笑う令嬢は毒の杯を傾ける
グランシェール公爵家の長女として生まれながら、クラリスは貴族の華々しい世界とは無縁の、不遇の環境に身を置いていた。
母は早逝し、後妻として来た女中上がりの女が連れてきた娘リリィが、父の愛情の全てを奪ったのだ。
クラリスはいつも屋敷の隅に追いやられ、着古した衣服、冷たい食事、血の滲むほどの躾と称した折檻を受けていた。
「ご令嬢のくせにこんな寝癖をつけて。本当に下品ねぇ」
「ああみっともない。身嗜み一つろくに整えられないなんて。それにとっても臭いったらないわ」
「ほぅらお嬢様、大好物の牛の糞を用意してあげましたよ。たんと召し上がってくださいな」
侍女たちはリリィには媚びを売り、クラリスには嘲りと冷笑を浴びせた。
食事にはゴミが混ぜられ、ドレスには針が仕込まれ、湯浴みに入れば熱湯を掛けられる。
父は全てを知っていながら、不出来で可愛げの無いクラリスが悪いと何一つ咎めることはなかった。
クラリスに向ける言葉はいつも同じもの。
「おまえのような薄気味悪い娘、血が繋がっていると思うと虫唾が走るわ。居座らせてやってるだけでもありがたいと思うんだな」
そんな彼女にも役目がある。
公爵家の長女として王子と婚姻を結び、王家との繋がりを得ること。
政略婚ではあったが、それでもクラリスに唯一与えられた居場所だった。
だがその縁も、リリィの画策によって潰された。
「クラリス=グランシェール。今このときを以て、貴様との婚約は破棄する。理由は明白。お前は嫉妬深く妹リリィを虐げ、数々の悪行を重ねた。王妃にはふさわしくない。醜い女め、恥を知れ」
婚礼の日、傍らには華美なドレスに身を包んだ義妹リリィが王子の腕に縋りついていた。
「エリオット様、私怖い! お義姉様が怖いわ!」
金髪碧眼の聖女と謳われた少女が涙し震えるその姿に、周囲の視線は完全に味方した。
王子エリオットもまた、リリィの奔放な爛漫さに惹かれた一人であり、暗く退屈なクラリスに辟易し、リリィに持ちかけられた婚約破棄の提案をあっさりと受け入れたのだ。
貴族の間の場では、嫉妬深く冷酷、妹を虐げた悪女と噂を流され、ついに彼女は完全に居場所を無くした。
生きる価値の一つすら。
「出来損ないめ」
父は興味の一切が失せたように一瞥するのみで、侍女たちはこれまで面倒をかけさせた罰と平手打ちを浴びせ、リリィはそれに優越の笑みを浮かべた。
「もう二度と私たちの前に姿を見せないでね。ああ、でも死ぬなんて言わないで。そしたら二度と遊べなくなっちゃう。ね、お義姉様、アハハハハ!」
クラリスは唇を噛み、追放という形で屋敷を去った。
孤独と痛みに塗れた少女の心に、やがて静かな毒が宿った。
復讐……自分を虐げ見下した全てに、自分が受けた痛みと屈辱を与えるべく、狂王と呼ばれる隣国の王の元を訪ねた。
「おれに何の用だ、小娘」
一度戦争が起きれば一人で百の首を狩り、笑いながら残虐非道の限りを尽くす。
髪は血で赤く染まり、肌には鉄の匂いが染みついた彼に、クラリスは濁った目を向けた。
「私に力を貸してください」
「何のために?」
「復讐を」
「お前の願いを聞き入れ、おれにどんな利点がある? お前はおれに何を差し出せる?」
「私の身体、命……残りの人生全てを」
狂王ブラドは笑った。
「おもしろい」
クラリスは、狂王の元で密かに力を蓄えていった。
毒の知識、諜報、人の操り方。
人を傷付けるための手段を得ることは厳しくも、心が挫けることは一度たりとてなかった。
明確な殺意がクラリスを突き動かした。
一年という月日は、彼女にとって一瞬だった。
王子エリオットと義妹リリィの婚礼の日が迫り、クラリスは胸を高鳴らせた。
「ああ、やっと」
この時が来た、とボロボロの黒革の手帳を広げる。
そこに連なるのは、彼女に非道な仕打ちをした者たちの名前。
「おれが手を下してやろうか」
そう言うブラドに、クラリスは歪んだ笑顔を見せた。
「ダメよ。全部私の獲物だから」
クラリスが最初に罰を下したのは、屋敷で最も残酷だった侍女長、マーガレット。
彼女は婚礼の日が近付いたとある日の夜、人気の無い路地を行っているところを、ブラドがクラリスに与えた密偵によって拉致された。
薬を嗅がされ身動きすることすら出来ず、台の上で磔にされ涙を浮かべた。
「いやあっ、離してぇ!!」
「久しぶりね侍女長。覚えてる? 私のこと」
「ク、クラリス……いや、お嬢、様……?」
自分の知る、暗く陰鬱であったクラリスと大きくかけ離れた雰囲気に、マーガレットは身体の底から震えた。
「なんで、どうして……」
クラリスは笑ったまま、台の上に縛り付けられたマーガレットの右腕に向かって手斧を振り下ろした。
「ぎぃやああああ!!」
「よかった。ちゃんと出来た」
何の躊躇いも罪悪感も無いことを確かめると、クラリスはほっと胸を撫で下ろした。
次に右耳、次に右足。
マーガレットは悲痛と苦悶で表情を歪め、身体のいたるところから薄汚い汁を漏らした。
「や゛めっ、もう、いやあああ!!」
「令嬢のくせに、とあなたは言ったわね」
「ああ、あれはぁ、違……リリィ様に、命じられて……わだ、わ゛たじは、悪く……助ッ、助け……」
「もういいの。だって、ほら。侍女長のくせに、もうまともに仕事は出来なさそうだから。だからおあいこ」
クラリスの微笑みを最後に、右目が見ていた景色が消えた。
父グランシェール公爵は、娘の追放後も順風満帆だった。はずだった。
だが突然、取引先が次々に破産、支持者が謎の死を遂げ、屋敷を任せていた侍女長も失踪するという事態が起きた。
事業に失敗した公爵家は財産のほとんどを手放すこととなり、瞬く間に衰退した。
領民たちの間で、公爵様は呪われているんじゃないか、などという噂が広がり始めた頃、彼は日々幻に苦しみ始めた。
視界の端に揺らめく影、耳をつんざくような怨嗟の声、それらがかつて自分が虐げた娘のものであると気付くのに、そう時間はかからなかった。
「クラリス……クラリス……あの娘が……どこかに……私を、見ている……!」
やがて精神を病み、裸足で街中を彷徨い歩いては、娘が私を見ている!!と奇声を上げる姿が度々目撃された。
不安に駆られた領民は領地を離れ、公爵家は没落の一途をたどった。
「何故だ、何故こうなった……何故、何故、何故だぁ……」
ある日、とある事件が起きた。
「あ゛ああああ!!」
気が触れた公爵が、屋敷の使用人たちを次々に殺害したのだ。
屋敷を血の海に変えた公爵は捕らえられ、そのまま精神治療院に幽閉され、そこで生涯を終えることになった。
かつては栄華を極めた公爵家は、呆気なく憐れな最期を迎えた。
事業の失敗も、幻覚剤による精神錯乱も、全てはクラリスの奸計であったことなど知る由は無い。
そして、婚礼の日。
舞踏会の夜、クラリスは堂々と王宮に現れた。
一招待客であるブラドのパートナーとして。
「やはり、お前に一枚噛んで正解だった」
「これで満足?」
「いいや、まだ見せてくれるんだろう? おもしろいものを」
黒と赤のドレスを纏ったクラリスの雰囲気に、空気が一瞬で凍りつく。
その笑みは毒のように甘く、また残酷だった。
「お義姉様……? どうしてここに……」
「誰が招いた! 下がれ、クラリス! ここはお前のような者が来るところではない!」
「ほう? よくもそんなことを言えたものだ」
狂王はクラリスの肩にそっと手を回した。
「おれのパートナーを侮辱するとは、いい度胸だな。なあ王子殿下」
「あ、いや、そういう、つもりでは……」
「おれの元に届いたこの招待状は何かの間違いだったか? だとするなら、とんだ恥をかかされた。この礼はいったいどこの誰にしたらいいか」
ブラドの威圧感ある目力に、エリオットは萎縮し言葉を詰まらせた。
そして、クラリスの毒が蔓延する。
「本日は陛下のお耳に入れたいことがあり、馳せ参じました」
公爵家が秘密裏に画策してきたクーデターの証拠と、その首謀者としてリリィの名が掲げられていることをつまびらかにし、その場の全員を驚嘆させたのだ。
「我が義妹リリィは、父を担いで自らが王子殿下の婚約者として王家に取り入り、内部からこの国を掌握しようと考えていたのです」
「なッ?!」
「さらにリリィは、邪魔になった父に精神を病む毒を盛りました。これが証拠です。リリィの部屋より見つかりました」
「う、嘘よ! そんなの、ありえない! 私はそんなことしてない! エリオット様、これは……」
「エリオット殿下もまた、陛下の命を脅かすためにリリィの甘言に乗ったようです」
次々と出てくる証拠と証言によって、王子とリリィの罪は次々に明らかとなり、徐々に逃げ場が失われていった。
「ち、違う……私は何も、何も知らない! 父上……父上、どうか信じてください!! 父上!!」
それらが捏造されたものだとも知らず、会場が騒然となる中で。
「あなたたちには地獄さえ生温い。私が味わった以上の恥と痛みを与えてあげる。永遠に終わらない、ね」
クラリスの冷たい呟きに、ブラドだけが唯一可笑しそうに口角を上げた。
冤を着せられた二人は、国王に厳罰の沙汰を言い渡された。
エリオットは廃嫡され、私財の一切を剥奪。
身分を奴隷として一生を鉱山での強制労働に従事することとなった。
鉱山での労役は過酷を極めるが、彼が配属されたのは中でも犯罪者が蔓延る下層……汚染採掘区画。
汚染された鉱石を掘り出すことで毒素が身体を蝕み、臓腑は焼けただれ、眼は濁り、言葉すら喋れなくなる。
王の器とすら讃えられたはずのその男は、今や劣悪な環境の中、四つん這いで石をかじるだけの哀れな獣。
労奴267番……それが、元王子の今の名前。
クーデターの首謀者であるとされたリリィは、拷問により二目と見られない姿へと変えられ、それでも足らずに鏡牢と呼ばれる特別な懲罰空間に閉じ込められていた。
そこは、四方すべてが鏡でできた部屋。
常に自らの歪んだ醜い姿を見続けなければならない。
夜になれば、薬で敏感にされた肌に痛みだけが走り、眠ることもままならず。
聞くに堪えない枯れた声でリリィは懇願した。
「赦、じて……お゛義姉、ざま゛……だずげ、で……も゛う、死なぜで……お゛ねが、い゛ぃ」
クラリスは甘くも毒を含んだ微笑みを浮かべた。
「死ぬなんて言わないで。そしたら二度と遊べなくなっちゃう」
名も、地位も、顔も、心さえも奪われて、そうして尚も生かされる地獄にリリィは恐怖した。
目の前の怪物を作ってしまったのは私なのだ、と。
クラリスは暖炉の炎に黒革の手帳を焚べた。
これで終わりと名を焼き尽くし、記録を塵に変えた。
手帳が炎に包まれる中、背後でブラドが囁く。
「終わったようだな。なら、約束を守ってもらおうか」
「ええ。私の身体、命、残りの人生全てをあなたに」
「足りない」
ブラドは腕を引くと強引にクラリスに口付けをした。
「陛下……?」
「お前の愛も余さずおれによこせ」
毒を纏った微笑が、炎に赤く揺らめいた。
杯はもう二度と満ちることはない。
王道のざまぁを書いてみました。
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普段は百合ファンタジーを主に書いておりますので、興味がある方はぜひm(_ _)m