慧輪無常
「慧輪、経だ、経を上げろ!」
荒々しく足音を立てながら寺に入ってきた馬子に対し、慧輪は湯を差し出しながらその勢いを受け流す。
「また突然な。宮中で何があったのです」
「物部の手の者全てを呪い殺すのだ!」
握り締めた拳で床を殴る馬子を慧輪は諌めた。
「馬子様もご存知のように経典にそのようなことは記されておりません」
「それ程までに我が手も仏の手も尽くしたいのだ。しかしそれはさて置いて、大王に仏の慈悲を願うことは間違いではなかろう。大王は三宝に帰依を表明された。今大王にお隠れになられては仏法もまた後退するかも知れん」
「そういう事でしたら、もちろん上げさせていただきます。もとより大王に限らず、苦しみを抱えた衆生のため経を上げるのは我らが勤めにございますれば」
そうして慧輪は寺の奥に行き経を上げ始める。
しばらくの後、戻ってきた慧輪に馬子は話を続けた。
「とは言っても大王の病はかなり重い。あまり考えたくはないのだが、次を誰にするか決めておいた方が良いな」
「馬子様がお決めに?」
「もちろん群臣の議によるぞ」
そうは言いつつも、馬子の目はギラリと輝いている。
「最初はな、額田部の皇女を次の大王にと考えておった。しかし少々問題もある。だからまずは泊瀬部の皇子を次期大王にと俺が擁するつもりだ」
「しかしそう上手くは」
「いかん。守屋は穴穂部の皇子に目をかけているようであるし、宅部の皇子を次期大王にという者もおる。しかしな、それらではいかんのだ」
馬子は立ち上がって寺の奥、その仏像を指す。
「見ろ慧輪。泊瀬部の皇子が大王になれば、俺がその力の下、もっと仏法を広めてこれなどよりも大きくて立派な仏像と寺を建てられる。上宮のも乗り気だぞ」
そう言って馬子は豪快に笑ったが、慧輪は虚しさに胸が寒くなるを感じた。
仏法とは、仏像とは、寺とは、ただ大きく在れば良いのか。
ただきらびやかなれば良いのか。
ただ大王の力の下に在れば良いのか。
握り締めた掌を吹き抜けた風が、大和の空へと溶けて消えた。
大王の崩御に都が揺れたのは、そのすぐ後のことだった。
人々はその報に嘆き悲しんだが、宮中の群臣は恐れが悲しみに勝った。
大王をその陵に送る暇もあらばこそ、馬子が次の大王にと泊瀬部にいた皇子を宮中に迎え入れたのである。
しかし時を同じくして、守屋が穴穂部の皇子と共に都に入り、ここに蘇我と物部は遂に互いに剣を向けることになったのであった。
その夜は殊の外月が大きく、辺りを明るく照らしていた。しかし都は静まり返り、聞こえるのは虫の音だけ。
「止まれ!」
夜の静寂を鋭い声が切り裂く。
「私ですよ。馬子様に呼ばれて来たのです」
近づく人影に門守は剣を突きつけたが、慧輪が先んじてそれを制した。
「これは慧輪和上様、大変に失礼を。馬子大臣様は奥の寝屋におられます。ささ、お通りください」
「ありがとうございます。お務め、ご苦労様です」
慧輪は頭を下げ馬子の屋敷に入ると、奥の寝屋へと歩を進める。
「馬子様、慧輪です」
「入れ」
ごく小さな声で馬子が応える。慧輪は戸を滑らせ、馬子の寝屋へと入った。
「忍んで来いとは一体何事でしょう」
寝屋の中央で座っている馬子に油の光が当たり、影が不気味に揺らめく。
「真を言うとな、俺は恐れている」
声も低く馬子が口を開いた。
「守屋も、穴穂部のも、そして額田部のもだ」
「大連様はともかく、額田部の皇女様は馬子様の近しいお人ではありませんか」
慧輪がそう尋ねると、馬子は首を振って息を吐いた。
「慧輪、俺とお前はもうどれぐらいの付き合いになる」
「もう三十は優に数えられます」
「そうであろう。そしてお前はずっと仏に帰依した欲のない人間だ。だからこそ今日ここに呼んだのだ」
そしていっそう声を低めて、囁くも同然に慧輪に話す。
「守屋が穴穂部のを大王に立てようとしている。まあ、それ自体は俺には分かっていた。そして当然そうなっては困るのだ。だから俺は額田部のにそれを話した。するとな」
少し言を切って、やや間を開ける。
「穴穂部のを誅せよ、とな」
「なんと……」
皇子を殺せ。
恐ろしいその命に慧輪は戦慄した。
「確かに額田部のは皇子に汚されそうになったことがある。そして穴穂部のは気性も荒く人を束ねる器ではない。しかし誅せよとはな」
「とは言っても、穴穂部の皇子も大王となる力を持ったお方。敢えて申し上げますが、臣の身でそのような事を……」
馬子はため息をついた。
「分かっておる。しかし臣の身と言うのなら額田部の命にも従わねばならん。だからこそ皆恐ろしいのだ」
そして馬子は慧輪を真っ直ぐに見る。
「俺とて蘇我の長。戦となれば敵を打ち倒すことは何とも思わんし、また倒されることも覚えの上だ。だが、我らが道の上にあるというだけで打ち倒すことはまだ行ったことがない」
慧輪は衣を握り締めた。
「私は壁、取るに足りない板にございます。馬子様が信頼しお話下さったこと、仏法の下にいる私は何も申し上げることはできませんが、あなたの道が整えられ、その歩みに躓く石のなきよう願うばかりです」
「ああ、お前がただ受け止めて聞かなかったとすること、礼を言うぞ。これより先も俺の横に在ってくれ」
油の光が二人の顔を淡く照らし、夜の鳥が鳴く声が静かに響き渡った。
慧輪が馬子の心を受け止めてからいくつ日が落ちた頃か。
都の守屋の屋敷は騒然としていた。
兵のための小屋で寝泊まりをしていたヤマトゥ達は、守屋直下の兵の声で目覚めた。
「皆、己の剣を帯び短甲を身に着けよ! 大連様はこれより渋河へ居を移される。それに従い、道中でもしも大連様に災禍あればそれを退けよ!」
兵達は動揺しながらも手早く身の回りを固め、守屋とその将兵の後に従った。ヤマトゥとノベコもそれに続こうとしたが、彼らを含め数人が屋敷の者に呼び止められる。
「そこな者達はここに残れ。宅の守りと都の見聞きを業とせよ」
「はっ」
命が下り、それぞれの役を任じられた後、ヤマトゥは近くにいた屋敷の者に尋ねた。
「あの、長様はなぜ移ったのでしょう。何が起きて兵は渋河へ移動するのですか?」
「知らずとも良い。……と言いたい所ではあるが、大連様は下々の者にも隠さず伝える寛大なお方。話しても良いだろう」
ヤマトゥに近付くよう手招きをし、声を低くする。
「我らが物部と蘇我がもはや対立を免れ得ないことは知っておろう。大連様は蘇我の専横を防ぐために穴穂部にいらっしゃる皇子を次期大王にと都へ迎え入れたのだが……」
「知っています」
ヤマトゥは神妙な面持ちで頷いた。
「皇子が殺められた。手を下した者は見つかっていないが、蘇我の手の者であることは間違いない」
「なんと……」
ヤマトゥは絶句する。
都のことは未だ良く分からずとも、臣が大王になり得る人物を殺めて良いはずもない。
「だからこそ俺は蘇我をこのままにするわけにはいかんのだ」
そう言って現れたのは、誰あろう守屋その人だった。
「大連様!? 渋河へ向かわれたのでは?」
ヤマトゥのみならず屋敷の者も目を点にする。
「俺に似た者に俺の衣を着せて向かわせた。蘇我の力が強いこの都を空にするわけにはいかんが、さりとて渋河の備えを蔑ろにするわけにもいかんからな」
守屋は部屋の中央へ立つと、その場のすべての者へ命を下した。
「もはや時はない。蘇我との剣による争いは必至。これは我等物部だけでなく、大和の行く先を決めると心得よ。蘇我は蕃神を祀り、外つ国の者共を重んじる。このままではいずれ大和は外つ国の思うままとなるだろう。我等がそれを止めるのだ」
腰に帯びた金の飾りもまばゆい剣を抜き、それを突き刺すように構える。
「大和を守るとその身を捧げる者は剣を抜け。皆の心構えを見せよ!」
その場にいた者は応え剣を抜いて守屋のそれに重ねたが、ヤマトゥとノベコの剣は微かに震えていた。
「蘇我も将兵を集め、戦の用意を整えているようです」
その知らせがもたらされたのは次の日が落ちてすぐのことだった。
「やはりな」
守屋は頷くと兵に命を下す。
「一人は馬にて渋河へ行き、蘇我の兵に備えさせろ。砦を築き、攻め立てられならば矢を雨と降らせるように。そして石人、お前はヤマトゥとノベコを連れ勝海の屋敷に行き蘇我の動きを伝えろ」
「はっ」
それぞれの兵の動きは速く、戦慣れしていないヤマトゥとノベコはついて行くだけで精一杯であった。
慌ただしく木の短甲を身に着け屋敷を出る直前、守屋が二人を呼び止めた。
「備えのためとは言え、俺の所に来てすぐ不慣れな事をさせて戸惑うこといみじかろう。しかし今こそが最も重きを置くべきなのだ」
そして二人にそれぞれ肩に手を置いて語りかける。
「ヤマトゥよ、功を挙げれば冬を越せるだけの米をやろう。ノベコよ、お前には病める母を癒やすための良きものも贈ろう。俺のため、大和のため、力を尽くしてくれ」
大王に次ぐ力ある者が、自分のような山の者に目を同じ程に落とし語ってくれる。
そのことにヤマトゥとノベコの胸は熱くなった。
「ア共は愚かな山の者です。それでも、大連様のお役に立てるよう力を尽くします」
二人は共に剣を取り、立てて柄を守屋に向けて跪いた。兵達の儀を知らねども、心の内から出る礼であった。
「礼を言うぞ」
辺りをうかがい、そっと屋敷を出る二人の背に、守屋は小さくつぶやくのだった。
「中臣連様の屋敷は少し遠い。それまでに蘇我に気取られるな」
そう言った物部の部民に名を連ねる者の一人石人は、ヤマトゥとノベコを後ろに従わせ身を低くして都を駆ける。
「あの、どうしてア達も共に行くのでしょうか。石人様お一人の方が早く向かえると思うのですが」
ヤマトゥがそう聞くと、顔のみ振り返り石人は答えた。
「お前達はまだ都に慣れておるまい。大連様はこの都が重要な戦場になると考えておられる。だから同行させて少なくとも中臣連様の屋敷、蘇我の屋敷の位置を覚えさせたいのだ。それにな」
そこで石人は再び前を向き、何もない空を睨んだ。
「もしも蘇我に見つかり捕らわれることあらば、私が奴らを斬り、道を開く。そのうちに疾く行くのだ」
「そんな……。その時はアが戦います。石人様が逃げてください」
それに対し石人は軽く笑った。
「お前達の剣では奴らは斬れないだろう。何、見つからねば良いだけの話だ」
しばらく移動し、大きな寺の横を通る。闇に佇むそれは、暗い危険な獣のようにも見えた。
「ヤマトゥ、これはなんだ?」
ノベコがささやき声で聞いてくる。
「詳しくは分からんが、大臣様……いや、蘇我の手の蕃神を祀る場所らしいぞ」
「ここの位置も覚えておけ。必ずこの場所もまた来ることになる」
石人に言を返そうとヤマトゥが前を向いた時、寺から火皿を持って出てきた、立派な衣をまとった法師と目が合った。
彼は訝しそうな目を一瞬したものの、すぐに目を伏せ、寺の中へと戻っていった。
「今のは……?」
ヤマトゥのそのつぶやきは、闇の中へと溶けて消えた。
一瞬、ヤマトゥの目の奥に、金色の輝きが見えた気がした。
日ごろ経て、都にて人々と話していた慧輪は馬子の屋敷が騒がしいことに気づき足を向けた。
「馬子様にお会いしたいのですが」
慧輪の姿を認めると、屋敷の者はすぐに馬子のいる場所へと通してくれた。
向かった部屋の中では馬子が杯を傾けていた。
「慧輪、急にどうした」
「お屋敷が騒然としていたので何事かと思いました次第でございます」
「おお、そうか。あれを見せてやろう! ……と言いたいところだが、僧たるお前に見せても仏の怒りを買うやも知れん」
と、馬子は遠くを指さした。
「中臣勝海の首を上げたのだ」
仏法に強固に反対し、物部と共に兵を挙げたという連。
それを討ち取ったと馬子は誇らしげに語った。
「もっとも撃ったのは俺ではないが。奴は俺に反対し物部と共に兵を挙げ、あろうことか押坂の大兄と竹田の皇子の像作って何やら呪いを行ったそうだ」
「ああ、そのような……」
慧輪は苦しげに呻くことしかできなかった。
「しかしな、不利と見たか知らんが、その後すぐ押坂の大兄に従おうとその門をくぐったらしい。その屋敷を出たところを見計らって首を上げたと聞く」
「なぜです? 押坂彦人大兄の皇子様の元を訪れたなら、少なくとももう逆らう意思はなかったはず。懐に飛び込んできた鳥を殺すなど、そのような慈悲のない行いを……」
馬子はうるさそうに手を振った。
「そんなことは知らん。張本人の迹見赤檮にでも聞けばよかろう。ただな」
そこで馬子は怒りの相もあらわに、首のある方を睨みつけた。
「像を作り、それに神々の呪を願うなど、この大和にあってはならん。そのような危険な奴を易々と許すわけにはいかん。まして中臣だ、我等蘇我に兵を挙げればどうなるか、他の群臣への見せしめにもなっただろうな」
慧輪は衣を握りしめ、そして唇を震わせた。
「ではせめて、良く弔う事をお許し下さい。中臣連様の御霊の安らかならん事を」
「構わんが、奴は神祠の筆頭だった男だぞ。仏の下で弔われる事を喜ぶとは思えん」
そう言って馬子はさも嬉しそうに笑い声を上げるのだった。
「さて、俺は数日のうちに渋河の物部の元に打って出る。お前は寺で俺と蘇我の為に経を上げてくれ。上宮のも連れて行けと言っていたが、あれはまだ幼い。お前に預けるから横において同じく経を上げさせるがいいだろう」
「かしこまりました。皇子様の場所を整えると共に、馬子様の勝利を祈願し経を日ごと夜ごと上げてまいりましょう」
「そう日は掛かるまいがな」
そして慧輪は馬子に勝利の祈願をすると寺に戻り、皇子のための場所を整えつつ、日頃の勤めに戻った。
慧輪が経を上げていると、僧房から硬い音が聞こえてきた。
訝しく思い見に行くと、立てかけていたはずの錫杖が倒れ、わずかにその円環が欠けていた。
きっと置く形が悪かったのだ。
そう思い今度はそれを寝かせて置いたが、なぜかその出来事はとてつもない不安となり慧輪の胸を騒がせるのだった。
翌日馬子が皇子を伴い寺に現れ、そして彼を白膠木の木と共に慧輪に預けた。
「四天王像を作りそれに祈願をしたいと言ってな。皇子よ、寺を汚すでないぞ」
「心得ております、馬子様。お師様、邪魔にならないよう心を配りますので、どうか像を寺で作ることをお許し下さい」
頭を下げる皇子に、慧輪は腰をかがめた。
「頭をお上げ下さい、皇子。馬子様のため、大和のため、祈願の像をお作りになるその姿勢、きっと仏もお喜びでしょう」
その肩に手を乗せると、皇子の顔は喜びで輝いた。
「では慧輪、皇子のことはくれぐれも頼んだぞ。皇子、良く仏法を学び、師に従い、尽くすのだぞ」
馬上からそう言うと、馬に一鞭入れ駆け出す。
慧輪と皇子はそれを深く合掌しつつ見送るのだった。
「蘇我が軍を進めました!」
蘇我の屋敷を見張っていた兵からそう知らせがなされると、守屋邸はやにわに騒然となった。
「狼狽えるな!」
しかし守屋は声を上げ、兵達を静める。
「そのための備えはすでに整えさせている。蘇我の兵力もお前達の働きで分かっている。まずは憂うに及ばん。それよりも」
と、その場にいる者達を見渡した。
「奴らは必ずその多くが手負いになって戻って来る。ここに残った者は少ないが、手負いならば十分に叩けるだろう」
そう言う守屋の顔は何かの決意をたたえているように見えた。どこか薄ら寒いものを覚え、ヤマトゥは背筋が冷たくなるように感じるのだった。
兵達はさらに少ない人数に分けられ、それぞれが定められた所に身を潜めた。
高い日が肌を焦がし、草の匂いがむせ返るように感じる。
顎を伝って滴った汗が土に落ち、それを拭うことも忘れるほど気が張り詰める。
そして、蘇我の軍が、引き上げてきた。
おびただしい数の手負いの兵達が寺に運び込まれ、馬子自身も軽い矢傷を負っていた。
「少し侮った。俺の屋敷だけでは寝かせておく場所が足りん。寺の敷地を使うぞ」
慧輪の手当てを受けながら馬子は悔しそうに言う。
「あれほどの備えをしているとは思わなんだ。孤立してもさすがは大和の武を束ねる男よ」
「馬子様の矢傷は浅くて何よりでした」
「俺には強力な仏の加護がついている。物部のようにその仏を退け古きに固執しては大和に先はないのだ」
馬子は立ち上がると寺を出た。腕に巻いた布はすでに少し赤く滲んでいる。
「一度立て直し再び打って出る。さらに強く加護を求めていてくれ。お前の経が勝利をもたらした暁にはどんな褒美でもかなえてやるぞ」
それに対し慧輪は首を振る。
「私はただ、この大和が安らかならんことを願うばかりでございます」
「お前はそういう奴だったな」
去っていく馬子の背を見送って、慧輪は手負いの兵達の手当てを行った。寺にいる僧達もそれを助け、いっとき兵がこの場所を埋め尽くした。
皇子もそれを助けようとしたが、高貴な身分のゆえに慧輪から止められ、祈願のための仏像作りに戻った。
やがて急ごしらえの手当てが終わると、動き戦える者は再び蘇我の屋敷へ戻り、動けぬ程の傷を負った者は寺のあちこちに寝かされるのであった。
やがて日が沈み、火皿の炎が揺らめく夜。
痛みに呻く声が、一つ、また一つと寝息に変わってゆき、慧輪をはじめとする僧達もまた横になる。
虫の音が途絶えたような気がした。
寺の灯りが消え、もうどれぐらい経ったか。
「そろそろいいだろう」
石人がささやき、弓を構えるよう部民に指示を出す。その先には火が着いている。
「石人様、まさかこの建屋ごと燃やすのですか? 兵達ならばともかく、剣すら持っていない法師という人々もいるのに」
ヤマトゥが石人の衣を引く。
「その法師が蘇我の拠り所であるのだ。先の大連、物部尾輿様は火によってその地を清められた。我等もそれにならい、火で清めた後この場所を神々にお返しするのだ」
「そんな……」
ヤマトゥは振り返る。後ろではノベコの、痛みすら感じさせる顔がかすかな火に揺らめいていた。
「聞くな、ヤマトゥ。アは……アはやらなきゃならん。母の病を治してやりたいんだ。母一人子一人の、互いにたった一人きりなんだ……。褒美がいるんだ……!」
もはやヤマトゥに言はなかった。ノベコの気持ちは痛いほど分かる。しかし剣を持ってすらない相手を傷つけるなど。
「心は定めたか。いずれにしろ火は放たれる。お前達がやらなくても、な」
矢に付いた小さな火の音すら聞こえる静寂が訪れる。
ヤマトゥの息が荒くなる。
「構え」
弓が一斉に構えられ、矢が寺に狙いを定めた。
「射て!」
矢が闇を裂き、寺に小さな火が着いた。
妙な気を感じ取り、慧輪は目を開けた。
かすかな物音。僅かな熱。そして寺の口で燃える火。
「火だ! 起きろ!」
慧輪の声にほとんどの者は目を覚ましたが、手負いの者は急ぎ逃れる事はできない。
「逃がすな! 僅かでも蘇我を叩くのだ!」
突如聞こえた声にその先を見れば、寺の口に逃げた兵が何者かに斬られ、事切れていた。
「物部か!」
動ける者は弓を持ち抵抗する。しかし乾いた寺に放たれた火の回りは思うより早かった。
「和上、お逃げ下さい!」
突き飛ばされ、壊れた板の隙間から慧輪は外に転がり出た。直後、慧輪を突き飛ばした親藍の胸が矛に貫かれ、そしてその場が火によって崩れ落ちた。
「親藍!」
慧輪が叫ぶと同時に崩れた屋根が彼に襲いかかり、燃え盛る柱が片足を砕き、焼いた。
苦痛に呻くが、他の兵や僧がまだ寺や僧房にいる。皇子もまだ逃げていない。
「なぜだ……? 私は、私達はただ、大和に平穏を、人々に安らぎを、ただそれだけを願って……!」
涙が頬を伝う。悲しく、そして悔しかった。
また寺の一角が崩れ、大きな音を立てる。
「……! 皇子様! 栄元! どこだ!」
「お師様……」
少し離れた場所から皇子の声。しかし栄元はもちろん僧達の声はない。
「お待ち下さい……、今、お助け致します……」
皇子の下へ這いずっていく。その間にも兵達の命の消える声がそこここで上がり、寺の炎が夜を焦がし、崩れ落ちる建屋が音を立てる。
慈悲のない、地獄だった。
ふと、手に錫杖が当たる。何処から落ちてきたそれは、円環が欠けていた。
それを地面に突き立てながら、腕だけで這って進む。
「う、動くな! 蕃神の者め!」
震える声に横を向くと、粗末な短甲を身に着けた若者が剣をこちらに向けている。しかしその切っ先は定まらず、脚は震えていた。
「よせ、そなたは剣を握るべきではない」
慧輪は努めて穏やかに語りかけた。
「そなたの神も命を奪うことは是としておらんはずだ。慈悲の心を持って、私と一緒に人を助けてはくれまいか」
片手は錫杖を頼り、反対の手で片手合掌を見せ、敵意がないことを示し共に歩まんと話しかける。
「ほうびが……ほうびが欲しいんだ。村で母がアの帰りを待っている。母は病なんだ。慈悲というならここで、ここで死んでくれ!」
若者は震えながらも剣を振りかざし切りかかってきた。
「やめろ!」
命を奪わんとする剣の恐怖から逃れようと、無我夢中で慧輪も錫杖を振り回す。
刹那、若者の後ろで寺が崩れ落ち、柱がその背を押した。
倒れ込む若者の前には、慧輪が突き出した、円環の欠けた錫杖。
それが、若者の、喉に。
「ガカッ……!」
奇妙な声を上げ、若者の喉から血が噴き出した。
そのまま倒れ込み、慧輪の横で目が虚ろになる。
「……。苦しいよ……、母ちゃん、痛いよ……」
呻く若者に、慧輪が手を添える。
「おい、しっかりしろ!」
「母ちゃん……、ごめんな。痛いよ。会いたいよ。ごめんな。ごめんな……」
その目から光が消え、力なく手が地に着く。
「私が、人を、殺めた……?」
慧輪は錫杖を放り投げると、自分の両手を見つめた。
その手は真っ赤に染まっており、止めどもなく血が溢れ地面に滴り落ちる。
そうかと思うと、黒い炎が噴き出し、血をすべて舐め尽くして消えた。業火にさらしたが如く、凄まじい痛みが手と腕を包んだ。
「私は……、私は何ということを……! 慈悲は、救いは、仏はどこに!」
刹那、寺の一部が慧輪の頭を打ち、彼は暗闇に沈んでいった。
暗闇に、何かがいた気がした。
ヤマトゥがそれを見たのは、ほんの偶然だった。
少し離れた場所で、ノベコが法師に剣を向けている。法師は立つこともできず、哀れなウサギのようだった。
「ノベコ!」
止めようとそちらに駆け出した時、ノベコが法師に切りかかった。法師がそれを防ごうと棒を振り回す。
ノベコの後ろで崩れた寺が彼を押し、法師と重なった。
そう見えるや否や、ノベコは血を吹き出し、倒れた。
「ノベコ……?」
倒れた彼は動かない。横の法師は手を見つめたまま動かない。
「うわあああああ!」
病の母のためだと慣れぬ剣を握った。村に帰って母に楽をさせると笑っていた。褒美が欲しいと切りかかった。
ノベコは死んだ。それも、慈悲だとかを言う法師の手にかかって。
「……殺してやる!」
泣きながら剣を握った時、石人に腕を掴まれた。
「蘇我に気取られた。引くぞ」
「嫌だ! 離せ! あいつを殺すんだ!」
「命を聞かんか!」
その腕を振り払おうとヤマトゥは暴れたが、腹を殴られ彼は気を失った。
落ちる暗闇は、あまりにも深かった。
「無事、とは言わんが、お前の命があって何よりだ」
深い憂いを顔ににじませ、馬子が言った。
「皇子も無事だ。お前のせいではない。寺まで狙った物部の悪らつさにすべて責がある」
馬子の屋敷の一角に寝かされた慧輪は、合わない目で上を見つめていた。
「私は、人を殺めてしまいました。それもまだ若者でした」
「大方お前を殺そうとしたのだろう? 殺したのはお前ではない、その者自身の行い故だ」
傾いた日が二人を照らす。馬子の影が慧輪に落ち、その顔はいっそう暗く見えた。
「もはや私は何にすがって良いのか分からなくなりました。仏にすがった者も、それを咎めた若者も死んだ。慈悲はどこにありましょう」
一人語りのようなそのつぶやきに、馬子はただ首を振った。
「今は体を治すことだけを考えろ。その間に、俺は物部を滅ぼしてくれる。一人も逃さんぞ」
馬子は立ち上がると、人を呼んだ。
「この者にすべて言い含めている。身の回りの世話はすべて頼るといい。それからな、これを拾っておいたぞ」
持ってこられたそれを、慧輪の横に置いた。
円環の欠けた、錫杖。黒く、赤く見える。
慧輪は呻いて目を背けた。
「歩みの助けにもなろう。では打ってくる。加護を求めていてくれ」
馬子は屋敷を出ていき、そして慧輪は静かに涙を流した。
「僧を殺せとまでは言っていない」
守屋は苦々しく呻く。
「申し訳ありません」
石人が地に伏せる。
「都の人の心は我等を悪しざまに思うことだろう」
深く考えた後、息を一つ付くと守屋は命を下した。
「ここにいる皆すべてで渋河に引き上げ、そこで最後の足掻きを見せてやろう。物部、ここにありとな」
そして守屋は屋敷に残っていたすべての者を連れ、渋河の邸へと目立たぬよう引き上げた。ヤマトゥはその一番後ろを、足を引きずるようにして歩んだ。
邸に篭っていた兵達は守屋の帰還を喜んだが、しかし戦の先は暗いことを心得ていた。
「そんな顔をするな」
努めて明るく守屋は皆に語りかける。
「いざとなればここを抜け、筑紫にでも潜む。そこで再び力を蓄え、先の磐井のように蘇我に剣を向けよう」
物部の者達はその言葉を胸に刻むんだ。
例え大和に弓引く者と指を差されようとも、守るべきもののため、先を生きる者のため、恥を受け入れようと。
その時、見張りから蘇我の接近を知らせる声が飛んだ。
「剣を取れ、矛を構えよ! 弓を持ち、矢をつがえよ! 大和の武をその手に担う我等が物部、蘇我のごときに遅れを取るな!」
ヤマトゥが、そして各々が武器を手に取り蘇我を迎え撃った。
鬨の声が上がり、地を揺らすほど大勢の蘇我を始めとする群臣の兵。
数においては劣ること甚だしかったが、武においては並ぶ者無しの物部は勇を示し、相対する者達を恐れさせた。
守屋も高い櫓の上から矢を雨のように次々と降らせ、兵を全く寄せ付けなかった。
矢が空を切り裂く音が聞こえるたび、悲鳴が上がり人が倒れる。守屋邸とその砦の周りは兵の血で赤く染まった。
ゴウッと、重たい音が聞こえた気がした。
ヤマトゥが音を感じた次の刹那、耳が、いや、耳のあった場所に溶けた鉄を当てられたように痛む。
あまりの痛みに顔を背けうずくまった時、目の端に、それが見えた。
ヤマトゥの耳が付いたままの矢が、守屋の目に突き刺さっていた。
「長様!」
武に長け、しかし情け深く、驕らずに目を合わせてくれた物部の長。
守屋は刹那、自分を射た者を呪うように見据えたかに見えた。
櫓から落ちる守屋の姿が、異様に遅く感じる。
そして、守屋が地面に叩き付けられるや否や、兵が襲いかかりその首が打たれた。
しかし、それを理解する間もなく、ヤマトゥもまた。
見開いたその目が最後に写したものは、自分の胸を貫く矛。最後に聞こえたものは、血が溢れ出る音。
痛みすら既に感じず、ヤマトゥは底のない闇に落ちていくのだった。
「我等の勝利だ!」
火が放たれ、灰と炭となって崩れ落ちた守屋邸を前に、馬子は大声で笑った。
まだ焼けた匂いが濃く残り、物部の兵の死体があちこちに転がっている。
「皇子の四天王像も加護があったが、何よりお前の上げた経のおかげだろうな。おかげで蘇我はもちろん、仏法を行う群臣は奮い立ったぞ。慧輪和上、我等にあり、とな!」
慧輪は何も言えず、ただ頭を垂れるのみだった。
物部守屋が討たれたとの知らせを聞き、屋敷の者に言って馬で運んでもらっていたのだ。
「褒美も何もかも思いのままだぞ。金色の仏像がある新しい寺か? それとも立派な塔か? 清めもままならん程の広い屋敷か? 全て俺が叶えてやる」
馬子は笑いながら焼野を歩く。
しかし慧輪の目は何も動かず、連珠を握ろうとしてそれをやめ、ただ熱い土を踏みしめるのみであった。懐に入れた皇子の掘った像ですら冷たい。
その手には、あの錫杖。
風が唸り、焼けた土が足の下で崩れる。
悲しむには、すでに彼の心は仏法にはなかったのである。




