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追放された令嬢の幸福な旅路 ~宝物は異性の親友~  作者: 極北すばる


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第一章 孤独な旅路と希望の灯

 リンドブルクでの生活は、絶望そのものだった。


 エリシアは身分を隠すため、性別を曖昧にした「エル」という名で呼ばれることにした。侯爵邸では、朝食のパン一枚さえ、焼き加減と形が吟味されていたが、ここでは硬く冷えた残り物を口にすることさえ稀だった。


 まず、彼女はパン屋の店員として雇われた。しかし、レジの計算も、パンを素早く袋に詰める作業も、彼女の頭脳が培ってきた論理とは全く異なる単純な身体労働であり、初日で皿を割ってクビになった。次に、小さな仕立て屋の雑用係になったが、針と糸を扱う指は、楽器やペンを持つことには慣れていても、粗い布を縫い合わせる器用さを欠いていた。


「お嬢ちゃん、手先は不器用だが、字は綺麗だな。読み書きはできるのかい?」


 仕立て屋の主人が呆れ顔で尋ねたとき、エリシアは自分が貴族として教養を積んだ唯一のものが、この世界ではどれほど無力であるかを思い知った。彼女が持っているのは、何千冊もの書物を暗記し、複雑な外交史を理解する頭脳だけであり、生きるための実用的なスキルは皆無だった。


 彼女は自室で、貴族時代の教養を罵った。無用の知識、飾り物としての頭脳。


 ある夜、空腹と疲労で倒れそうになりながらも、彼女は町の外れにある古びた公立図書館へと足を向けた。そこは埃とカビの匂いが充満し、貧しい人々や老学者たちが暖をとるように集まる場所だった。


「なぜ、私はここに来たのだろう」


 自問する。パンを買う金さえないのに、なぜ知識を求めに来たのか。それは、貴族時代の自分が唯一誇れたもの、つまり「知恵」だけが、この世界で自分を支える柱になりうるという、無意識の希望だったのかもしれない。


 彼女は、誰も見向きもしない最奥の書架、古代言語や失われた文明に関する書物が並ぶ一角に引き寄せられた。


 そこで、エリシアは彼と出会った。


 フィン・カシウス。


 彼は、分厚い古書に顔を埋めたまま、その周囲にそびえる本の塔の中で、まるで自分の世界を構築しているようだった。乱雑に跳ねた栗色の髪、着古した質素な服、そして何よりも目を引くのは、古書の細かな文字を追う彼の瞳の奥に宿る、尽きることのない知的好奇心の光だ。年齢はエリシアとさほど変わらないように見えたが、彼の雰囲気には、すでに多くの旅路と風霜を経験した者の自由な気高さがあった。


 エリシアは、読みかけの書物のタイトルに惹かれ、彼に近づいた。その書物は、古代エラン語で書かれた航海術に関するものだった。


「その書物は、翻訳が不可能だと言われています。記号と文字の組み合わせが、他のどの古代語とも一致しないため」


 エリシアは思わず口を開いた。彼の瞳が、古書からエリシアの顔へと向けられた。


「やあ、君。その通りだ。誰も翻訳できない。だが、私はこれが、失われた『大洋の歌』の序文だと確信している」


 フィンはそう言って、細く白い指で、書物の端にある小さなシンボルを指し示した。


「このシンボルは、エラン語というよりも、初期アトランティア文明の漁師が用いた縄目文字の変形です。航海術というよりも、彼らの生活様式を記述していると考えられます」


 エリシアは、侯爵家で受けた特別な古代言語学の教育から得た知識を、無意識のうちに口にしていた。フィンの目が輝いた。


「面白い! 縄目文字か。その論理的根拠は? 私は何年もこの符号の組み合わせに悩まされてきた」


 エリシアは、身分を忘れ、古代語の論理を展開した。文字が持つ意味の変遷、記号が指し示す海洋生物の生態、そして何よりも、この序文の韻律が、当時のアトランティアの口承文学のそれと酷似していること。


 フィンは熱心に耳を傾け、話が終わると、静かに微笑んだ。


「素晴らしい。君は、私が出会った誰よりも知識が深い。…そして、君の瞳は、もっと遠い地平を見つめているべきだ。古本屋の暗い埃の中ではなく」


 エリシアは、彼の言葉にハッとした。彼は、彼女の洗練された言葉遣いや、手の甲に残る微かな日焼け跡(貴族時代、日傘を欠かさなかった証拠)から、彼女が身分を隠していることを見抜いていたのだろう。


 彼は静かに、しかし力強く言った。


「君は、追放された令嬢かもしれない。だが、君の頭脳は、世界一の図書館よりも価値がある。私は放浪の学者、フィン・カシウス。失われた知識を求め、世界中を旅している。私と一緒に旅をしないか。君は私にとって最高の親友であり、共同研究者だ」


「親友……共同研究者?」


 それは、これまでエリシアに向けられたことのない、対等で、尊敬に満ちた言葉だった。「妻」「婚約者」「宝石」「装飾品」ではなかった。


 エリシアは、彼の目の中に、過去の身分や未来の地位への関心の一切がないことを悟った。彼が求めているのは、彼女の「知恵」という、唯一無二の価値だけだった。


「旅費は、私が持つ。食事は、知識を交換し合えば、どこでも得られる。君の知識と論理的な思考力は、私の直感を裏付け、旅を安全にし、多くの発見をもたらすだろう」


 それは、絶望的な孤独の中で、彼女の魂に灯された、初めての希望の灯だった。


「……お願いします。フィン」


 エリシアは、侯爵令嬢としてではなく、「エル」として、この誘いを受け入れた。

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