『赤ワインとチョコレートで誘惑したら、鹿肉が主役になりました』
この短編も、前回のホラーとまったく同じ発想から始まりました。
料理本やレシピを眺めていて、材料だけを抜き出し、そこから「この組み合わせなら、どんな物語の温度が立つか」を先に想像していく――あのやり方です。
ただ、同じ発想でも、出てくる“気配”は正反対でした。
前回は、香りが良いほど不穏で、甘さや鮮やかさが「隠しているもの」を連れてくる感覚があった。
でも今回は、香りがそのまま人間関係の潤滑油になって、失敗すらも距離を縮める笑いになる気配が強かったんです。
大人っぽい雰囲気を狙った段取りが、火加減ひとつで簡単に崩れてしまう。
それなのに、崩れた瞬間のほうが素の顔が出て、相手の真面目さや不器用さが浮き彫りになって、むしろ親密になる。
料理って、怖くもできるし、可笑しくもできる――同じ入口からでも、落ちる先が違うのが面白いところだなと思いました。
前回と同じ“材料スタート”で、今回は真逆の後味。
その差も含めて楽しんでいただけたら嬉しいです。
「今夜は、勝ちます」
鏡の前でそう宣言した瞬間、リリア・ヴァンデルは自分でも笑いそうになった。勝つも負けるも、恋の戦はいつだって自分の想定通りに進まない。けれど、だからこそ“段取り”が必要だ。段取りさえ整えれば、あとは雰囲気が仕事をする――はず。
寝室の隣にある小さな厨房に、侍女のミラが食材を並べていく。赤ワイン、チョコレート、ローズマリー、マッシュルーム、鹿肉。どれも艶っぽい香りを持っている。舌に乗せる前から、夜を連想させるものばかりだ。
「奥さま、いちおう確認しますけれど……本当に“料理”で攻めるんですね?」 「料理は人を裏切らないもの」 「それ、裏切られたことがない人の台詞です」
リリアは肩をすくめて、胸元のレースを指で整えた。今日のドレスは深い葡萄色。赤ワインに合わせたのだ、と自分に言い聞かせる。別に、彼の視線を誘うためではない。断じて。
今夜招いたのは、王都の衛士隊長テオ・アルベルト。堅物で有名、宴席では一滴も飲まない、女の噂も聞かない。そのうえ背が高くて、笑うと少しだけ少年みたいになる。――そういう男は、こちらの余裕を奪ってくる。
「ローズマリーは香りで落とす。赤ワインは赤で落とす。チョコレートは甘さで落とす。マッシュルームは……まあ、場を整える。鹿肉は……主役」
「最後だけ急に真面目ですね」
「主役は大事よ。主役を雑に扱うと、全部が雑になる」
ミラがため息をつく。侍女としては“夜の段取り”の方が得意なのだろう。けれど、リリアにはそれができない。できないからこそ、料理に逃げる。
コンコン、と玄関の鐘が鳴った。
「来たわね」
「奥さま、緊張してます?」
「してない」
「指がチョコみたいに震えてます」
「……それは、寒いから」
ミラが笑いながら去っていく。リリアは大きく息を吸って、胸の奥に甘い緊張を押し込めた。ここからは“演出”だ。香り、灯り、間合い。勝負はすでに始まっている。
───
テオは想像よりも早く現れた。外套には夜気がまとわりつき、肩にうっすらと霧の粒が光っている。屋敷の照明に照らされて、その輪郭が少しだけ柔らかく見えた。
「招待を受けた。……こういう場に慣れていなくてな」
「慣れていない方がいいわ。慣れている男は、信用できないもの」
リリアがそう言うと、テオは一瞬言葉に詰まり、それから小さく笑った。笑うんだ。笑えるんだ、この人。胸の奥が少しだけ熱くなる。
食堂へ通すと、テーブルは二人用に整えられている。キャンドルの火は低く、赤ワインのボトルが中央に置かれ、ローズマリーの枝が花瓶代わりの細瓶に挿してある。香りが淡く漂い、確かに“夜”の顔をしていた。
「これは……随分と本格的だな」
「噂でしょ、私のこと。“艶やかな未亡人”って」
「噂は、だいたい盛られている」
「じゃあ今日は、盛られていない方を見せるわ」
そう言った瞬間、リリアは自分の舌の滑り具合に軽く絶望した。何を言っている。何を“見せる”つもりなのだ。けれどテオは真面目な顔で頷いてしまう。
「……努力する」
努力されると、こちらが困る。
厨房から香りが立ち上がった。赤ワインが温められる匂い、マッシュルームの土っぽい匂い、肉が焼ける匂い。その全部が混ざって、胃の奥が正直に鳴った。
「腹が……鳴った」
「聞こえなかったことにしてあげる」
「助かる」
堅物は、こういうところで可愛い。そう思ってしまった時点で、もう負けている気がする。
───
最初に出したのは、マッシュルームのソテーだった。ローズマリーを少しだけ添え、赤ワインで軽く香りづけしてある。色気の前菜。上品なはず。上品であるべき。
ところが――。
「……香りが強いな」
「ローズマリーは、香りが命よ」
「命が、暴れている」
テオがそう言って水を飲む。確かに、ローズマリーを“少し”のつもりが、枝を二本入れてしまった。香りが壁を殴ってくる。森が皿に乗ったみたいだ。
「大丈夫、これは“強い女”の香り」
「強い女は嫌いじゃない」
「……そう」
返事が弱くなった。自分で自分の首を絞めている。
ワインを注ごうとすると、テオが手で制した。
「酒は遠慮しておく。仕事柄、頭が鈍るのは困る」
「今夜は仕事じゃないわ」
「……そうだな。だが習慣でな」
そこでリリアは、切り札を切るべきだった。ワインを飲ませて、頬を少しだけ赤くして、距離感を柔らかくして。そういう計算を立てていた。なのに、彼は飲まない。
「なら料理に使うわ。赤ワインソース。飲まなくても、味は逃げない」
テオは少し驚いた顔をした。真面目な男ほど、“逃げない”という言葉に弱い。リリアは内心で小さく拳を握った。
───
メインは鹿肉。柔らかく焼き、赤ワインで煮詰めたソースをかけ、マッシュルームを添える。ローズマリーは――反省して、今度は控えめにする。控えめに。絶対に。
それなのに、事件は起きる。
鍋にワインを注ぎ、火を入れた瞬間、アルコールが跳ねて炎が上がった。ボッと青い火が立ち上がり、リリアの悲鳴が喉の手前で止まる。料理の火は怖くない。怖くないが、予想外の火は怖い。
「大丈夫か!」
食堂からテオが飛び込んできた。あっという間にリリアの背後へ回り、鍋の蓋を掴んで火を消す。動きが軍人のそれだ。迷いがない。迷いがない男が背後に回ると、心臓が変な跳ね方をする。
「……慣れてるのね」
「戦場でも厨房でも、火は火だ」
彼の腕が、リリアの肩のすぐ横にあった。近い。熱が近い。香りより先に体温で落ちそうになる。これは料理の香りのせいではない。多分。
「それより、奥さま。ローズマリー、焦げてますよ!」
ミラの声が飛ぶ。振り向くと、ローズマリーの枝が一瞬で黒くなり、煙が立っていた。香りが“森”から“山火事”へ変わる。
「控えめにするって言ったのに!」
「枝が勝手に入ったの。私は悪くない」
「枝は動きません!」
テオが咳き込みながら笑った。笑うな。こっちは必死に色気を保とうとしているのに。煙の中で色気なんて保てるか。
リリアは慌てて鍋を別の火へ移し、焦げたローズマリーを取り出す。指先が熱い。焦りで動きが雑になる。雑になると、すべてが崩れる。
そして崩れた勢いのまま、最後の“秘密兵器”を出してしまった。
「……チョコレートを入れれば、苦味と甘味がまとまるから」
ミラが目を丸くした。
「奥さま、いま何を……」
「赤ワインとチョコは合うのよ。ほら、貴族の宴でも……」
「宴で“肉のソース”に入れてましたっけ?」
「……今日から流行る」
テオが妙に真剣な顔で鍋を覗き込む。
「それは、うまいのか」
「うまいかどうかは、勇気の問題よ」
「勇気ならある」
堅物が余計な勇気を出すな。
───
結果、ソースは奇跡的にまとまった。赤ワインの酸味が丸くなり、チョコの苦味が鹿肉の野性に絡む。マッシュルームの旨味が底で支える。ローズマリーは……焦げた分を取り除いたので、ようやく“香り”として働いた。
皿に盛った瞬間、リリアは思った。これ、美味しい。普通に美味しい。色気どころではない。勝ってしまったのは、料理の方だ。
食堂へ運ぶと、テオが真面目な顔でフォークを握っていた。まるで戦場へ赴くみたいだ。
「さあ。いただきます、隊長」
「……いただきます」
一口。
テオの眉がわずかに動く。次に、目が少しだけ見開かれる。さらにもう一口。フォークの速度が上がる。
「……うまい」
「でしょ」
「鹿肉が、こんなに柔らかいとは」
「焼き方がいいのよ。あと、ソース」
「ソースに……チョコレート?」
「そう。大人の味」
「大人の味が、こんなに……食欲に直結するのか」
彼は真面目に困惑していた。色気の直撃を想定していたのに、胃袋を殴られて戸惑う男の顔。――可愛い。
「ねえ、テオ」
「なんだ」
「私、今夜あなたを誘惑するつもりだったの」
「……そうなのか」
テオがフォークを止めた。目が真っ直ぐこちらを見る。逃げられない目だ。
「でも、あなたが飲まないから計画が崩れた」
「すまない」
「謝らないで。あなたが悪いわけじゃない。私の段取りが弱いだけ」
「段取りは弱くない。料理が、強い」
その言い方が妙に真剣で、リリアは吹き出しそうになった。こらえる。ここで笑ったら色気が死ぬ。でも、すでに煙で一回死んでいる気もする。
「それで、誘惑は……成功したのか?」 「どう思う?」
「……今のところ、鹿肉に負けている」 「正直ね」
「正直しかできない」
赤ワインを飲ませなくても、頬は少し赤い。熱と香りと、料理の満足感で。人は満たされると、柔らかくなる。そういう意味では、予定よりずっと良い。
───
食後、リリアはデザートを出した。チョコレートを溶かし、赤ワインで香りづけしたソースを添える。今度は正しい使い方だ。ローズマリーは、もう見ただけで笑いが出そうなので封印。マッシュルームも、さすがにデザートには出さない。常識は残っている。
テオはデザートを食べながら、ぽつりと言った。
「……俺は、こういう夜に不慣れだ」
「さっきも聞いた」
「不慣れだから、手順を間違えるかもしれない」
「手順?」
「例えば……距離の取り方」
彼が椅子から立ち上がり、ゆっくりとリリアの隣に回った。息が止まる。さっきまで鍋の前で火と戦っていたのに、今度は別の火だ。火の種類が違う。こっちは消火器がない。
「今、近すぎる?」
「……近い」
「嫌か」
「嫌なら、最初から呼ばない」
言ってしまった。言ってしまったし、テオはその言葉を正面から受け止めてしまう男だ。彼の手が、テーブルの縁に置かれる。リリアの指先からほんの数センチ。触れるか触れないか、その距離が一番意地悪だ。
「では……どうするのが正しい?」
「正しいかどうかは、味で決めるものじゃないわ」
「味で決めてきたから、わからない」
リリアは笑ってしまった。堪えられなかった。色気より先に笑いが出る。けれど、笑ったら終わりではなかった。テオはその笑いを見て、肩の力を抜いた。嬉しそうに、少しだけ。
「笑うんだな」
「あなたのせいよ。真面目すぎるから、こっちが崩れる」
「崩れても、悪くない」
「今夜の私、だいぶ崩れてるけど」
「……煙の件は忘れろ」
「忘れない。死ぬまで言う」
「手厳しい」
リリアはワインのグラスを取り、ほんの少し口に含んだ。強くはない。温度だけが喉を通る。彼に飲ませるつもりだった赤。結局、自分が飲むことになった赤。
「ねえ、テオ。あなたは何に弱いの?」 「弱い?」
「誘惑されるとしたら、どこが崩れるのか知りたい」
「……腹が減っているとき」
即答だった。
「そこ?」
「ああ。腹が満ちると、警戒が落ちる。武器を置きたくなる。……今みたいに」
彼がそう言って、リリアの指先にそっと触れた。あまりにも慎重で、あまりにも真面目な触れ方だった。触れただけなのに、蜂蜜みたいに甘く感じるのが腹立たしい。
「奥さま」
ミラが食堂の入口で咳払いをした。気配を消していたのに、今わざと存在を出した。意地悪だ。
「デザートの皿、下げます?」
「……下げて」
「はい。あと、ローズマリーは燃えるので、厨房から撤去しておきました」
「撤去しなくていい。処刑して」
「承知しました」
ミラが皿を下げながら、目だけで「勝ってますよ」と言ってくる。勝っているのは料理で、自分はまだ勝っていない。そう言い返したかったが、今は手が離せない。テオの指が、まだそこにある。
───
夜は更け、キャンドルが短くなった。
テオは食堂の窓辺に立ち、外の灯りを見ていた。王都の夜は静かで、遠くの塔の鐘だけが時を刻む。
「……今日は、楽しかった」
「料理で?」
「料理で。あと、君で」
君、と呼ばれて心臓が跳ねた。奥さまと呼ばれる方が慣れているのに、君の方がずっと無防備に刺さる。
「私で楽しいなら、よかった」
「……次は、俺が何かを用意する」
「あなたが? 料理?」
「料理は、無理だ」
「じゃあ何を?」
「腹が減ったときに、確実に満たせるもの」
リリアは目を瞬いた。真面目に、何を言っているのかわからない。彼は振り返り、少しだけ恥ずかしそうに言った。
「……屋台だ。王都の橋の下に出る、鹿肉串の屋台がある。うまい」
「あなた、私をまた鹿肉で落とす気?」
「落ちるのか?」
「……落ちるかもしれない」
「では、勝ち筋だな」
勝ち筋。戦いの言葉を、恋に持ち込む男。リリアは笑いながら、肩をすくめた。
「ねえ。今夜の結論、出していい?」
「聞こう」
「赤ワインとチョコレートで誘惑するつもりだったのに、主役は鹿肉だった」
「否定できない」
「でも、鹿肉が主役でも――距離は縮まった」
「……ああ。縮まった」
テオが一歩近づく。今度は煙も火もない。香りだけがある。ワインの赤い香り、チョコの甘い香り、ローズマリーの残り香、マッシュルームと鹿肉の余韻。全部が“食べた後の静けさ”として二人の間に漂う。
「次は、酒も飲む」
「ほんとに?」
「少しだけ。君が注ぐなら」
ずるい。そんな言い方はずるい。料理より効く。
リリアは、素直に頷いた。
「じゃあ次は、燃やさない」
「頼む」
「でも、燃えたら燃えたで……あなたが消してくれるでしょ」
「……消す」
「私も?」
「それは……消したくない」
真面目な声で言われると、もう逃げ場がない。リリアは笑うしかなかった。笑いながら、指先を絡めるしかなかった。
結局、今夜の“誘惑”は計画通りではなかった。
でも、計画通りじゃない夜の方が、たぶん長く続く。
赤ワインとチョコレートの甘い香りの向こうで、ローズマリーが静かに息をしている。
鹿肉の余韻が、胃の奥で温かい。
そして、堅物な衛士隊長の手が、確かにリリアの手を握っていた。
勝ったのは、誰だろう。
少なくとも、鹿肉だけは勝ち誇っていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
道民としては、やっぱり「鹿肉」と聞いたらエゾシカなんですよね。
野性味があるのに、きちんと扱えば驚くほど上品で、脂がしつこくなくて、香りも綺麗。……という“素材の強さ”が、そのまま話の推進力になってくれました。主役が勝手に前へ出てくる感じ、書いていて楽しかったです。
同じ「食材から発想する」タイプの話でも、前回のホラーとは完全に真逆になりました。
あちらは香りや味が不穏へ転がる方向、今回は香りや味が人間関係をほどく方向。
怖がらせるための「料理」ではなく、失敗して笑って、結果的に距離が縮まるための「料理」。温度感も、後味も、まったく違うものになったと思います。
色気を狙って空回りして、でもそれがいちばん自然な親密さに繋がる――そんな“美味しい事故”を楽しんでもらえていたら嬉しいです。




