結語
慧輪は錫杖をつき歩んでいた。
都はすでに遠く、人のいない山の中。
人を殺めた。すがるものもなし。
自分の命などどうでもよかった。
ふと、辺りが蒼暗くなる。足の下は土から硬い岩に変わっている。
少し先は崖になっていた。先に行くほど幅を失い、その突端は剣のように鋭くなっていた。
ちょうどいい。あそこから身を投げよう。
砕けた足を引きずり先を目指す。
ーー。
不意に。
何かが聞こえた。いや、音ではない。
目を足元から上へ向ける。
それが、在った。
大きな、仏像に似た何かが空に在る。
その相は無貌。右腕は円環の欠けた錫杖を抱えながらも、掌は外を向き、指先は地を向け垂れている。左腕は全てが衣に隠れ、その意志を見ることは叶わない。
その足元からは焦げた匂いのする黒い香が立ち昇っていた。
その昔百済で読んだ書物にあった地蔵という仏に似ているが、その様はあまりに異様であり、なぜ空に在るのかも分からない。
ーー。
慧輪は恐れおののき震えていたが、不意にその意志を理解した。いや、心の内に流れ込んできたと言うべきか。
ああ、そうなのか。慈悲は在る。しかし、輪廻の先には無い。
自らの錫杖を見る。先の円環が欠けている。
輪廻は偽りの円環。死ですらない。生まれぬことが慈悲なのだ。
ーー。
どうか御名を。
慧輪の思いに応え、その名が心に刻まれる。
……無輪……地蔵……尊。
慈悲を与え給え。衆生に救いを。無輪地蔵尊。
目を開ける。
「幻、か……?」
気づくと足が癒えていた。無輪地蔵尊の加護なのか。
慧輪はもう一度目を閉じ、大きく息を付いた。深く合掌し、繰り返し言を紡ぐ。
「南無無輪地蔵尊」
と。
再び開いた慧輪のその目には、凄まじいほどの力と、限りのない慈悲が現れていた。
暗闇を彷徨っていた。
上も下もなく、在るのはただ果てのない闇。
「……そうか、死んだん、だったな」
形のない魂になったヤマトゥは、どこに行くともなく漂う。
すでに嘆きも苦痛もないが、心は穴の空いたようだった。
不意にその行く先に、金色の光が見えた。
吸い込まれるようにそちらへ向かう。
「なんだ………あれは……」
どこかで見た事がある。確かあれは寺という、外の神を祀る建屋の中にあったものだ。
「ノベコよ……」
寺を思い出し、友を思い出す。
そして同時に怒りも。
やがて、それの姿がはっきりと現れた。
金色に輝く外の神。仏と言ったか。
「ヤマトゥよ」
不意にそれが語りかけてきた。心が震えるような、尊ささえ感じられる声だった。
「そなたは死に、これより輪廻を巡る。しかし、それを砕こうとする者が現れた」
ヤマトゥは恐れながらも、それに言葉を返す。
「そのような事を言われても、アは何もできません」
「人の業は人によってしか正されない。そしてまた、人を救うことも。その者を正しき道へ戻し、輪廻をつなげるのだ」
「アに何ができましょう。ましてそれが誰なのかも分からないし、そもそもアは死んでいるのです」
ヤマトゥの言がまだ口にあるうちに、その魂はぼんやりと形を取り始めた。
「輪廻を巡り、人として生まれるたび、そなたはその者と巡り合う。道を説け。そして救え」
ヤマトゥの魂が魚の形に変わっていく。
「行け。そなたに我が加護を授ける」
ヤマトゥだった魚の目が金色に輝いた。
「我が名は大日。この法界そのものである」
その言葉が聞こえるか聞こえないかのうちに、魚は意識を失い、金色の光へと溶けて消えたのだった。




