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『赤ワインとチョコレートで誘惑したら、鹿肉が主役になりました』

作者: 月白ふゆ
掲載日:2026/01/30

この短編も、前回のホラーとまったく同じ発想から始まりました。

料理本やレシピを眺めていて、材料だけを抜き出し、そこから「この組み合わせなら、どんな物語の温度が立つか」を先に想像していく――あのやり方です。


ただ、同じ発想でも、出てくる“気配”は正反対でした。

前回は、香りが良いほど不穏で、甘さや鮮やかさが「隠しているもの」を連れてくる感覚があった。

でも今回は、香りがそのまま人間関係の潤滑油になって、失敗すらも距離を縮める笑いになる気配が強かったんです。


大人っぽい雰囲気を狙った段取りが、火加減ひとつで簡単に崩れてしまう。

それなのに、崩れた瞬間のほうが素の顔が出て、相手の真面目さや不器用さが浮き彫りになって、むしろ親密になる。

料理って、怖くもできるし、可笑しくもできる――同じ入口からでも、落ちる先が違うのが面白いところだなと思いました。


前回と同じ“材料スタート”で、今回は真逆の後味。

その差も含めて楽しんでいただけたら嬉しいです。

 「今夜は、勝ちます」


 鏡の前でそう宣言した瞬間、リリア・ヴァンデルは自分でも笑いそうになった。勝つも負けるも、恋の戦はいつだって自分の想定通りに進まない。けれど、だからこそ“段取り”が必要だ。段取りさえ整えれば、あとは雰囲気が仕事をする――はず。


 寝室の隣にある小さな厨房に、侍女のミラが食材を並べていく。赤ワイン、チョコレート、ローズマリー、マッシュルーム、鹿肉。どれも艶っぽい香りを持っている。舌に乗せる前から、夜を連想させるものばかりだ。


 「奥さま、いちおう確認しますけれど……本当に“料理”で攻めるんですね?」  「料理は人を裏切らないもの」  「それ、裏切られたことがない人の台詞です」


 リリアは肩をすくめて、胸元のレースを指で整えた。今日のドレスは深い葡萄色。赤ワインに合わせたのだ、と自分に言い聞かせる。別に、彼の視線を誘うためではない。断じて。


 今夜招いたのは、王都の衛士隊長テオ・アルベルト。堅物で有名、宴席では一滴も飲まない、女の噂も聞かない。そのうえ背が高くて、笑うと少しだけ少年みたいになる。――そういう男は、こちらの余裕を奪ってくる。


 「ローズマリーは香りで落とす。赤ワインは赤で落とす。チョコレートは甘さで落とす。マッシュルームは……まあ、場を整える。鹿肉は……主役」  


「最後だけ急に真面目ですね」


「主役は大事よ。主役を雑に扱うと、全部が雑になる」


 ミラがため息をつく。侍女としては“夜の段取り”の方が得意なのだろう。けれど、リリアにはそれができない。できないからこそ、料理に逃げる。


 コンコン、と玄関の鐘が鳴った。


「来たわね」  


「奥さま、緊張してます?」  


「してない」  


「指がチョコみたいに震えてます」  


「……それは、寒いから」


 ミラが笑いながら去っていく。リリアは大きく息を吸って、胸の奥に甘い緊張を押し込めた。ここからは“演出”だ。香り、灯り、間合い。勝負はすでに始まっている。


───


 テオは想像よりも早く現れた。外套には夜気がまとわりつき、肩にうっすらと霧の粒が光っている。屋敷の照明に照らされて、その輪郭が少しだけ柔らかく見えた。


 「招待を受けた。……こういう場に慣れていなくてな」


 「慣れていない方がいいわ。慣れている男は、信用できないもの」


 リリアがそう言うと、テオは一瞬言葉に詰まり、それから小さく笑った。笑うんだ。笑えるんだ、この人。胸の奥が少しだけ熱くなる。


 食堂へ通すと、テーブルは二人用に整えられている。キャンドルの火は低く、赤ワインのボトルが中央に置かれ、ローズマリーの枝が花瓶代わりの細瓶に挿してある。香りが淡く漂い、確かに“夜”の顔をしていた。


 「これは……随分と本格的だな」


 「噂でしょ、私のこと。“艶やかな未亡人”って」


 「噂は、だいたい盛られている」


 「じゃあ今日は、盛られていない方を見せるわ」


 そう言った瞬間、リリアは自分の舌の滑り具合に軽く絶望した。何を言っている。何を“見せる”つもりなのだ。けれどテオは真面目な顔で頷いてしまう。


 「……努力する」


 努力されると、こちらが困る。


 厨房から香りが立ち上がった。赤ワインが温められる匂い、マッシュルームの土っぽい匂い、肉が焼ける匂い。その全部が混ざって、胃の奥が正直に鳴った。


 「腹が……鳴った」


 「聞こえなかったことにしてあげる」


 「助かる」


 堅物は、こういうところで可愛い。そう思ってしまった時点で、もう負けている気がする。


───


 最初に出したのは、マッシュルームのソテーだった。ローズマリーを少しだけ添え、赤ワインで軽く香りづけしてある。色気の前菜。上品なはず。上品であるべき。


 ところが――。


 「……香りが強いな」


 「ローズマリーは、香りが命よ」


 「命が、暴れている」


 テオがそう言って水を飲む。確かに、ローズマリーを“少し”のつもりが、枝を二本入れてしまった。香りが壁を殴ってくる。森が皿に乗ったみたいだ。


 「大丈夫、これは“強い女”の香り」


 「強い女は嫌いじゃない」


 「……そう」


 返事が弱くなった。自分で自分の首を絞めている。


 ワインを注ごうとすると、テオが手で制した。


 「酒は遠慮しておく。仕事柄、頭が鈍るのは困る」


 「今夜は仕事じゃないわ」


 「……そうだな。だが習慣でな」


 そこでリリアは、切り札を切るべきだった。ワインを飲ませて、頬を少しだけ赤くして、距離感を柔らかくして。そういう計算を立てていた。なのに、彼は飲まない。


 「なら料理に使うわ。赤ワインソース。飲まなくても、味は逃げない」


 テオは少し驚いた顔をした。真面目な男ほど、“逃げない”という言葉に弱い。リリアは内心で小さく拳を握った。


───


 メインは鹿肉。柔らかく焼き、赤ワインで煮詰めたソースをかけ、マッシュルームを添える。ローズマリーは――反省して、今度は控えめにする。控えめに。絶対に。


 それなのに、事件は起きる。


 鍋にワインを注ぎ、火を入れた瞬間、アルコールが跳ねて炎が上がった。ボッと青い火が立ち上がり、リリアの悲鳴が喉の手前で止まる。料理の火は怖くない。怖くないが、予想外の火は怖い。


 「大丈夫か!」


 食堂からテオが飛び込んできた。あっという間にリリアの背後へ回り、鍋の蓋を掴んで火を消す。動きが軍人のそれだ。迷いがない。迷いがない男が背後に回ると、心臓が変な跳ね方をする。


 「……慣れてるのね」


 「戦場でも厨房でも、火は火だ」


 彼の腕が、リリアの肩のすぐ横にあった。近い。熱が近い。香りより先に体温で落ちそうになる。これは料理の香りのせいではない。多分。


 「それより、奥さま。ローズマリー、焦げてますよ!」


 ミラの声が飛ぶ。振り向くと、ローズマリーの枝が一瞬で黒くなり、煙が立っていた。香りが“森”から“山火事”へ変わる。


 「控えめにするって言ったのに!」


 「枝が勝手に入ったの。私は悪くない」  


「枝は動きません!」


 テオが咳き込みながら笑った。笑うな。こっちは必死に色気を保とうとしているのに。煙の中で色気なんて保てるか。


 リリアは慌てて鍋を別の火へ移し、焦げたローズマリーを取り出す。指先が熱い。焦りで動きが雑になる。雑になると、すべてが崩れる。


 そして崩れた勢いのまま、最後の“秘密兵器”を出してしまった。


 「……チョコレートを入れれば、苦味と甘味がまとまるから」


 ミラが目を丸くした。


 「奥さま、いま何を……」


 「赤ワインとチョコは合うのよ。ほら、貴族の宴でも……」


 「宴で“肉のソース”に入れてましたっけ?」  


「……今日から流行る」


 テオが妙に真剣な顔で鍋を覗き込む。


 「それは、うまいのか」


 「うまいかどうかは、勇気の問題よ」


 「勇気ならある」


 堅物が余計な勇気を出すな。


───


 結果、ソースは奇跡的にまとまった。赤ワインの酸味が丸くなり、チョコの苦味が鹿肉の野性に絡む。マッシュルームの旨味が底で支える。ローズマリーは……焦げた分を取り除いたので、ようやく“香り”として働いた。


 皿に盛った瞬間、リリアは思った。これ、美味しい。普通に美味しい。色気どころではない。勝ってしまったのは、料理の方だ。


 食堂へ運ぶと、テオが真面目な顔でフォークを握っていた。まるで戦場へ赴くみたいだ。


 「さあ。いただきます、隊長」


 「……いただきます」


 一口。


 テオの眉がわずかに動く。次に、目が少しだけ見開かれる。さらにもう一口。フォークの速度が上がる。


 「……うまい」


 「でしょ」


 「鹿肉が、こんなに柔らかいとは」


 「焼き方がいいのよ。あと、ソース」


 「ソースに……チョコレート?」


 「そう。大人の味」


 「大人の味が、こんなに……食欲に直結するのか」


 彼は真面目に困惑していた。色気の直撃を想定していたのに、胃袋を殴られて戸惑う男の顔。――可愛い。


 「ねえ、テオ」


 「なんだ」


 「私、今夜あなたを誘惑するつもりだったの」


 「……そうなのか」


 テオがフォークを止めた。目が真っ直ぐこちらを見る。逃げられない目だ。


 「でも、あなたが飲まないから計画が崩れた」


 「すまない」


 「謝らないで。あなたが悪いわけじゃない。私の段取りが弱いだけ」


 「段取りは弱くない。料理が、強い」


 その言い方が妙に真剣で、リリアは吹き出しそうになった。こらえる。ここで笑ったら色気が死ぬ。でも、すでに煙で一回死んでいる気もする。


 「それで、誘惑は……成功したのか?」  「どう思う?」


 「……今のところ、鹿肉に負けている」  「正直ね」


 「正直しかできない」


 赤ワインを飲ませなくても、頬は少し赤い。熱と香りと、料理の満足感で。人は満たされると、柔らかくなる。そういう意味では、予定よりずっと良い。


───


 食後、リリアはデザートを出した。チョコレートを溶かし、赤ワインで香りづけしたソースを添える。今度は正しい使い方だ。ローズマリーは、もう見ただけで笑いが出そうなので封印。マッシュルームも、さすがにデザートには出さない。常識は残っている。


 テオはデザートを食べながら、ぽつりと言った。


 「……俺は、こういう夜に不慣れだ」


 「さっきも聞いた」


 「不慣れだから、手順を間違えるかもしれない」


 「手順?」


 「例えば……距離の取り方」


 彼が椅子から立ち上がり、ゆっくりとリリアの隣に回った。息が止まる。さっきまで鍋の前で火と戦っていたのに、今度は別の火だ。火の種類が違う。こっちは消火器がない。


 「今、近すぎる?」


 「……近い」


 「嫌か」


 「嫌なら、最初から呼ばない」


 言ってしまった。言ってしまったし、テオはその言葉を正面から受け止めてしまう男だ。彼の手が、テーブルの縁に置かれる。リリアの指先からほんの数センチ。触れるか触れないか、その距離が一番意地悪だ。


 「では……どうするのが正しい?」


 「正しいかどうかは、味で決めるものじゃないわ」


 「味で決めてきたから、わからない」


 リリアは笑ってしまった。堪えられなかった。色気より先に笑いが出る。けれど、笑ったら終わりではなかった。テオはその笑いを見て、肩の力を抜いた。嬉しそうに、少しだけ。


 「笑うんだな」


 「あなたのせいよ。真面目すぎるから、こっちが崩れる」


 「崩れても、悪くない」


 「今夜の私、だいぶ崩れてるけど」


 「……煙の件は忘れろ」


 「忘れない。死ぬまで言う」


 「手厳しい」


 リリアはワインのグラスを取り、ほんの少し口に含んだ。強くはない。温度だけが喉を通る。彼に飲ませるつもりだった赤。結局、自分が飲むことになった赤。


 「ねえ、テオ。あなたは何に弱いの?」  「弱い?」


 「誘惑されるとしたら、どこが崩れるのか知りたい」


 「……腹が減っているとき」


 即答だった。


 「そこ?」


 「ああ。腹が満ちると、警戒が落ちる。武器を置きたくなる。……今みたいに」


 彼がそう言って、リリアの指先にそっと触れた。あまりにも慎重で、あまりにも真面目な触れ方だった。触れただけなのに、蜂蜜みたいに甘く感じるのが腹立たしい。


 「奥さま」


 ミラが食堂の入口で咳払いをした。気配を消していたのに、今わざと存在を出した。意地悪だ。


 「デザートの皿、下げます?」


 「……下げて」


 「はい。あと、ローズマリーは燃えるので、厨房から撤去しておきました」


 「撤去しなくていい。処刑して」


 「承知しました」


 ミラが皿を下げながら、目だけで「勝ってますよ」と言ってくる。勝っているのは料理で、自分はまだ勝っていない。そう言い返したかったが、今は手が離せない。テオの指が、まだそこにある。


───


 夜は更け、キャンドルが短くなった。


 テオは食堂の窓辺に立ち、外の灯りを見ていた。王都の夜は静かで、遠くの塔の鐘だけが時を刻む。


 「……今日は、楽しかった」


 「料理で?」


 「料理で。あと、君で」


 君、と呼ばれて心臓が跳ねた。奥さまと呼ばれる方が慣れているのに、君の方がずっと無防備に刺さる。


 「私で楽しいなら、よかった」


 「……次は、俺が何かを用意する」


 「あなたが? 料理?」


 「料理は、無理だ」


 「じゃあ何を?」


 「腹が減ったときに、確実に満たせるもの」


 リリアは目を瞬いた。真面目に、何を言っているのかわからない。彼は振り返り、少しだけ恥ずかしそうに言った。


 「……屋台だ。王都の橋の下に出る、鹿肉串の屋台がある。うまい」


 「あなた、私をまた鹿肉で落とす気?」


「落ちるのか?」


 「……落ちるかもしれない」


 「では、勝ち筋だな」


 勝ち筋。戦いの言葉を、恋に持ち込む男。リリアは笑いながら、肩をすくめた。


 「ねえ。今夜の結論、出していい?」


 「聞こう」


 「赤ワインとチョコレートで誘惑するつもりだったのに、主役は鹿肉だった」


 「否定できない」


 「でも、鹿肉が主役でも――距離は縮まった」


 「……ああ。縮まった」


 テオが一歩近づく。今度は煙も火もない。香りだけがある。ワインの赤い香り、チョコの甘い香り、ローズマリーの残り香、マッシュルームと鹿肉の余韻。全部が“食べた後の静けさ”として二人の間に漂う。


 「次は、酒も飲む」


 「ほんとに?」


 「少しだけ。君が注ぐなら」


 ずるい。そんな言い方はずるい。料理より効く。


 リリアは、素直に頷いた。


 「じゃあ次は、燃やさない」


 「頼む」


 「でも、燃えたら燃えたで……あなたが消してくれるでしょ」


 「……消す」


 「私も?」


 「それは……消したくない」


 真面目な声で言われると、もう逃げ場がない。リリアは笑うしかなかった。笑いながら、指先を絡めるしかなかった。


 結局、今夜の“誘惑”は計画通りではなかった。

 でも、計画通りじゃない夜の方が、たぶん長く続く。


 赤ワインとチョコレートの甘い香りの向こうで、ローズマリーが静かに息をしている。

 鹿肉の余韻が、胃の奥で温かい。

 そして、堅物な衛士隊長の手が、確かにリリアの手を握っていた。


 勝ったのは、誰だろう。


 少なくとも、鹿肉だけは勝ち誇っていた。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


道民としては、やっぱり「鹿肉」と聞いたらエゾシカなんですよね。

野性味があるのに、きちんと扱えば驚くほど上品で、脂がしつこくなくて、香りも綺麗。……という“素材の強さ”が、そのまま話の推進力になってくれました。主役が勝手に前へ出てくる感じ、書いていて楽しかったです。


同じ「食材から発想する」タイプの話でも、前回のホラーとは完全に真逆になりました。

あちらは香りや味が不穏へ転がる方向、今回は香りや味が人間関係をほどく方向。

怖がらせるための「料理」ではなく、失敗して笑って、結果的に距離が縮まるための「料理」。温度感も、後味も、まったく違うものになったと思います。


色気を狙って空回りして、でもそれがいちばん自然な親密さに繋がる――そんな“美味しい事故”を楽しんでもらえていたら嬉しいです。

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