仏法の芽生え
幾度か足を取られ、幾度かの休憩を挟み、一行はようやく都へと到着した。
「これが……都……?」
慧輪はややあっけにとられ眺めた。
背よりも高い先の尖った杭が組み合わさり、敷地をぐるりと囲んでいる。囲いの外側は人の背程の深さがある堀になっており、容易に攻め込まれないようになっている。
今歩んでいる道の先は杭がなく、槍を構えた兵が見張りをしていた。
囲いの内部はそれなりに広く、大きな建物がいくつかあった。
柱で支えられた床は高くなっており、壁はすべて光沢のある板が張られている。
屋根は多く、そして重く藁が拭かれており、見た目以上に丈夫そうであった。
一番大きな建物は幾棟にも分かれていて、ときおりそこを行き来する立派な衣を身に着けた者たちが見えていた。
確かに那津宮家よりは規模も大きく立派であったが、都と聞いて想像していたものと様相が著しく異なっていたため、慧輪は面食らっていた。
「遠路はるばるようこそ、百済の方々よ」
よく整えられた丸い石が敷き詰められた道の先、大きな建物の前で、立派な衣を身にまとった位の高そうな吏が一行を迎え入れた。
「まずは客館へ行き、疲れを取るがよろしかろう」
そう言って吏は一行を先導し、比較的広い建物へと招じ入れる。歩むたびに石が軽快な音を立て、踏みしめる感触も相まって心地よい。
「こちらで自由に過ごしていただきたい。もちろんあなた方の心に従って仏像なるものを置いても良い。我らが長蘇我稲目様の許しは得ておるゆえ」
そして吏は袖を合わせ一礼して去っていった。
客館はまだ真新しいらしく木と藁の匂いが残り、その艶のある光沢は見ていてどこか落ち着くようである。
慧輪を始め僧たちは早速仏像を安置し始め、他の者は荷を解き、足を拭き、先の険しい道行の疲れを癒そうと思い思いにくつろぐ。
「慧輪、先程は何か驚いたような顔をしていましたね?」
一息ついたころ、法仁が穏やかな笑みをたたえて慧輪に話しかけてきた。
「ええ。その、都と聞いていたのですが、ここはあまり王が住まう場所といった様子ではなく驚きました」
法仁は柔らかく微笑むと立ち上がって外へ出、慧輪にも来るよう促した。
「確かにあなたの言うように我が百済王の地とも、西方の大国の王の地とも違います。しかしあれを御覧なさい」
中央にあるひときわ大きな建物を法仁は指す。
「あれがこの倭国の王の城。倭王は民と共にあり、そして倭国は王が変わると都も変えると聞きます。ですから、すぐに造れ、そして崩し易くなっています。威光を強調するのではなく、常に共に歩む王である。それがこの都の在り方であり、尊い物だと私は感じました」
法仁の言葉に慧輪は胸を打たれた。
「お許し下さい、和上。私は正直に申しますと侮りを覚えたのです。なんと小さな国であるかと。しかしそうではなかったのですね。私は私の傲慢な心が恥ずかしい。御仏よ、どうか私の心をお許し下さい」
法仁は優しく彼の肩に手を乗せる。
「あまり自分を責める事はありません。ただ、在り方は様々であり、そして全ては在る事に意味がある。それだけを覚えておけばよいのです」
「在る事に意味がある……」
「はい。まさに御仏の縁起によるものとも言えましょう。私達がここに在るのもまた、意味のあることなのです」
そして二人はしばらくそこで都を眺めるのだった。
「失礼致す。我らが大和の偉大なる大王への謁見の許可が下りた。百済の方よ、さあ、参られよ」
しばらく後倭国の吏が現れ、朗々たる声でそう告げた。
一行の代表者が緊張の面持ちで立ち上がる。
「貢物はこちらでお運び致そう。どの品物を持ちゆくのか指示を願いたい」
そうして代表者と倭国の吏、人夫と貢物の数々は客館を出てゆき、この国の王の下へと向かった。
慧輪はそれを眺めつつ、数珠を絡め仏像に向かって合掌するのだった。
願わくは御仏よ、この国に教えの慈悲が満ちん事を。
大王の前へ進み出た百済の一団は、その身を低くして敬意を表した。
「豊かな倭国を治めたもう大王様、此度は我らをお迎え頂き心よりの感謝を申し上げます。我が君聖明王より預かりし貢物の数々、どうぞお受け取り下さい」
そしてその覆いを取り、良質な鉄、見事な鉄剣や鉄刀、短甲や冑、柔らかな布を取り出し捧げた。
特に大王とその場に並ぶ豪族達が驚いたのは、金色に光る人を象ったもの、すなわち仏像である。
「これは西方より伝わりし教え。偉大なる大王と倭国に繁栄と平和をもたらすものにございます」
仏像と共に数多くの巻物を差し出しながらその者は言った。
仏法の巻物は高く積まれ、その内容の多さや複雑さを表しているように見える。
大王は少し間を置いて言葉を発した。
「遠き地より届けに参ったこと、誠に大義であった。我が大和と聖明王の治める百済、両国は益々の親密なる関係を築く事ができよう」
そして、と大王は仏像をわずかに視界に入れ言をつなげる。
「この仏像も感謝する。されど我らがこの土地は古よりこの国におわす神を祀り崇めてきた。外つ国からの神を果たして祀って良いか慎重に決めるがゆえ、今しばらくは聖明王の厚意を有難く受け取るに留めておく」
大王が申し渡すと、百済の使者はより一層身を低めて畏まった。
吏に促され、もう一度深く礼をし、百済の一団は大王の宮から去るのだった。
「さて、皆の者よ。今しがた聞いての通り、百済から仏像、そしてその仏の教えとやらを贈られた。確かに荘厳にして妙なるものなれど、全く未曾有の物なればこれに関し余はどう扱ってよいのか、そち等の言葉を聞こうと思う。何か申したい者はいるか?」
大王がその場にいる部達を見やるが、集まっている者達も顔を見合わせて言に窮していた。
すると、一人の男が大王の前に進み出た。
「恐れながら我が君に申し上げます。この教えは広く西の諸国で敬われており、それらの国は豊かになり我が大和には持ち得ぬ技術も有しております。私と関係のある海の外からやってきた者共も仏を尊ぶ者共です。大和のみがこの教えを拒み、その尊さや技術を捨て去るなど愚かな選択と言えましょう」
その男、目は細く冷たい光を帯び。肌は白きにして纏う衣は異国を思わせる。腰に帯びた鉄の剣は見事な彫り物が施されている。
男ーー蘇我稲目は大王に言葉を申し上げると、深く頭を垂れ、部達の列に戻った。
「ふむ。蘇我大臣よ、そちの申す事にも理はあるな」
「もったいないお言葉にございます」
稲目が口の端をわずかに釣り上げたとき、反対の列から声を上げる者があった。
「しばしお待ちを!」
その男、身の丈は高く、太古の益荒男にも劣らず。顔に刻まれた皺は歴戦の兵にして、衣は神祇を司る重みの輝きを宿す。
最前列から進み出たその男、大連物部尾輿は大王の前に頭を垂れ、そして口を開いた。
「先程の我が君の御言葉通り、大和は古来より天津神国津神をお祀りし堅く信を得て来たものにございます。しかし今外つ国の言に乗せられ蕃神を迎え祀ることなれば、必ずや神々の怒りを買うことになりましょう。仏なるものを、ことにこの宮中に入れるなど、あってはならぬことでございますぞ」
語気も強めに、尾輿は諌めるような物言いで大王に申し上げた。そして一礼すると再び列に戻り、稲目を目で射る。
「そう猛る事はあるまい、物部大連。余とて神々の信について心を向けないものでは無い。然れども西播がこれを祀り、そしてその技が長じていることはそちも認めることであろう」
大王は物柔らかに、しかし威厳に満ちた声音で語りかけた。
そしてしばらく目を閉じ沈思黙考すると、臣下をその力ある眼で見据え告げる。
「そこで余はこのように決めた。大和を統べる大王として、余の名を持って命ずる。大臣蘇我稲目よ、そちの屋敷にて仏像を祀り、仏法を執り行え。必要とあらば秦の助力も乞うがよかろう。そして大連物部尾輿よ。そちはより一層神祇を重んじ、神々に力を乞え。中臣と共に監視も行うがよかろう」
「仰せのままに」
居並ぶ部達は一斉に頭を下げ、大王の言葉に従った。
しかし稲目と尾輿の視線は、火が走るようにお互いを見据えるのだった。
大王への謁見も終わり、役目を果たした百済の一行は客館にて倭国の歓待を受けゆるりと過ごしていた。
その中にあっても慧輪達は勤めを忘れず、朝に経を上げ昼には写経を行うなど、百済で行なっていた事を倭国でも行なっていた。
「失礼する」
鋭い声が聞こえ慧輪が入り口を見やると、そこには蘇我稲目が護衛の兵を二人、そして通訳を連れて立っていた。
「私は蘇我の者の長、大臣蘇我稲目。海の外から渡来した者と近しい者である。そこの」
稲目は一瞬言葉を切ると、客館に安置された仏像に目をやった。
「仏法や仏像に詳しい者と話がしたい。入っても良いか?」
稲目が一歩歩み出す。そこで法仁が彼を迎え入れた。
「それでは恐れながら私がお話をさせていただきます。我が名は法仁。御仏に深く心を向ける者でございます」
法仁が合掌し頭を下げると、稲目は少し笑った。
「そなたの事は我が手の者から耳に入っておる。和上よ、那津郡では良い話を聞かせてもらったようだな」
「もったいのうございます」
「とは申せ、我らは仏法を知らず、仏像の祀り方を知らず。今しがたそなた等が行なっていたような事には全くの無知なのだ」
稲目は仏像をしげしげと眺め、香を嗅ぎ、そして灯る小さな火に手をかざした。
「そこでだ。そなた等が百済に帰る日は近いようだが、ここ大和に残り、我ら蘇我に仏法を教え、民に広める事に尽力してくれる者を探している。数名いれば助かるのだが」
稲目の言葉を聞いていた慧輪は、心がはやる気持ちがした。
一度は侮ってしまったこの地に対し、真心を持って御仏の慈悲を伝えたいと思ったのである。
「御無礼をお許し下さい、大臣様」
慧輪は頭を低くし、稲目に話しかける。
「私の名は慧輪、道半ばな若輩者にございます。しかし御仏の慈悲を尊ぶ心は持ち合わせております。もとより百済からこの国へ御仏を広めるようにと仰せつかっておりました。私でよければ、どうぞここに残らせて頂き、御身一族の、御仏のお役に立ちたいと存じます」
一息にそこまで言ってから、さて出過ぎた真似をしてしまったと、慧輪は頭を垂れ後ろに下がった。
「耳に及んでおるぞ」
稲目が目を向ける。
「道行で疲れている時でも民草にまで仏法を伝えに行っていたようであるな。その想い、大和の役に立ててもらいたい、慧輪和上」
「も、もったいないお言葉……!」
慧輪が頭を下げると、後ろから阿河が彼の首を抱いた。
「もちろん俺も残るぞ。お前一人を残して百済には帰れん。お前が塩や鉄を気前よくくれる身分になるまでずっと一緒だ」
豪快な笑い声を上げる阿河。
「かような者までおるとは、中々に気苦労もあるようだな、法仁和上」
阿河の声の大きさに眉をひそめる稲目に対し、法仁は少し困ったように微笑むのだった。
少し語り合い、慧輪達、そして技を持つ者達が蘇我の下に残ることになった。
元々聖明王からそのように伝え聞いていた者も多く、異国の地での不安はあれど、倭国に残ることに不満がある者はおらず、彼らは数日後、百済へと帰る同胞達を見送るのだった。
稲目は新たに建物を作り、そこに仏像を祀るようにと慧輪達に言い渡した。彼らは渡来した者達の手も借り、その場所を百済の寺に近しく変え、稲目の許しを得てこれを蘇百寺と呼んだ。
「我が蘇我の下、百済より渡りし仏像が納められた場所、すなわち蘇百。これから先の大和での仏法の広まりが期待できる」
稲目は蘇百寺を眺めて深く頷いた。
「大臣様のお力添えのおかげに他なりませぬ。私達だけでは到底なし得なかったことでしょう」
法仁は穏やかに合掌すると、満足そうに頭を下げた。
慧輪達は蘇我の者達に仏法を説き、もとより仏に帰依したいと思う者が多かったそれらの者達はよく聞いて従ったが、一方で抵抗を感じる者達もいたようである。
しかし稲目は熱心に仏像を拝み、蘇我の者達にも仏法をよく行うよう命じた。そしてそれと共に、寺を建てる時の手の技や材料の作り方などを進んで学ばせるのだった。
そのようにして忙しく、しかし穏やかに仏に向けて心を向けていた時分、寺の近くに身分の高そうな男が馬を繰り数人の兵を従え立っていた。
「大層な物をこしらえたようであるな」
神々の雷のようなその声に、慧輪は少したじろいだ。
「我が名は物部尾輿。この神々の降り立った国大和の大連である。ぬし等が蘇我の下で崇めているものを見に参った」
堂々たるその姿。慧輪が案内しようと前に進み出ると、後ろから声がかかった。
「慧輪和上。そのお方の案内は私がしよう」
高いところから降りてくると、稲目は鷹揚に頭を下げた。
「ようこそおいでになった、物部殿。私が中をゆるりと見せて進ぜよう。しかし神祇の長であるあなたが来たことで神々の怒りに触れぬとよいが」
稲目が冷たく笑うと、尾輿も鼻を鳴らす。
「小癪を申せ。神々と大王に仇なす者か見極めに参ったまで。ぬしのように低き身を屈めはせぬ」
稲目はそれも軽く笑って流すと、護衛と共に尾輿と寺の中へ消えた。
「あな恐ろしや。地獄の獄卒はあのような存在であろうな」
顔をしかめながら横を掃除していた阿河が言う。
「阿河兄、高き身分の方に失礼かと」
「侮りも蔑みもしておらん」
阿河はそう嘯くとまた掃除に戻っていった。
その背を見送って視線を上げると、尾輿の馬を見ながら人が囁きあっていた。
ときおりこちらを指差しては眉をひそめ、嫌なものを見たとでも言いたげに視線をそらしている。
慧輪は頭を下げたが、その人々は忌々しげな視線を返すのみであった。
しばらく経った後、稲目と尾輿が寺から出てくる。
しかし両者の間には和やかさは微塵もなく、ただ冷たい空気が流れていた。
「今日はこれで引き揚げる。技と術をのみ大和に用いよ」
「大和の安寧と発展の祈りはあなただけのものではあるまい」
稲目の言葉を背で受け、尾輿は兵を連れて去っていった。
「恐れながら、大臣様。今のお方は……」
慧輪が尋ねると、稲目は尾輿の去った方を見つめながら答えた。
「大連、物部尾輿殿。大和では大王に次ぐ力を持っておる。古来から受け継がれる神祇を執り行い、大王の兵も一手に預かるお人だ」
そして振り返り言葉をつなぐ。
「それゆえに仏法も危険視している。この地の神々の怒りを買うと言ってな。案ずるな、慧輪和上。大和の仏法も寺も私が守る。大王からもお許しは得ている。この光、途絶えはさせぬ」
「そのお言葉、御仏もお喜びでしょう。私も及ばずながらこの地に御仏の教えを広めとうございます」
慧輪はそう答えながらも、胸の内でどことなく不安が広がるのを感じるのだった。