ドッペルゲンガー 其ノ参
初めて気づいたことは、自分の瞳はすみれ色だということだ。
どこで生まれたかもわからない。いや、生まれるというよりも、発生したという方が正しいのかもしれない。まるで自然災害のように、自分はそこにあった。産声をあげることも、祝福に包まれることもなかったが、一つだけ欲があった。
――姿が欲しい。
己に形はない、だからこそ欲しいのだ。すみれ色の瞳だけでは足りない。では、姿はどうやって得るものか。教えてもらわなくともやり方は知っていた。
殺して、成り代わる。
そうやって長い日々をすごした。金色の髪をした少女から赤毛の中年、はたまた産まれたばかりの赤ん坊にさえなった。成り代わってしまえば記憶だって引き継げる。ばれることは一度だってなかった。
そんな時、海を越えた国から使節団が訪問するらしいと、母親という皮を被った女から聞いた。他国の制度や文化を視察する頭のいい団体だという。
島国の人間は見たことがない。次の姿の候補に会えるかもしれないと思い、そいつらが滞在しているという建物を見に行った。入口に何人も護衛が並んでいる。その時の姿は少女だったから、迷った振りでもして近づいてみるかと思って歩を進めた――瞬間だった。
やけに背の高い男と目が合った。比喩ではなく、唯一自分のものだと言える瞳の奥を覗き込まれるような視線だった。
――衝撃。
その一言に尽きた。こいつは、見えている。少女の中にいる化物の自分を、たしかに捉えている。息が止まる。血が沸騰するように湧き上がる。
俺を見た、俺を見た、俺を見た!
男に背を向けて駆け出す。踊り出したいくらい嬉しかった。両親という役の人間は形を見ていた。だがあの男は、化物である自分を見てくれている。こんな高揚感、今まで味わったことがない。
欲しい! 欲しい! あの身体が! 瞳が! 全てが!
会いに行った時も、あいつはしっかりと目を合わせてきた。すぐに奪ってしまおうと、一手で殺しにいったのだが、常人離れした反射神経であいつは防いだ。その後、仲間を全員殺してからもう一度殺しに行ったが、それも上手くいかなかった。殺しきる前にほかの人間が大勢現れたからだ。運ばれて行く血まみれのあいつを視界の端に捉えながら、その場を後にする。
あぁ、発散しきれなかった熱が体内で暴れ回っている。全て欲しかったと本能が叫んでいる。でも少し、ほんの少しだけ、この状況を悪くないと思っている自分もいた。
そう、己とあいつは同じ身体を持つ唯一なのだ。あいつにとって己は仲間の仇であり、身体を中途半端に奪って化物へと変えた憎むべき相手。命尽きるまで追ってくるだろう。それこそ、地獄の果てまでも。
その時、初めて理解する。きっとこの感情を、人間は恋と呼ぶのだ。
◇◇◇◇◇
冬は日が暮れるのが早い。茜色は空の彼方へと追いやられ、夜がすぐそこまで訪れていた。
そんな中、シゲルは重い足を引きずって帰路を辿る。足が根を張ってしまったような感覚だった。化物目線の話を聞き、それを手帳に書き付けたまではよかったのだ。問題はその後である。
ドッペルゲンガーは太宰の身体を中途半端に奪ったと言った。ならば、太宰も奪い返せるのではないか。まだ全て奪われたわけではないのだから。そう問うてみると、ドッペルゲンガーは顎に手を当て少しの間考える。そして、九分九厘不可能だろうと言った。
――きれいな水に泥が混ざって、元通りになったことがあるか? 一度不純物が混ざったら、どこまでいっても泥水だ。
その言葉は、シゲルの頭の中にこびりついた。
泥水――ドッペルゲンガーが混ざったことで生まれた、元人間の化物。
太宰が言っていた、限界が近いという話を思い出す。完璧な化物でないがゆえに、耐えきれず崩れていく身体。日に日に忘れる時間も早くなっているように見える。
治す方法は――ない。
このまま消えていく記憶をただ眺めて死ぬだけだ。しかしたとえそうだとしても、このままでいた方が彼の命は長く保つのではないだろうか。そうも思った。太宰はドッペルゲンガーに恨みを抱いている。当然だ、仲間を殺された挙句身体まで奪われたのだから。きっと、今すぐにでも殺したいはずだ。もし相打ちになったとしても、だ。だが、身体を奪い返せないのであれば、そこまでする必要はないのではないか。
そうだ、そう提案してみよう。慰安旅行を贈ってもいい。一人の方が羽を伸ばせもするだろう。行きたい時に行けばいい。だから、もう痛い思いをすることはないのだ。
その先に、彼を包んでくれるものなど何もないのだから。
「あ……」
声がもれた。シゲルの住む二階建ての木造長屋が見えてきたその時、玄関引き戸の前に見慣れた姿が目に入ったからだ。今日何度も見た鼠色の髪。アーク灯の光によって映し出されるべき影は存在しない。
待っていて、くれたのだろうか。ろくに残っていない記憶の欠片をかき集めて、途切れ途切れの景色だけを頼りにして。
唇を噛む。そうでもしないと、近所迷惑も考えずに名を叫んでしまいそうだった。努めて息を吐きながら彼に近づいていく。
「……ありがとう、待っててくれて」
太宰は目だけでシゲルの頭からつま先までを眺める。
「怪我は?」
「ないよ、本当」
そう伝えれば、彼の瞳に安堵の色が灯る。それを見てしまえば、
「ねぇ太宰、どこか景色のきれいな所に行こう、今すぐ」
指の隙間からこぼれる水のように言葉が出てしまった。
「紀伊国……今はもう和歌山だけど、そこは梅の花が有名って聞いたんだ。まだ少し時期が早いかもしれないけど、蕾でもきっときれいだから行こうよ。ほら、『わが園に梅の花散る……』みたいな歌もあったしさ」
「……あいつに何か言われたんですか?」
「何も言われてないよ。ただ鍋の予定もずれちゃったし、埋め合わせしようと思っただけ」
「何泊か決めてるんです?」
「え、と……それは決めてないけど、太宰がいたいだけいればいいよ。お金は私が出すしさ、だから、」
「こんな今際の際歩いてる奴には贅沢すぎます。もう梅をきれいだと思える感覚すら残っちゃいませんよ」
「……なら、あとは何が残ってるんだよ」
「なんでしょうねぇ……あの化物を殺さないとっていう使命感とか? ですかね」
そんな疑問形の使命感なら捨ててしまえ。
そう言いたかったが、言える資格を自分は持っていない。なぜなら自分は、彼にとって何者でもないからだ。そこまで踏み込む権利も持っていなければ、義務もない。
それに、わかっているのだ。太宰は様々なことを忘れるが、ドッペルゲンガーのことだけは絶対に忘れない。この時点でもうシゲルに勝ち目はない。
「……本当に、それしか残ってないの?」
「はい。あたしとしても、もう少し何か残ってるもんだと思ってたんですけどね」
「ほかが入る隙間はない?」
「あいにくと」
正直、きっぱりとそう言われるのは辛いものがある。
まるで、自分は彼の中でその程度なのだと突きつけられているようで。
「そっか」
でも――
「しょうがない。その残ってるものを片づけた後に、新しいものを詰め込んでいこうか」
――それなら、全てを終えた彼の中で、色濃く残る唯一になってやる。
太宰が面食らったような表情でシゲルを凝視する。しかしそんな視線は気にせず、シゲルは肩掛け鞄から手帳を取り出した。
「忘れてるみたいだからもう一度言うよ。……太宰が忘れるなら、私が代わりに覚えておく。もう残ってないと思ってるあなたの過去すら、私が残しておくから」
太宰は呆然として、
「…………そんなこと、言われた気もします」
と小さく呟いた。
「……そうか。……あなたが書いた文字として、残るのか」
嬉しいのか、悲しいのか、それとも安堵か、どんな感情がその言葉に含まれていたかわからない。でも、視界に映る彼は、すみれ色の瞳を細めて穏やかに笑った。
「――ねぇ先生」
「なに?」
「――全部きれいに片づけて、でも何も返ってこなくて、何も変わらなかったとして……もしこれから訪れるのが、そんなつまらない結末だったとしても、それでも……覚えていてくれます?」
たとえ、全てが無駄になったとしても――その決断を。
無様に死んだとしても――その行動を。
誤った道を選んだとしても――その覚悟を。
「ッ……、当たり前だよ!」
詰まりそうになる言葉を無理やり吐き出したせいで声が裏返る。
「――私は、これでも記者だからね」
その返答を聞いて、太宰は満足そうに目を閉じた。
この度は本作「鬼門の化物手帖」読んで下さり誠にありがとうございます!
面白かった、次も読もうかな、と思ってくださった方、ぜひブックマークや評価をお願いします。
とても励みになります!




