見世物小屋の影無し男 其ノ伍
見世物小屋を出ると、月明かりに照らし出された軍人が五人待っていた。だるそうに座っている者もいれば、門番のようにきっちりと背筋を伸ばして立っている者もいる。待機の仕方は各人各様だったが、太宰を見るなり顔をしかめることだけは同じだった。
「遅かったな。で、座長は?」
五人の中でも見るからにお堅そうな短髪の軍人が一歩前に出て太宰に尋ねる。夜よりも深い黒の軍服に身を包み、帝都を守る者の象徴である軍刀を佩いていることはほか四人と同じだ。だが、左胸で月光を反射している略綬の数が一番多い。見た目通り、軍の中でも真面目な優等生であることが窺える。
そういえば、この部隊ではこいつが隊長だったっけ。それほど昔でもない記憶を漁ってみるがまるで覚えていない。必要なことでもないしまぁいいか、と太宰は早々に漁るのをやめた。
それにしても、冷たい声だ。無駄な話はしたくないという感情がひしひしと伝わってくる。
「はい、こちらに」
しかし、そんなことはまったく気にならないとでもいうように、太宰の態度は何も変わらなかった。ここまで首根っこをつかんで引きずってきた座長を突き出す。その姿はだらんとして、まるで人形のようだった。
「……死んでないだろうな?」
「死んでませんよ、ただ気絶してるだけです。骨は何本か折れてるかもしれませんが」
軍人の一人が座長を雑に受け取る。想像以上に重かったのか、少し驚いたような顔をしていた。だが、それが正常な反応だ。小太りな成人男性を余裕で引きずれる太宰が異常なのだ。
「よし。そいつの目が覚め次第事情聴取を開始する。みんな準備しておけ。お前も報告書を明後日までに提出するように」
「わかりました」
「中の状態は?」
「座長の発砲音により見世物小屋関係者に加えて珍獣のみなさんは大慌てです。統率なんてものはないので、今なら少数で取り押さえることも可能でしょう。数は十、そのうち三人は出るまでに邪魔だったんでのしてきちゃいました」
「わかった、残り七だな。井口、内海、お前たちで行ってこい」
名を呼ばれた二人は、太宰が出てきた天幕の裂け目から中に入る。訓練の賜物だろう、双子かと思うほど息の合った行動だ。
隊長は残った二人にも加えて指示を出し、太宰の右肩辺りを凝視する。
「……それで、そちらの方はどなた様だ」
隊長が指さした先――そこからは、黒いおかっぱ頭がちょこんとのぞいていた。
椿柄の紺色羽織に、草色の銘仙着物、そして文明開化を象徴するような編み上げブーツ。和と洋が力づくで混ざり合った風貌の女が背負われている。ぐでりとしたその姿は首がすわっていない赤ん坊を彷彿させた。
「あぁ、こちらは雑誌の記者さまでして、見世物小屋の記事が書きたくてこんな掃き溜めに単身突入したそうです」
「なるほど。……だが、なぜ背負われている?」
「ここを出るってなった時、糸が切れたように気絶しちまいました。たぶん気が抜けたんでしょう。……それじゃ、あたしはこの人を軍医のとこに連れて行きますんで」
そう言い終え、太宰は軽く会釈し隊長の横を通り過ぎようとする。
「待て」
だが、隊長の言葉によってそれは叶わなかった。
「経緯や身分はどうであれ、その女性もこの見世物小屋の被害者として登録する必要がある。『影無し』、その方の名は?」
「名前ですか? たしか――」
再度記憶を漁り直す。自分を怪しむ素振りすらせず、己から名乗った人。「影無し男」という芸名しか知らず、そう呼ぶことをためらった人。そんな彼女の名は――
「――忘れちまいました」
本当に、覚えていなかった。
「あとで自分で聞いてみてくださいよ。そういうの得意でしょうに」
どうせすぐ調べはつくだろう。自分に聞くこと自体が間違いだ。
隊長は訝しげに太宰を見つめる。
「……本当だな?」
「ええ、本当ですとも。物覚えに対するあたしの事情、ご存じでしょう?」
「……わかった。行っていい」
「そんじゃ、お先に失礼します」
太宰は無心で歩を進める。どれだけそうしていただろうか。不意に、足元が明るいな、と思った。そこで初めて、今夜が満月であることに気づく。
見世物小屋からも離れたころだ。ちょうどいい。彼は袂に手を突っ込む。そこから出てきたのは革製の手帳――シゲルが檻の中で頭をぶつけた拍子に落としてしまった物だった。
背負った彼女を落とさないよう気をつけながら、使い込まれた手帳の頁をめくる。
「……あぁ、あった」
そう言って太宰が開いた頁には空白が多かった。彼女が調査途中である証拠だ。だが、太宰にはそれでも十分だった。雑に記された文字を、すみれ色の瞳が丁寧に追っていく。
「……どっぺる、げん、がー。……そうか、あいつは『ドッペルゲンガー』っていうのか」
こぼれた言葉を聞いていたのは月だけだった。だが、沈むころには他の言葉にかき消され、月もきれいさっぱり忘れてくれるだろう。
背中にある熱に意識を向ける。この女はどうにも鈍くさそうだが、手帳を見てみれば自分にはない知識を持っているようだった。助力を乞われた時は心底面倒だと思ったが、もしかしたら役に立つかもしれない。
再び袂に手帳をしまい、彼女を抱え直す。
「……あぁ、あったかいなぁ」
布越しに伝わる彼女の体温。大部分が触れている背中も、抱えている足も、肩に寄せられる頬も、全てがあたたかい。
文字通り、奪われた温度というものを少しだけ思い出した。
「『ぬばたまのその夜の月夜今日までに我は忘れず間なくし思へば』。……あぁ本当に、殺したいほど」
太宰が歩く地面に影は落ちない。こんな体になって、もう何年経つのだろう。
考えて、すぐにやめる。どうせ覚えちゃいない。……そうだ。それよりも、今夜は月明かりを頼りにして歩いてみようか。獣並みに夜目が利く自信はあるが、たまにはこういうのも悪くないだろう。
太宰は軽い足取りで歩む。その姿は、まるで人間のようだった。
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