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孤立の萌芽

その冬はことの他寒くなり、降り積もる雪に慧輪は震えながらも火を焚き、勤めを果たし続けた。

 雪が溶けて芽が息吹き出す季節になると、故郷とは異なる草花を愛で、その在り様を慈しんだ。

 稲目は仏堂を新たに建て、そこには日ごとに人が集まり、仏法はこの大和の地に広く知られるようになっていった。

 そのような移ろいがいくつ過ぎ去った後か。

「なあ慧輪、お互いそろそろ百済言葉も怪しくなってきたのではないか?」

 少しばかり皺の増えた顎を撫でつけ阿河が言う。

「大和の言葉しか話さなくなってもう随分経ちましょう。それはそうと阿河兄、今日こそは色よい返事を頂きたい」

 阿河は五月蝿そうに手を振った。

「何度言われても俺は和上の称など受けんぞ。柄ではないし御仏も呆れておられるに違いない」

「そんなことはないでしょう。仏堂に集まって来られる人にも、阿河兄を慕っている人は多いのですよ」

「それとこれとは話が違う。そも、だ。こう言っては傲慢かも知らんが、大和において僧の頂にいるのは俺達であろう。つまり俺を和上と周囲に呼ぶよう認めるとしたらお前からということになる」

 慧輪は少し口を曲げた。

「私からなぞ受けられない、と?」

「そうではない。お前は俺を兄と呼んでいる。そんなお前が俺を和上と呼ぶとしたら、周りは俺がお前に無理を言ったと受け取るであろうな」

「そのようなこと……」

 慧輪がなおも言い募ろうとした時、必要以上に大きな声が遮った。

「邪魔するぞ、慧輪和上、阿河殿」

 仏堂に入ってきたのは、身の丈高く伸びた髪を後ろにくくり、長い鉄剣を腰に帯び、豪快な色で衣を染めた若い男だった。

「これは馬子様。いかがなされましたか?」

 慧輪が立ってその男、蘇我馬子に座を進めると、馬子は懐から書状を出して阿河に渡した。

「百済からの船が来ていることは知っているだろう? 阿河殿へ特にと渡されたものだ」

 渡された書状を黙って読んでいた阿河は、眉間に皺を寄せて苦い顔をしている。

「何がしたためられているのですか?」

「百済に帰ってきて欲しい、と」

「今すぐには決められまい」

 出されていた湯を飲み干すと、馬子は立ち上がった。

「次また稲が実る時期に船がやってくる。その時までにどうするか決めておいて欲しいとのことだ。場を乱して悪かったな、二人共」

 騒々しく馬子が出ていくと、二人は押し黙った。

「今になってなぜ?」

 少し経った後慧輪が口を開く。

「百済では御仏の御威光ますます広がり、こうして異邦での功ある僧を呼び戻し、もって寺主などに当てたい。つきましては阿河にそれを任せたい、だそうだ」

「いかがなさるおつもりで?」

「分からん」

 阿河は立ち上がって仏堂の外へ出た。

「見ろ、この眺めを」

 外を指し、見える都と大和の自然を眺める。

「俺はこの大和が気に入っている。志半ばだったとは言え、法仁和上も骨を埋めた地だ。しかし、俺を産み育てた地が呼んでくれているというのもまた事実」

 そして大きくため息をつくと、阿河は破顔して慧輪を見た。

「馬子殿も言っておったが、稲実る時期まで考えるさ。御仏の御心のままに、な」

「はい……」

 

「父上。百済からの書状、確かに阿河殿に渡しましたぞ」

「お前が握り潰すとは思っていない。……が、隠しても良かったと私個人は思っている」

 馬子は馬から降りるなり、姿を認めた稲目に報告する。

「阿河殿は大和に必要な人だ。しかし大王へ正式に通されたものとなればそうも行くまい」

「御言葉を賜る場では何もお言いになっておられなかったようですが」

「大王の寝屋で私のみ賜ったのだ。お前も次期大臣として大王にお気に召して頂くよう振る舞うのだぞ」

「お任せ下さい、父上!」

 馬子の声に稲目は顔をしかめた。

「まずは大王の御前に相応しい振る舞いを身に着けろ」

 

 書状を受け取って数日、阿河はふと空を見上げることがあった。

 故郷への想いは消えるものではなく、慧輪自身それは良く理解していた。

 それでも阿河は変わらず仏堂に集う者に御仏の教えを語ってみせ、時には近くの子供たちと野を駆けることもあった。

「和上様、あれはなんて言ってるの?」

 ごく小さな子から話しかけられ、慧輪はその子の指さす方を見た。

 阿河が子供たちの中心に座り、百済の童歌を聞かせている。

「私達はね、海の向こうにある土地からやってきたのだよ。そこはここ大和と言葉も習いも違う場所なんだ。阿河様が歌っているのは、その場所、百済という地の歌なんだよ」

 慧輪も懐かしそうに、しかしどこか悲しそうに目を細める。

「言葉も習いも違っても、御仏を尊ぶ心は大和も百済も変わらない。例えどこにいようと、ね」

 仏堂には、阿河の太く、しかし懐かしい歌声がいつまでも響いていた。

 その歌声が蛍の舞いに変わり、そして朝晩の風が涼しくなる頃、百済から再び船がやって来た。

「阿河殿、少し良いか」

 仏堂に稲目がやって来て阿河と少し話をし、そして二人連れ立って出て行った。

「慧輪、少し出かけてくる。ここは任せるぞ」

「はい」

 慧輪は短く返事をし、その背を見送るのだった。

 

「百済の秋はどのようだろうな」

 虫が飛ぶ野を眺めながら稲目が歩む。

「もう長く離れております故、俺がいた頃とは随分変わったかと」

 阿河が答えると、稲目は首だけ向けて言をつなぐ。

「御身は大和に根付き、百済は変わった。それでも百済に戻ると心が言うか」

 阿河は田の方を向き、そして目を瞑った。

「大臣様、少し座っても?」

「よいだろう」

 並び腰を下ろすと、阿河は噛みしめるように言を押し出した。

「俺は大和が好きです。外つ国の優れた物を取り入れ、俺が来た時よりも随分発展し豊かになった。大臣様のご尽力で、反対もあったが仏法も受け入れた。でも、百済は逆なんです」

「逆、か」

「百済の周りも少し厄介そうではないですか。だからこそ俺なんかに戻ってこいと言ってきたのでしょう。御仏の慈悲が必要なんでしょう。それに」

 一瞬言を切る。

「慧輪は立派になりました。元より俺なぞよりも聡く、深く、温もりのある奴です。大臣様の後ろ盾の下、これからも慧輪と大和の仏法はますます広がるでしょう。俺は既に、鉄と塩をもらったのです」

 やおら立ち上がり、阿河は歩を進めた。稲目もそれに続く。

「言を重ねるだけ、無駄か。しかし慧輪和上、あれは時折無を見ているように私には見える」

 

 外が暗くなる頃、阿河は一人で戻ってきた。

「お帰りなさいませ、阿河兄」

 慧輪は立って阿河を出迎えると、湯を差し出した。

「船には書状を持たせて帰した。久方ぶりの百済言葉は随分と錆びついておったわ。本当に百済の者か訝しがられた程よ」

 阿河は笑い声を上げたが、目は遠くを見ているようだった。

「これでは百済の衆生に御仏の慈悲を語って聞かせることもままなるまいな」

 夏の頃から随分と涼しくなった風が仏堂を撫でた。

「……やはり、百済に戻られるのですね」

「なあ、慧輪」

 阿河が改めて足を整える。

「お前も耳に聞こえたろう。百済とその周りを。大和は大臣様のお力もあり、大王も仏法をお許しになっている。戦らしい戦もない。だが百済は、余り想像したくないがこれから苦しむ衆生が増えるやも知れん。俺は、俺がその救いの一助にでもなればと、そう思っているのだ」

「ですが、私はまだ兄に何も返しておりません」

 言ってからハッとしたように慧輪は目を伏せた。

「申し訳ありません。御仏の心を私の些細な思いで塗りつぶそうとするなど……」

 合掌する慧輪の肩に、阿河が手を乗せる。

「気にするな。それに、お前の気持ちは本当に嬉しく感じておるぞ。なに、明日明後日発つわけではないのだ。それまでは……そうだな、今日は久方ぶりに語り合うとするか」

「はい。では火を入れてまいります故、少しお待ち下さい」

 慧輪は立って仏堂を横切っていく。

 磨かれた床が随分と濡れたように見えた。

 

 ーー。

 

「!?」

 何かが聞こえた気がして慧輪は振り返った。しかし夕暮れに染まる仏堂が目に映るばかりで、特に気になるものはない。

 胸の内で言いしれぬものを覚えつつ、慧輪は廊下を歩いていった。

 

 稲が重く頭を垂れ、そして実りを刈り取る頃。

 仏堂も束の間その喜びを共にしていたが、仏像に経を上げる稲目の顔は疲弊しているように見えた。

「大臣様、いかがなされましたか?」

 慧輪が声を掛けると、稲目は重たそうに口を開いた。

「大王の御身体が思わしくないのだ。最近は召し上がる御食事の量も少なく、伏せっておられる事も多い」

「おお、なんという……」

 慧輪も稲目の横で合掌をする。

「知らぬ事とは言え、無神経にございました。御仏の慈悲が大王にあらんことを」

「大王にもしもの事があれば大和はどうなってしまうのか。御子も御立派になっておられるが、しかし大王は……」

 稲目が顔を伏せる。

 慧輪は初めて稲目の涙を目にしたのだった。

「和上。御仏は大王に慈悲を下さるだろうか」

「きっと下さいます。私達は、ただそれにおすがりするのみ」

 香を焚き、経を上げる。

 いつかの疫病の時の如く、慧輪はそうする他なかった。

 香が少し、黒く見えた気がした。

 

 実りの時期が過ぎ、厳しい冬が去り、そして新しい緑が芽吹く頃、百済の船が再び大和を訪れた。

「とてもお似合いです。阿河和上」

 寺主に相応しい衣をまとった阿河に、慧輪はそう声をかけた。

「和上も世辞もよせ。俺だって好き好んでこんなぞろりとした格好をしているわけではない。こんな似合わぬ格好をさせられると知っていれば大和に残ったものを」

 新しい衣を動きやすいよう縛りながら、阿河は文句を垂れている。

「そも、この衣が必要なのは百済についてからであろうに、なぜ大和にいる時から身に着けさせられるのか。慧輪、お前はよく涼しい顔をしていられるな」

「重たく感じる事もありますが、阿河兄の腕よりは軽いものですよ」

「俺の腕など浄土の蓮ほどに軽いと言われておるぞ」

 二人は笑い合ったが、ふと阿河が外へと目を向ける。

「少し出よう」

 履物を履き仏堂を出る。

 少し歩いた先は法仁の墓所だった。

「阿河兄、法仁和上もきっとお喜びです」

「かも知れぬな」

 二人は並んで経を上げた。墓所を吹く風は穏やかで緑の香りがする。

「和上の言葉、覚えておるか? 在り続けよ、さすれば輪廻の先でまた会わん、と」

「ええ。またいつか、輪廻を巡り和上にお会い出来ますれば」

「在り続けてこそよな。そして、慧輪。お前も……」

 阿河が言を詰まらせる。その目からは大粒の涙が溢れていた。

「百済に帰れば、もうお前と会うことはなかろう。俺が大和へ誘い、共に残ると誓ったのに、俺はお前を裏切って百済に帰る。このようなことが許されようか……!」

 阿河は涙を拭うこともせず流し、それが土を濡らした。

「そのような御心にならないで下さい、阿河兄」

 慧輪も目が熱くなるのを感じる。

「あなたは私を導き、助け、支えてくれました。あなたほど誠実で温かな方はいません。例え今生は会うこと叶わずとも、在り続けてまたその先でお会い出来ましょう」

「ああ、慧輪、その通りだ。輪廻を巡り、またその先で会おう。どうか今生は息災に生きよ」

 二人は既にはばかることなく泣き、抱擁し在ることを確かめた。

 降り注ぐ陽は暖かく、土が柔らかかった。

 

 難波津に着くまで慧輪と阿河は長く語り合った。

 ほんの少年であったころ、百済で仏法を学んだこと。

 経を写し、御仏の慈悲を僧房で語り合ったこと。

 大和へ渡る前夜、心が高揚して眠れなかったこと。

 話はいつ果てるともなく続いたが、しかし道には終わりがあるのである。

「率直に言って似合ってはないぞ。衣を返して大和に留まってはどうだ」

 難波津で馬子が軽口で迎える。

「これが似合うような僧になって、大和にまで聞こえるような人物を目指しますよ」

「今さら何も言うまい。大和の仏法は私達蘇我が必ず守る。心置きなく百済で民を導いてくれ」

 稲目が言い、船の世話をする者達と話を始めた。

「では阿河兄、お身体にお気を付け下さい。また次の世でお会いしましょう」

「大和の仏法はお前に任せたぞ。御仏にすがり、輪廻を巡ってその先で待っておるからな」

 二人は固く手を結び、そして阿河は船に乗り込む。

 お互いの姿が見えなくなるまで阿河は手を振り続け、慧輪は合掌し頭を垂れ続けた。

 鋭い風が吹き、慧輪の衣が悲しげに揺れていた。

 

 仏法が大和に広がって幾年月か。

 御仏を尊ぶ者も増え、慧輪に教えを乞う者も増えていた。

 慧輪はそれによく応え、彼を師とする者もまた多くいた。

 変わらず物部や中臣からの目は厳しかったが、目立った反対や攻撃なども行われず、仏堂は穏やかであった。

 そんな折の、日が傾いて仏堂が朱に染まった刻。

「慧輪、少し良いか」

 馬子が仏堂にやってきた。

「父上のことで話がある」

「随分とお悪いとお聞きしております」

 座を進めながら慧輪は苦しげに言った。

「ああ。大王が伏せっておられてから、父上は心を痛めておった。自身も決して丈夫ではないのに、病の床におられる大王へ力を尽くし、結果明日をも知れん身になった」

 馬子は床を睨みつけている。

「私は御仏に慈悲をお願いするより手がございません……」

 合掌する慧輪を横目で見、馬子は言をつなげる。

「もう父上は長くない。しかし例えそうなろうと我等が蘇我は大王にお仕えし、仏法を守る。慧輪、お前は父上程に聡くない俺でも付いてきてくれるか?」

 慧輪は足を正し、馬子に向き合った。

「大和に私がいられるのも稲目様のお力があってこそ。そして馬子様もお若い時からご尽力されている事は承知しております。いまさらなんの言葉がいりましょう」

「その言葉、ありがたく思うぞ」

 

「風が心地良いな」

 稲目が呟いた。

 頬が痩け、土のような顔ではあるが、目は未だ光を失ってはいなかった。

「お休みのところ失礼を、大臣様」

 屋敷の者が寝屋へとやってくる。

「その、大臣様にお会いしたいとの方がお見えでして……」

 言い難そうに下を向く。

「構わん、通せ」

「はい」

 しばらくしてから重々しい足音と共に来訪者が姿を見せた。

「邪魔を致すぞ」

 物部尾輿その人であった。

 予想もしなかった人物に稲目はやや驚く。

「これはこれは物部殿、如何致した。明日をも知れぬ私を笑いに来たか」

「否」

 尾輿は紐で結わえていたやや大ぶりの壺を床に置いた。

「回復は無理であるか」

「無理でしょうな。もういつ死んでもおかしくない身の上だ」

 稲目は首を振って外を見た。

「しかし悔いはない。大王へお仕えでき、仏法の智慧と技術も大和へもたらすことができた。あなたも目障りが消えて清々しかろう」

「其れも否。我は確かに蕃神を拒むが、ぬし自身を憎く思った事はない。そして」

 尾輿は懐から素朴な盃を取り出した。

「ぬしもまた、大王と大和の忠臣である事が今はっきりとした。我も己を殺し大王と大和に仕える者である。以後も我等物部とぬし等蘇我は対立が避けられまいが、我等は互いに大和の真の忠臣。よって今ここで我はぬしと和解を願う」

 尾輿の差し出した盃を、稲目は苦笑しながら受け取る。

「死の床にあり、しかも仏に帰依した私に酒を勧めるとは、あなたもなかなかに非道いお方だ」

 注がれた酒を見つめる。

「しかし、もう先もない。この世にいるうちにあなたと酒を交わすことになろうとはな。それでは」

 稲目が一息ついた。

「大和の安寧と繁栄と」

「ぬしの黄泉への旅路を祈り」

 二人は杯を掲げ、それを飲み干した。

 月が大きく、そして明るくそれを照らしていた。

 

 慧輪が稲目の死の報を聞いたのは、それからすぐの事だった。

「慧輪。どうか父上を良く弔ってくれ」

 馬子が沈痛な面持ちで呟く。

「心を込めて送らせていただきます。稲目様は私にとってもかけがえのないお方でした」

 稲目が納められた石棺を前に、慧輪の悲痛な経が響く。

 大和の発展と安寧を心より願った男は、一族と外つ国よりこの地に根付いた者達の涙によって見送られ、生前から築造していた巨大な墓に葬られた。

 遠くから尾輿が見ていることに、慧輪は経を上げ終わってから気付いたのだった。

 

 強力な守護者を失い、都の仏法は少し陰りを見せた。

 そのような中、馬子はまず仏法よりも自らの周りを固め、大王との繋がりますます強くさせ、蘇我を強固なものとするように動いていた。

 そうして季節が移ろい、新緑も目に眩しい頃であった。

「慧輪和上! 大変です!」

 弟子の一人、親藍が慌てふためいて仏堂に転がり込んできた。

「どうしたのだ、騒々しいよ」

 軽くたしなめ、慧輪は立ち上がった。

「大王が、大王が!」

 親藍はそこで息を飲み込むと、慧輪に告げた。

「お隠れあそばされました」

 その知らせは衝撃であった。

「ああ、なんという……。兼ねてより長く伏せっておられたとは言え、お隠れになるとは、なんとおいたわしや……」

 慧輪は仏像の前に座ると、香に火をつけ、深く合掌した。

 大王の魂が安らかならん事を祈り、その御霊に御仏の慈悲が在ることを願った。


 仏像の顔が無い。

「え……?」

 頭を振って目を擦る。

「和上? いかがなされましたか?」

 しかし変わらず仏像は慈愛の相を湛えている。

 心が疲弊しているのだ。

 慧輪はそう考え、深く合掌するのだった。


 翌日都は騒然とし、大王の崩御を嘆き悲しむ声がそこここで途絶えることはなかった。

 三日三晩都が嘆き、そして涙も枯れた時分、馬子が仏堂を訪れた。

「慧輪、次の月が満ちる頃にはもう都は別の場所に移る。もちろん主だった豪族達も新たな都に移り住む。それに伴い仏堂も新たに作るがそこに移ってくれるか?」

「馬子様の思いのままに」

 慧輪は穏やかに頷く。

 もとより稲目の庇護の下にいたのだ、その跡目である馬子と共にいることに議論の余地はない。

 馬子は立ち上がって仏堂から外を眺める。

「父を時折思い出す。時に必要以上に冷徹な父であったが、その先を見る目は確かであった。この俺は父のように優れてはいない。しかし俺には父にはない勢いがある。新たな大王の下、さらに蘇我を強くし、仏法を広めるのだ」

 馬子の目は空を見据え、自らの頂を描いているようだった。慧輪はその横に立ちながら、少しの虚しさを覚えていた。なぜそう思うのか己の心に問うたが、答えは得られなかった。

 新たな都は急ぎ作られていき、また仏堂も時を同じくして完成した。

 真新しく、さらに大きく立派になった仏堂の寺主として慧輪は大々的に迎え入れられた。

「馬子様、このような扱い、私には……」

「黙っておれ。仏法を広めるためには権威も必要だ。立派な衣をまとった、先ゆく国百済からの僧。これ以上ない権威だろうが」

 馬子は慧輪の背中を叩くとそう笑うのだった。

 事実大王と蘇我の繋がりはますます強くなり、馬子は稲目の後を継ぐ形で大臣に任じられた。

 その頃、物部の長であり仏法に強く反対していた尾輿が死去したという知らせが慧輪の耳に入る。

 彼は大王に次ぐ力を持っていながら慎ましい人であり、自らの墓も物部以外には隠すことを選び黄泉へと旅立っていった。

 かつて稲目を葬する場に現れ、遠くから見守っていた彼の人を思い浮かべ、慧輪は密やかに経を上げた。

 例え信念違うとも死は悼ねばなるまいと。

「ええい、誰のために経を上げとるか」

 足音を立てながら馬子が仏堂に入ってくる。

「物部尾輿様が安らかならん事をと思いましてございます」

 経を上げ終わってから慧輪は涼しげに返す。馬子のこのような言動はいつもの事である。

「尾輿殿は今頃黄泉の坂を下っておろう。しかしそのようなことはどうでも良い。慧輪、俺はこの度妻を娶ることになった」

 急といえばあまりに急な話に慧輪は驚いた。

「それは、随分と唐突ではございますが、しかしめでたいことです」

 馬子は手を振った。

「父や大王がお決めになったのなら俺だって喜ぶが、此度は向こうからの申し出でな、俺も困惑している」

「それは一体……。どちらの部の方でしょうか」

 馬子はため息をつくと、空を睨んでその名を告げた。

「物部尾輿その人だ。もちろん死人が言ったわけではない。彼の人がそう言ったと、代わりに告げられたのだ。誰あろう、跡目を継いで大連に任ぜられた男、物部守屋だ」

 兼ねてより豪族の中で頭角を現していた物部守屋であったが、尾輿の後を継いだことによってその力ますます強まっているようであった。

「また随分と変わった風の吹き回しにございます」

「そうであろうとも。とは言え我等蘇我と物部は大和の重鎮。両氏族の結び付き強くし大和を支えるという魂胆であろう。俺もそれに反対するものではないが……しかし、物部とこれで完全に手を取り合えるとは思えぬな」

 馬子はそう言って仏像を見あげた。

 それは鈍く輝き、慧輪と馬子をぼんやりと映しているのだった。

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