和上慧輪
海鳥の鳴く声も鮮やかに、どこまでも広がった青空が揚々たる前途を祝しているようだった。
穂先が波を切り裂く音がより一層鮮明になった気がして、その若い僧は船首へと歩いていく。これから自分が歩む未来を見ようとするかのように。
「和上、見えてきました! あれが倭国です!」
船首に立ち航路を見ていた者が、横に出てきた僧に元気よく声をかける。
視線の先には薄雲に覆われた緑豊かな島国。周辺の海域は鳥が旋回し、小さな船も多く見え、活発な漁場であることがうかがえる。
「おお、美しく豊かな土地ではないか。これから御仏の教えが満ちると思うと心が躍るな」
若い僧は懐の経典を我知らず掌で抱くと、希望に満ちた眼差しで、遥か先の島を眺めるのだった。
時は六世紀中頃。百済の聖明王が倭国へ仏像や経典を献上し、倭国にも仏教を広めるため、幾人かの僧をそれに伴わせた。
年若い僧、慧輪もその一人であった。
慧輪は幼いころ仏門に入った。同じ年ごろの童子達と一緒に、朝も夜も勤めに励み、文字や教義を学び、掃除をよく行なった。
慧輪の名を授かってしばらくした頃、彼より少し年かさの僧阿河が慧輪を呼び止めた。
「先日ある命を賜ってな。はるばる倭国にまで赴き御仏の教えを広めて参れとの仰せだ」
「おお、それはそれは。何という栄誉ある命でしょう」
慧輪は心より祝福した。師僧に比べて倭国についての知識はあまりなかったが、御仏の慈悲を知らない衆生へそれを伝える事は至上の喜びだろうと思った。
「他にも手に技ある者、文字を著す事に秀でている者が命を受けている。そこでだ、お前にもぜひ同行してもらいたい」
「私が、ですか?」
「すでに和上と尊ばれているお前なら共に語るに申し分ない。師僧にももう話は通している。共に倭国へ行き、衆生の救済ますます広まらん事を、というわけだ」
御仏の教えを知らず、救済を知らず苦しんでいる心の純粋な倭国の民。
それに私達が希望を、救いを伝えるのだ。
そう思うと、慧輪の胸の高鳴りは抑えられないのだった。
「ぜひ、ぜひ私をその端に加えて下さい!」
こうして、聖明王から遣わされた僧の一人となった慧輪は、寺の皆に別れを告げて、倭国へと出立したのである。
船着き場に着いた百済の船団から、続々と人々が降りていく。
初めてかぐ異国の地の香りに、慧輪の胸はますます高まるのだった。
「遠い旅路、よくぞ参られた。この筑紫津で、まずはゆっくりと海路の疲れを癒していただきたい」
倭国の吏が進み出で、慧輪ら百済の一団を歓迎した。
「大和の大王へと贈るものをご持参されたとか。都へは我らの使者が疾く向かう故、安心して準備を整えるがよろしかろう」
「お気遣い感謝いたします」
百済の代表者が礼を返す。
「此度我らが君聖明王が倭国の大王に献上致しますは、遠い地より伝わりし知識と光差す教えの象徴、仏像や経典にございます」
いささか得意げに、今まさに船から降ろされる大荷物を指さし言う。
慧輪はそのやり取りを横に聞きながら、まだ見ぬ倭国の都を想うのであった。
「法仁和上」
慧輪が話しかけたのは、倭国へ赴いた僧達のうち、最も年長で代表のような役回りを任された法仁という僧であった。
法仁は信心に厚く、穏やかにして聡明、倭国の言葉も通訳を頼らずともある程度話せるという、まさに模範のような人である。百済でもよく慧輪は法仁より教えを受けたものだった。
「倭国の都はまだ先なのですか?」
「はい」
穏やかな微笑みをたたえつつ、法仁は遠くを指さした。
「倭国の都はここからさらに船で数日かけたところ。ここは外つ国からの玄関口なのですよ」
そうして法仁は船着き場で働く大勢の人々に目を向ける。
「だから活気がある。百済以外の人間も倭国は受け入れています。これからどんどん発展していくことでしょう。私たちはそれに先駆けて、この土地に御仏のご威光を広めにやってきたのです」
法仁は懐から木彫りの小さな仏像を取り出すと、それに向けて合掌をする。慧輪もそれに倣い合掌をしつつ、人夫たちの荷物を運ぶ荒々しくも頼もしい声に安らかな気持ちになるのだった。
倭国での最初の夜は忘れがたいものとなった。
簡単な建物しかなかったが、それでも吏は慧輪達を心からもてなしてくれ、故郷とは違う食べ物の味に舌鼓を打った。
法仁は通訳を介さず御仏の教えを語って見せ、そのまだ触れたことのない慈悲に耳を傾ける者もいた。
倭国の人々は元々神を祀り自然に敬意を持つと聞く。心が純真で信に厚い者達なのだ。
素朴だが心根の優しい人々。豊かな自然と、そこに生きる者によって整えられた生活の営み。
慧輪はここに道を伝え、できる範囲で広めていきたいと切に思った。それほどまでに、若い彼の心は感動で満たされたのである。
慧輪達はまず、ここから南にある内陸の那津郡を目指すことになった。そこでこの一帯を受け持っている豪族に手続きをし、それをもって正式に倭国へ来たことになり、大王への謁見が許されるのだという。
慧輪は乾いた道を歩きながら、そして後ろに歩く人夫達を見、倭国の言葉を早く覚え、法仁のように彼らの言葉で教えを説きたいと思っていた。
目的地である那津郡、ことにその中心であり、近隣を治めている政の中心たる那津宮家まではそう遠くはないそうだった。
馬を使う急ぎの使者であれば半日ほどだそうだが、献上品も多く所持している百済の一団ではそうはいかない。
しかし急ぐ旅路でもないのだ。
果てのない青空を仰ぎ、緑の匂いのする風を嗅ぎ、慧輪は数珠をその手に改めて巻いた。
那津郡に到着すると、一部の者は宮家に向かい、慧輪達は客館へ通された。
手続きなどは長くはかからないそうなのだが、筑紫津から都にもっとも近い難波津までの船が整うまで、二日ほどかかるという。
その間ここに滞在し、改めて疲れを癒し準備を整えてほしいとのことであった。
慧輪達は客館の一角に、吏の許可を得て小さな仏像を安置し、そして故郷百済で行なっていた勤めを始めた。
筑紫津の人々とは違い、こちらでは訝しげな目を向けられることが多かったが、そもそも御仏の教えが伝わっていないのだ、それも当然だと思っていた。
ごく一部の、周りの者と比べ上等な衣を身にまとった者がいたが、彼らは慧輪達をよく観察し、様々な質問をしてきた。
慧輪や法仁はそれによく応え、御仏の慈悲を伝えるのだった。
那津郡は中央と密接につながっているようで、中央の建物や人々の生活はかなり豊かなものだった。
建物はよく整えられ、衣も良い色が付いたものを身に纏う人が多く、食事も様々なものを食べ、見た目にも美しかった。
一方で宮家の外にいる人々はそうではなかった。
慧輪達はこれからのことを見据え、少しの時間を見つけて外へと出かけ御仏の慈悲を伝えに行った。
通りから少し離れた場所に、ポツリポツリと住居がある。
全体は藁のようなもので作られており、宮家の中とは比べ物にならないほど簡素であった。
その中の一つに慧輪は近づいた。
「失礼を致します」
通じないとは分かっていても、故郷の言葉で外から声をかける。
倭国語を知らないというのはもちろん、自分の言葉そのものを発し、そして触れ合いたいという気持ちがあったのだ。
中には質素な衣を着た女と、土の床に枝で楽しそうに何かを書いている、元気な三人の子供がいた。
「あんた、なんだ?」
女は訝しげな目を向ける。
当然だろう。
見たことのない衣をまとった、聞いたこともない言葉を使う男がいきなり現れたのだ。警戒するなという方が無理だろう。
慧輪は合掌し、そして深く頭を下げた。
「突然の訪問を許せ。この方々は百済という外つ国の人で、この大和の生活に興味があるようなのだ」
慧輪についてきてくれた通訳役の吏が女に説明をしてくれた。
「中の人が一緒に来るぐらいだ、さぞご立派な人なんだろうね。男衆は出かけているし、何もないところだけど見たいんならかまやしないよ」
女は一歩身を引いて家の中を見せてくれた。
慧輪はもう一度合掌し、そして中へと踏み入った。子供たちは不思議そうな顔を向けたが、特に不審がるような様子は見せない。
慧輪は通訳を通して暮らしぶりなどを尋ね、女は簡単ながらも答えてくれた。生活のための物も見せてくれたが、それらは驚くほど質素なものだった。
慧輪が礼を言って家を出てから合掌をすると、子供たちは面白がってそれを真似する。
その様がいかにも微笑ましく、慧輪は懐から木彫りの仏像を取り出すと、一番小さな女の子にそれを手渡した。
「これは仏様と言って、君達を見守って下さるものだ。今のように手を合わせて大切にするんだよ」
女は少し複雑な顔をしたが、子供たちは喜んで仏像を受け取ると、それで早速遊び始める。床に転がり、土がついてみるみるうちに汚れていった。
慧輪は一瞬静止しようとしたが、すぐに思いとどまった。
遊んではいるがぞんざいに扱っている分けではない。ーーこの子らは御仏をまだ知らぬのだ。それでも、いや、それゆえに幼子にもこのような笑顔をもたらすことこそが御仏の慈悲なのではないだろうか。
慧輪は微笑んで思い直すと、改めて女に礼を言って立ち去った。
出立してよいとの沙汰が下ったのはそれより二日後のことだった。
手早く用意を済ませ、一行は筑紫津まで戻る。
「結局戻るのなら筑紫津で過ごしても良かったのではないですか? 和上」
傍らを歩む阿河が言い、それに対し法仁がほほ笑んだ。
「筑紫津はあくまでも港であって、客館は簡単なものしかないようです。それに那津宮家には中央の立派な方の御使者がおいでになっていたのです。あなた方は宮家の外へ御仏の慈悲を伝えに行ってくれていたのであまり見かけなかったようですが、私達はその方々とお話をしていたのですよ」
「それはどういった方々なのですか?」
慧輪が尋ねる。わざわざ中央の都から、おそらくはこの百済の一行に会うためにやってきたという倭国の人間に興味が湧いた。
「倭王の側近としてお仕えする高貴な身分の方の御使者です。彼らは倭国で御仏の教えを広めたいと言っておられ、熱心に私の話を聞いて下さっていましたよ。一足先に出立し、御仏のことをそのお方の、そして倭王の御耳に入れていると思います」
「そのお方の名は?」
法仁は一つ息をつくと、その名を告げた。
「大臣蘇我稲目様。たいそう聡明なお方のようで、御使者にいろいろと言い含めておいででした」
筑紫津に着くと、一行は休憩する間もあらばこそ、用意された船に乗り込んだ。
到着する少し前から雲が厚みを増し、遅くなればなるほど天気が荒れると判断されたからである。
「なあ、この船に乗る人ってのは外の変なものを拝んでるっていうじゃないか。日の神様が怒ってらっしゃるんじゃないか?」
「ああ、怖えよなあ。沈まねえか心配だよ」
こちらを見ながらヒソヒソと、同乗する人夫達が会話をしていた。
慧輪には当然何を言っているか分からなかったが、恐らく良くない事を言っているだろうことは人夫の表情や、法仁の悲しげな顔を見れば理解できた。
空を見上げると、ちょうど細かな雨が降り出した。慧輪は数珠を握ると合掌してそれを包み、御仏へ航海の無事を願うのであった。
「うっ......」
覆いのある場所に入ると、阿河が青い顔をして座り込んでいた。
「阿河兄、大丈夫ですか?」
「大丈夫なことがあろうものか……。俺は山育ちで船は苦手なんだ」
慧輪は阿河の背をさすりながら、いささか呆れた顔を作る。
「百済からの船の時はあんなにはしゃいでいたではありませんか。御仏の御加護、我にあり! と」
阿河は恨めしげな目を慧輪に向ける。
「あの時は浄土のように晴れ渡っておったではないか。波も穏やか、何より心は希望で満ちあふれておった。しかし今日この波はどうだ。御仏は我々に試練を課しておるやも知れぬ……」
「何をおっしゃいます。かような事があり得ないことは阿河兄も心得ておられましょう」
「しかしだな……うっ……」
阿河は外に出て縁にうなだれかかると、進路の先を見やった。
「見ろ、雲が龍のごとしだ。御仏の御威光が地にまで届いておらん。天候のことだけではないぞ、倭国の都で何が待ち受けているか、俺は少し不安になってきた」
慧輪は釣られて同じ方角を見る。
雨はますます強くなり、唸る風は木の葉のように船を揺らす。
先程の人夫の態度を思い出し、慧輪の胸に少しのざわつきが生まれた。
いいや、都では聡明にして御仏の慈悲に興味をお持ちの高貴な方もおられると言うではないか。この胸の内は御仏に対する不信心には当たるまいか。
慧輪は首を振って考えを改めると、またしてもへたり込んだ阿河の介抱をするのだった。
船は様々な津に寄港し、補給や休息などを行なった。天候の影響もあり道程には五日ほどかかったが、特段大したこともなく航海は順調に進んだ。
難波津に到着し、船を降りた慧輪はその賑やかさに圧倒された。
倭の都からほど近いこの津は人の往来も多く、沢山の物品を交換するための交易人が辺り一帯に軒を並べている。
遠くは北の地から外つ国まで仕入れに行った熱心な交易人が、様々な品物を見比べるようにと、往来の左右から元気な声を張り上げている。
と、ある品物に阿河の目が止まり、そこに近づいていく。
「おい、慧輪。見ろ、これは百済の織物だ」
「ああ、本当ですね」
「しかもだ」
と、阿河はその布地に指を這わせた。
「我が故郷に近い里の織物だ。こんな遠くの地で出会おうとは、これも御仏のお導きなのかも知れぬな」
阿河はそう言って交易人と話し始めた。彼の人は百済の言葉が多少話せるようだった。
慧輪は他の品物をなんとなく眺めていたが、阿河が悲しげな顔で話しかけてきた。
「……慧輪、塩を持っておらんか」
慧輪は肩をすくめる。
「塩など持ってないことは阿河兄も重々ご承知のはず」
その様子を見ていた交易人が笑って声をかける。
「百済のお人なら鉄でもいいよ。向こうの鉄は質がいいからね、塩より少ない量で交換してあげるよ」
「鉄などなおさらに持っておらんわ!」
阿河の慟哭は風に乗って法仁にまで届き、軽く彼はたしなめられるのだった。
そうしている間も人夫達はよく働き、道中必要なものも手早く整えていた。
そして都へと運ぶ貢物の点検を終え、百済の一行は改めて列をなし難波津を出立する。
都までの陸路には倭国の兵が護衛として同行し、やや物々しく歩を進めることになった。
都までは通常一日半ほど、しかし先日までの雨が影響して道がぬかるんでおり、足元の悪い中では速度も落ちる。
荷車がぬかるみにはまって抜け出すのに苦労したり、山を進む人夫が足を滑らせたりするなど、道は意外にも険しかった。
「和上、大丈夫ですか?」
慧輪が手を差し出すと、しかし法仁は笑って首を振る。
「心配には及びません。これでも若い頃は師僧の目を盗んで野山を駆けていたのですから」
それにしても、と法仁は道の先を見た。
霧がかった山道は薄暗く、濃い緑の匂いがする。
百済一行の行軍の音のほかは静まり返っており、都にほど近いはずなのに人の往来はほとんどなく鳥の声が時折聞こえるのみである。
「道は険しく、そして静か。都に至る道とはとても思えませんね」
すると横を歩んでいた倭国の吏が、馬上から声をかけてきた。
「申し訳ない、百済の方よ。普段道として使っている箇所に土が流れ出で、整うまで少し時間がかかっているのだ」
それに、とやや言いづらそうに言葉をつなぐ。
「異国の神を祀り、それを運ぶ一行を道行く人は警戒している。都に付き大臣様の下へ導くまではなるべく衝突を避けたいのだ」
それを聞き、法仁は少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「致し方ありません。まだ御仏の教えはこの地に伝わっていないのですから」
数珠を手に絡め、合掌しつつ歩む。
「それに自然の業は人の手の及ぶところではありません。御身と工む人の身の安全を御仏に深く申し上げましょう」
「気遣いとご理解に感謝する。さて大臣様のお屋敷がある都まではあと半日ほど。いったんこの辺りで休むことにいたそう」
吏は号令をかけ、護衛の兵達が立ち止まり休憩をすることを片言の百済語で伝える。
人夫達は汗を拭い、やれやれとそこらに腰を落とし水を飲んだ。
ふと視線を感じ、慧輪がその方向を見やる。
離れた場所に粗末な服を着た数人の倭人が固まり、恐ろしいものを見るような目で一行を見ていた。
慧輪が訝しげに見返すと、彼らは身を翻して山の中に消えてしまった。