合が、「これなら」と思える形に落ち着いたのだ。
兵長に作業部屋まで来てもらい、今日の薬の配合について簡単に説明する。
話を聞き終えた兵長が、腕を組み直した。
「この薬を、症状の重い連中に飲ませてみる……ってことで、いいんだな?」
「はい。まずは少人数から様子を見ようかと」
兵長とそう確認したあと……私は、用意しておいた小瓶のうち一本を、そっと脇に避けた。
(これは……ロイベル様のぶん)
それからふたりで、重症の兵たちが寝かされている部屋――前に案内された、あの奥の部屋へ向かう。
横たわった兵たちはみんな細い息をしながら、それでも前に比べれば、目にわずかな力が戻ってきている気がする。
一本ずつ薬を飲んでもらい、時間をおいて様子を確かめていく。
言葉を返せる兵たちは、「胸の苦しさが少し楽になった」「さっきより息が入りやすい」と、前よりはっきり言ってくれるようになっていた。
その一方で、横たわったまま返事のできない兵たちにも、匙で少しずつ薬を流し込んでいく。
きゅっと強張っていた喉の動きがいくらか柔らぎ、荒かった息も、ほんの少しだけ落ち着いたように見える。
(……効いている、気がする。けど、「気がする」だけじゃ、まだ心許ないな)
それでも、声を出せる重い人たちが口々に「楽になった」と言ってくれた事実に――私はほっと胸を撫で下ろした。
それから兵長と、残りの薬を誰から順に回していくかだけ簡単に決めて、ひとり部屋を出た。
(次は……ロイベル様にもこの配合がどう効くのか、確かめなきゃ)
作業部屋に戻り、棚の端に避けておいた小瓶をひとつ手に取る。
その足で、ロイベルの執務室へ向かった。
◇ ◇ ◇
「症状の重い兵たちのための配合ができた、と聞いた」
執務室に入るなり、机の向こうに立つロイベルがそう告げた。
「はい。今日のぶんを何人かに飲んでもらったんですけど……胸の苦しさや息のしづらさが、前よりはっきり和らいだって言っていました」
「そうか……順調なようで、なによりだ」
ふっと口元がゆるむ。
そのわずかな笑みに……なぜだか胸がドキリとした。
誤魔化すように、慌てて用件を続ける。
「それで、ですね。前にお願いしたとおり、辺境伯様にも試していただきたくて」
小瓶を一本取り出し、ロイベルに差し出す。
薬を受け取った彼はすぐに栓を抜き、中の色をじっと見つめる。
「君の薬は、色も臭いも……変わらないな」
「……やっぱり、怪しいですよね」
苦笑いしながら返すと、ロイベルはゆっくりと首を横に振る。
「見栄えだけよくして、ろくに効きもしない薬より、よほど信頼できる。ただ、あの夜――半分は覚悟を決めて飲んだのは、事実だがな」
「……えっ!? 躊躇なく飲んでたように見えましたけど……」
驚きが、口から勝手に飛び出してしまった。
こんな怪しいものを毒味もさせずに飲む偉い人なんて、たぶんロイベルくらいだと思う。
そんな私の反応など意にも介さず、あの夜と同じように、ロイベルは薬を口元へ運んだ。
喉仏がひとつ上下するのを、息を詰めて見守る。
数秒の沈黙のあと――彼の眉が、かすかに寄った。
「……前より、だいぶキツいな」
低く息を吐き、喉元を軽く指で押さえる。
「舌と指先が、少し痺れる。それから、喉の奥が熱い。だが――」
そこで短く息を吸い直し、胸に手を当てる。
「さっきまでより、息苦しさがいくらか引いていて、呼吸もしやすい。……重いほうには、こっちが合っていそうだ」
私は慌ててメモを取る。
(これが、返事すらできなかった兵たちの……代わりの声にもなるんだ)
「ありがとうございます……他の人たちの記録と合わせて整理できたら、また報告しますね」
顔を上げると、ロイベルはいつもの調子で短く頷いた。
「ああ、頼む。……これで、重い連中も少しは楽になるな」
息を吐き出すようにこぼれた声には、心底ほっとしたような響きがあった。
けれど――私はそれよりも、別のことが気になってしまう。
(その「重い連中」のなかに……きっと、この人は自分を入れていない)
そんな思いが妙に心に残って、それからはロイベルの記録も、前よりいっそう気をつけて取るようになった。
◇ ◇ ◇
気づけば、ひと月、ふた月と過ぎていた。
朝。外に出ると吐く息が白くなり、石壁のすき間から入り込む風も、少しずつ鋭さを増していく。
砦での暮らしにも、もうだいぶ慣れた。
診療部屋で軍医の横に立ち、瘴気の影響が疑われる兵や町の人たちの話を聞く。
空いた時間には作業部屋で配合を見直す。
最初は緊張していた廊下のすれ違いでも、いまでは「おはようございます」「今日もお願いします」と声をかけられるのが当たり前になっていた。
(……ここが自分の居場所みたいだ、なんて。そんなふうに思っちゃ、だめなのに)
王都にはいつか戻らなきゃいけない。
それでも、朝焼けに染まる石壁や、薬を受け取ってほっと笑う人たちを見ていると、ここでもう少し役に立ちたいと思ってしまう。
そしていま、私はロイベルの執務室にいた。
新しく配合した薬を試してもらうためだ。
あれから何度も、薬を飲む前後の様子を聞き取り、記録を重ねた。
そうしているうちに、どの素材が身体のどこに効きやすいのか、少しずつ傾向が見えてきた。
作る薬も前よりよく効くようになり、ひとりに回す量も少しずつ減っていった。
おかげで、兵や民のぶんを削らずに、ロイベルにも薬を試してもらえるようになった。
返事すらできなかったほど重かった人たちも、いまでは自分の体調を言葉で伝えられるくらいには、意識がはっきりしてきている。
砦や近くの町で暮らす人たちの様子も、目に見えて安定してきた。
ただ――「なんだか息が重い」「最近よく頭が痛む」と訴える人が、ぽつぽつ増えてきているのは、少し気になるけれど。
(それでもいまは……私にできることを、ひとつずつやっていかなくちゃ)
今日ぶんの記録をまとめた紙束を、両手で抱える。
「ありがとうございます……おかげで、だいぶ記録も溜まってきました」
「そうか……」
ロイベルは紙束にちらりと目をやり、静かに息を吐いた。
「情けない話だが、こうして経過を並べて見せられると――俺自身、前よりずっと楽になっているのが、よくわかる。胸の重さも、寝込む日も……昔と比べれば、だいぶ減った」
そこで、わずかに目を伏せる。
「兵や民を優先しろと言っておきながら、自分もこうして薬をもらっているのは……正直、少し後ろめたいがな」
「そんなことありません!」
思わず、声が強くなった。
「辺境伯様は『慣れてるから問題ない』とおっしゃいますけれど……砦の人たちも、町の人たちも、みんな辺境伯様の体調を気にしています。辺境伯様が前に立ってくれているから、みんな頑張れてるんです。だから、辺境伯様が楽になるのは……北境のためでもあります」
(私だって――そうだから)
喉元まで出かかった言葉は、慌てて飲み込んだ。
ロイベルは、少しだけ目を見開く。
それから視線を逸らすように、机の上へ落とした。
「……買いかぶりすぎだ。俺は、やるべきことをやっているだけだ」
けれど、その横顔はどこか居心地悪そうで――頬のあたりの強張りが、わずかにゆるんで見えた。
「ともあれ、本当に皆がそう思ってくれているのなら……北境のために、ありがたく使わせてもらうとしよう」
「はい。北境のために、です」
(それと……辺境伯様自身のためにも)
心のなかだけで、そっと付け足す。
ふいに、ロイベルがこちらを見た。
さっきまでとは違う、少しだけ探るような視線だ。
「……ところで、ソフィアーナ嬢」
「はい?」
「あまりに何度も呼ぶものだから、さすがに気になったのだが……君はいつまで、俺を『辺境伯様』と呼ぶつもりだ?」
「……へっ?」
予想外の問いかけに、変な声が出た。
確かに……さっきやたら、「辺境伯様、辺境伯様」と言っていたような気もする。
「ここでは、王都のような社交もない。砦の者たちの前でなら、『殿下』でも『ロイベル』でも好きに呼ぶといい」
「いっ、いえ……その……辺境伯様は、辺境伯様ですし!」
条件反射みたいにそう言ってしまってから、顔が一気に熱くなる。
(ロイベル様、なんて……今さら口にできるわけないじゃない……)
ロイベルは、ほんの少しだけ目を細めた。
咎めるでもなく、からかうでもなく――どこかおもしろがっているような表情だ。
「わかった。……君の好きにするといい」
「はっ、はい……失礼します、辺境伯様」
いつも以上にきっちりと頭を下げて、私は紙束を抱えたまま、逃げるように執務室を後にした。




