第三章 過去との対峙と選択
旅に出てから二年が経った。エリシアとフィンは、南方の港町パルミラに滞在し、そこで古代ルーン文字の文献の解読作業を終えようとしていた。
その頃、侯爵領では大きな動きがあった。継母とクリスタが手を組んで行っていた秘密裏の土地売買と横領が、突然の監査によって露見したのだ。追放されたはずのエリシアに罪を着せるために捏造された機密文書も、二人の悪事を隠蔽するために使われた偽造文書であることが判明した。
エリシアの冤罪は、完全に晴れた。
侯爵家は崩壊寸前であったが、公爵家はエリシアを再び迎え入れ、婚約を復活させようと画策した。彼らにとって、エリシアは単に美しい令嬢ではなく、侯爵家の正統な跡取りであり、その頭脳は公爵家の外交戦略に不可欠だったからだ。
パルミラの街で、エリシアは偶然、故郷から派遣された侯爵家の元執事とすれ違った。執事は彼女の身なりに驚きながらも、すぐに彼女をエリシアだと見抜いた。
数日後、エリシアが滞在する小さな宿に、侯爵家と公爵家双方からの使者が訪れた。
「エリシア様、お戻りください。すべてが明らかになりました。あなたの名誉は完全に回復されました。侯爵家はあなたを必要としています。公爵様も、あなたとの再婚約を強く望んでいらっしゃいます」
使者は、上等な服と馬車、そして以前の完璧な生活を保証する言葉を持ってきた。それは、かつてエリシアが渇望し、すべてを捧げて手に入れようとした「完璧な未来」だった。
エリシアは、テーブルの向かいに座る使者たちを静かに見つめた。彼女の隣には、普段通り古書に夢中なフィンが、解読した文字を清書する音だけを響かせていた。
使者たちがエリシアの帰還を熱心に説く間も、フィンは顔を上げなかった。彼はエリシアの選択を尊重し、何も言わずに静かに彼女の決断を待っていた。彼の無言の信頼が、エリシアの心の奥深くを揺さぶった。
夜が深まり、使者たちが立ち去った後、エリシアはフィンに尋ねた。
「あなたは、私が戻ると思いますか? あの侯爵邸へ」
フィンは清書中の羊皮紙から目を離さず、穏やかな声で答えた。
「それは、私が答えるべきことではない。私が知っているのは、君が侯爵令嬢として優秀だったこと。そして、『エル』として、古代語の解読者として、さらに優秀であることだけだ」
彼はペンを置き、初めてエリシアの目を見た。その瞳は、彼女の心を見透かすように澄んでいた。
「君が選ぶのは、かつて失った名誉か、それともこの旅路で発見した自由かだ。名誉は他者から与えられるものだが、自由は君自身の魂が選ぶものだ。君の頭脳は、どちらの人生がより価値があるか、すでに答えを出しているはずだ」
フィンの言葉は、彼女の心の葛藤を明確にさせた。侯爵邸に戻れば、再び「完璧な宝石」の仮面を被らなければならない。それは、生きるための労働ではない。呼吸するたびに、他者の期待という重圧に潰される、魂の労働だった。
エリシアは、旅の途中で見つけた、太陽の下で大声で笑った自分の顔を思い出した。雨に濡れ、泥にまみれても、知識を得る喜びに震えた夜を思い出した。そのすべてが、侯爵邸の豪華な生活よりも、はるかに鮮明で、リアルな「生」だった。
翌朝、エリシアは侯爵家からの使者に向かい、静かに頭を下げた。
「感謝申し上げます。私の冤罪を晴らしてくださったことに、心から。しかし、私はもう、あそこに居た頃のエリシアではありません」
彼女は使者の目を見て、毅然とした声で宣言した。
「あの完璧な檻の中で、私は自分自身を見失っていました。私にとっての真の宝は、家宝でも、公爵夫人という地位でもない。それは、この旅路で発見した、知恵と自由、そしてフィンとの友情です」
彼女は元の生活に戻ることを拒否し、侯爵家の名誉回復を辞退した。そして、使者に対して、侯爵家の管理を継母とクリスタの罪を厳しく裁くために尽力した、忠実な執事に委ねるよう提案した。エリシアは、すべてを清算し、過去の自分に別れを告げた。




