ドッペルゲンガー 其ノ壱
学もなければ、意思もない男だった。
毎日腹が減っていて、満腹なんて言葉は知らなかった。
顔がわかる前に、親はどこかに行ってしまった。
血が繋がっていない赤の他人である婆さんが十になるまで育ててくれた。
婆さんはその年の流行り病で死んだ。
何をしようとも思えなかった、思わなかった。そう思えるほど、男には知識がなかった。
毎日毎日、どうにか飯食って生きる。それだけだった。
だから、誘われればどこにでも行った。何者にもなった。
売られた喧嘩を安く買い取った後、それを見ていた長身の優男に手を差し出されれば、
なんの疑問も持たず、その手を取った。
太宰は、知識もなければ、面白味もない男だった。
満足に飯を食える生活にはなったが、うまいと思って食うこともなかった。
仕事と変わらなかった。
指示されて、動いて、望まれた結果を出す。ただそれだけ。
この仕事は、太宰の性に合っていた。
何も考えず、悪という判を押された者たちを追いかけ、捕まえる。
数なんて数えるのも億劫になるほど、命のやり取りがあった。
しかしどうにも悪運が強いらしく、必ず最後まで立っていた。
死にたいわけはなかったので、まぁ良しとした。
また長身の優男がやって来た。
自分の部隊に入らないか、なんてこっちに利があるのかわからない誘いだった。
太宰は、知識もなければ、面白味もない男だった。
洒落の一つも言えず、ただ小さく返事をして、優男の手を取った。
◇◇◇◇◇
「『わが里に大雪降れり大原の古りにし里に降らまくは後』。……うーん、寒いわけです。ほら見てください太宰、雪がちらついてきましたよ」
「そうですね」
「外套は持ってきましたか? 冷えは万病のもとといいます。体を冷やしちゃいけませんよ?」
「そうですね」
「……太宰、あたしの話聞いてますか?」
「そうですね」
「聞いちゃいませんねこりゃ」
太宰の右隣に佇む長身の優男は眉を下げて笑う。元々細かった目がさらに細くなった。
異国の地に存在する教会の一室。太宰と他九名の軍人は横一列に並びながら窓の外に目を向ける。雨の日とは違う。雲があるのに、どこか空は明るい。なぜだろう、と太宰は思った。
彼が住んでいた場所では雪なんてそうそうお目にかかれなかった。たとえ見れたとしても、腹にたまらない白い氷なんて、太宰は見向きもしないだろうが。
記念撮影をするから横に並べ、と指示が出されてどれほど経っただろう。暇を持て余した軍人たちは蛇が脱皮する時のような形のカメラを前に各々雑談を始めていた。どうやら撮影準備に手間取っているらしい。
「『筑波嶺を外のみ見つつありかねて雪消の道をなづみ来るかも』。……雪の歌は多いので迷いますね。太宰はどれがいいと思いますか?」
「どれでも」
「どれでもよくはないでしょう。雪を通して恋焦がれる気持ちを詠んだものもいいですし、冬を越えた先にある春を詠むのも捨てがたいです。あぁ、雪の中でも力強く咲く梅の花も素敵ですねぇ」
本当に一人でよく喋る男だ。小さくため息をつく。
おそらくこの男は一日で太宰の一年分の言葉を話すだろう。それくらいには饒舌だった。しかし、誰もこの男の生まれや育ちを知らなかった。つくづく隠し事が好きなのだ。……誰も知る気がなかっただけかもしれないが。
「そういえば、あたしが送った万葉集、読んでくれました?」
「…………」
面倒な話題になってしまった。太宰は口を真一文字にして噤む。
こういう時は黙った方が勝ちだ。
「おいおいおい檀上官、太宰が本なんて読む奴だと思ってるんですかぃ? こいつはお勉強より殴り合いの方が得意でしょうよ。なんてったって体がでかいから腕も足も長い。まるで蜘蛛でさぁ」
左隣から野太い声が参加する。それと同時に、大きく太い五指を持った手が、太宰の黒い髪をかき混ぜた。……また面倒な人が増えた。
「外国じゃ上背がある男は引く手数多だっていいますがねぇ、こいつは駄目です。まずおもしろくねぇ。話術で盛り上げることができん男は論外でさぁ」
無骨な男は好き放題言いながら顔を近づける。
「あとなにより器量が良くねぇ。たれ眉たれ目は流行りじゃねぇや。弱っちく見えていけねぇ。時代は整ったつり眉につり目ですよ。そう、この俺のような」
「石川さんの時代でしたか。でもそれは石川さんの歳があと二十若ければってとこですかね?」
「手厳しすぎまさぁ檀上官。太宰、お前からもなんとか言ってやってくれ」
「なんとか」
「お前はけっこうしょうもねぇこと言うなぁ」
「あと一歩踏み出せば、ひょうきん者も夢じゃないんですがねぇ」
「…………」
余計なことを言ってしまった。そう思って、この状況から逃げるように目を閉じる。太宰の黒い瞳が重そうな瞼に隠れた。
「お、なんだなんだ? 太宰がまたなにか面白いことしたのかい?」
「こいつはいつも喋るわけじゃねぇけど、たまに言うことが面白ぇからなぁ。石川のおやっさんとは大違いだ」
「おうなんでぇ高見。俺に文句があるってぇのかい?」
「ちげぇますよ石川のおやっさん! あっしにはおやっさんの芸が一番ですとも!」
「そこまで嘘くさい誉め言葉もそうそうないと思うが」
「ていうか檀上官、また太宰に歌教えてるんですか?」
「ええ、知っておいて損はありませんから。これから先、好きな女性ができた時には歌の一つでも送らないと愛想尽かされちゃいますからね」
「太宰が好きな女なんてつくるタマかよ」
「でもさっき小さい女の子が太宰を見てたぜ? 目が合ったらすぐ逃げちまったけどよ」
「それは惚れられたんじゃなくて怯えただけだろうよ」
次から次へ、同じような軍服に身を包んだ男たちが頭だけを列から出し太宰の方へ向ける。むさ苦しさと面倒な空気を感じて思わず眉根を寄せた。
この部隊の中で太宰は末っ子だ。老け顔なので二十代には見られるが、まだまだ若造の十八。他はみんな二十五以上の男たちだ。口数少ない弟ができたように、それはもう可愛がっていた。……可愛がりすぎて、少しうざがられていた。
今回の仕事は、名前も知らない学者先生たちの護衛だった。
なんでも、万元使節団とかいう米欧諸国の制度や文化調査の遂行を目的とした日本初の団体らしい。
檀上官は学者の名前を聞いて興奮していたが、太宰には何が何だがわからなかった。
「……そういえば、みんなご存じですか? 日本のある村では水が無くなって困った時に巡礼僧を生贄にしているそうですよ」
「え⁉ なにそれ怖‼ 人間の所業じゃねぇ‼」
「そういう怖ぇ話好きでさぁ。さ、早く続きを話してくだせぇ」
「いいでしょう。事の始まりはその村に訪れた巡礼僧でして、水不足の村人はどうしたらいいか尋ねたそうです。そうしたら『生贄を差し出せばいい』なんて簡単に言いましてね――」
今日も今日とて始まった、と太宰は呆れた顔をした。
これでも腕が立つ集団のはずなのだが、如何せん雑談が多い。これではまるで家族のようだ。
窓の外、ちらつく雪を眺める。……檀上官が言っていたことはなんだったか。
「……わ、わがさと? に、大雪、ふ、ふれ、り、おお、お……?」
音を真似てみるが、単語を理解していないのでまるで形になっていない。しかも最後まで覚えていないのでは話にならない。
太宰はため息をつく。珍しいことをしてしまった。学がある人と同じことを言おうとするなんて。
そんなことを思っていると、太宰たちが待機している部屋の扉がけたたましい音をたてて開いた。
「うぉッ⁉ どうしたぁ高見、戸は優しく開かにゃいかんだろ?」
「そうですよ高見くん。この部屋はご厚意で貸してもらってるものなんですから……高見くん?」
「んーんー、んんっ! あー、あー、やっと音の出し方に慣れてきた。それにしても島民は変な舌の使い方するなぁ」
檀上官の訝しげな声に、太宰も高見の様子がいつもと違うことに気づく。姿はまるっきり同じなのに、中身だけごっそり抜け落ちたような、別物に入れ替わったような、そんな、妙な感覚。
「高見? 本当にどうしたんだ? 言ってることがなんか変だぞ?」
高見と一番仲がよかった伊藤が心配そうな顔で近づく。瞬間、太宰は脊椎から這い上がる恐怖に襲われた。
「伊藤さん! 駄目ですっ! 高見さんから離れて――」
「――いーちっ」
太宰が叫ぶも時すでに遅し。
伊藤の体は、高見の軍刀で一刀両断されていた。真ん中から菓子のように裂けた身体の間から、高見の皮を被った化物の姿が見える。そして、そのすみれ色の瞳と、かち合った。
「――みぃつけたっ」
「――っ‼」
「おぉ⁉」
己の腰に差してある軍刀を素早く突き出す。驚いたような声をあげた高見は間一髪突きを避けたが、その方法が常軌を逸していた。太宰の軍刀を素手でつかみ、それを軸に体を一回転させたのだ。できたとしても普通はやらない。人間とは痛覚が通っている生き物だからだ。痛みは遠ざけたいという本能があるからだ。
それが、目の前にいるソレにはなかった。
「ん? 痛いと思ったらすっげぇ手がぱっくりいってんじゃん!」
当たり前だ。成人男性一人分の体重を軍刀にかけたんだぞ。斬れてなきゃこっちの武器がよっぽど鈍だ。
そうは思っても声が出なかった。姿は同僚、中身は別物、感覚は化物。頭がどうにかなりそうだ。
高見は太宰に目を向ける。そして、
「やっぱりお前、俺のこと見えてるなぁ」
凄まじい速度で、突進してきた。
「――嬉しいよ」
軍刀を捨て、右手を刃のように尖らせ、一直線に太宰の心臓を狙う。まるで獣のように、無駄を限界まで排除した動きだった。
――死ぬ。
たった一言、そう思った。走馬灯なんて流れる暇もない。
自分はここで心臓を一突きされて、無様に死ぬ。しかしその未来は、鼓膜を破るような銃撃音によって遠ざかった。
「――ぐっ」
連続で弾が当たった衝撃で、高見の体が後方へ飛ぶ。その隙を見逃さず、石川の一閃が決まった。おもちゃのように高見の膝から下が床に転がる。
「太宰、無事かぃ?」
「……はい、なんとか」
「こいつぁ一体なんなんでぃ……。見た目は高見だが」
「伊藤さんを平気なツラして一刀両断する奴は高見さんじゃないでしょうよ」
「それもそうだなぁ。檀上官、こいつ、どうしやす? 足をすっぱりいっちまったんでもうすぐ失血死確定ですけど、一応規則に沿って尋問でもしますかぃ?」
「そうですね……」
檀上官が煙を吐き出している銃を持ったまま近づいてくる。そして、足をなくして無様に転がっている高見を一瞥すると、
「這って逃げられても面倒です。腕も切断してしまいましょう」
「御意」
情けをどこに忘れてきたのか。檀上官の鬼のような命令は、部下と同じ姿をしたもの相手でも揺らぐことはなかった。
石川が軍刀に付着した血を振り払う。もはや芸術に近い達人技だ。いつも冗談ばかり言っているが、刀の扱いでこの人に右に出る者は部隊にいない。
「高見、お前に恨みはねぇが……いや、伊藤を殺した恨みはあるなぁ。まぁいい、きれいに腕斬り落としてやっから待ってろよ」
そう言って、石川が血まみれの高見に近づく。一瞬高見は顔を青ざめさせたが、すぐに邪気のない笑みを浮かべた。
「にーいっ」
場に似つかわしくない子供遊びのような数え方。それが太宰の耳に届いた時には、血の雨が降っていた。石川は首から血を噴き出し、びくびくと痙攣している。
――なんだ、なんだ。一体なにが起きた?
太宰は眼球が飛び出してしまうのではというほどに瞠目する。
ついさっきまで石川は高見の腕を斬るために構えを取っていたはずだ。それが足をつかまれ、とてつもない力で高見の口元まで引きずり込まれ、首を喰い千切られた。
――なんだ、こいつは。
石川の体が一際大きく跳ねる。それを最後に、彼は動かなくなった。死んだのだ。
「こいつも捨てがたいけどなぁ」
声がした方向に顔を向ける。今死んだはずの石川の声が聞こえたのだ。
「…………石川、の、おやっさん?」
掠れた声が出る。太宰の目の前で首を鳴らす男は足を斬られた高見ではなく、首から血を噴いて死んだはずの石川だった。
「……は、はは」
もはや乾いた笑いしか出なかった。意味がわからない。
死んだはずの人間が生き返る。しかし、たしかに石川の死体はそこに転がっているのだ。今もなお、血を噴き出し続けて。
じゃあ、目の前で笑っている石川は一体なんだというのか。自分は狸や狐にでも化かされているのだろうか。
石川は軍刀を投げ捨て、太宰の横を通りすぎる。
――これは、敵わない。
そう思ってから、部屋が血の海になるのは一瞬だった。
「さーんっ」
田中が死んだ。
口の中に刃と見紛うほどの一突きをされ、汚物でも払うかのように投げ捨てられた。
石川の姿をしたものは、田中へと顔を変える。
「よーんっ」
坂口が死んだ。
己の軍刀を奪われ、目を何度も突かれていた。ぐちゃぐちゃとした音がやけに鼓膜に響いた。
田中の姿をしたものは、坂口へと顔を変える。
「ごーおっ」
織田が死んだ。
軍刀で真一文字に斬られ、胴と足が泣き別れした。上半身は太宰の足元まで吹っ飛んできた。
坂口の姿をしたものは、織田へと顔を変える。
「ろーくっ」
北原が死んだ。
心臓を一突き。太宰もそうなるかもしれなかった姿だ。
織田の姿をしたものは、北原へと顔を変える。
「なーなっ……お前はいいや」
佐々木が死んだ。
雑に首を飛ばされた。
北原の姿をしたものは、そのまま北原の顔を使いまわす。
「お前で最後か、はーちっ」
檀上官が死んだ。
一番長く粘った方だが、銃床で顔面が潰れるまで殴打され、最後は口の中で銃撃音を鳴らされた。きれいに吹っ飛んだ頭を、太宰はただただ眺めることしかできなかった。
北原の姿をしたものは、檀上官へと顔を変え、太宰に近づく。
「やっとお前のとこに来れたよ」
檀上官の顔をしたそれは、心底嬉しそうにそう言った。粘り気のある赤で顔半分が汚れている。
「……あんた、何者です?」
かろうじて出た言葉がそれだった。浅くなる息を抑えつけ、目の前にいるなにかを睨みつける。檀上官はわざとらしく考え込む素振りを見せた。
「うーん、そうだなぁ。この顔の奴本人だって言ったら、お前は信じてくれるのか?」
「……信じるわけないでしょう。見た目はともかく、中身が別物です」
「へぇ、どんな風に別物なんだ? 教えてくれよ」
殺す前の戯れか。いっそ一思いにやってくれればいいものを。でもまぁいい。付き合ってやろうじゃないか。
太宰は口角を上げる。それは引きつっており、目も当てられないほどに不器用だ。
「糞ったれな性根が出ちまってるんですよ。……うちの国では『性格は顔に出る』って言葉があるんですがね、あんたはそれをよく体現してらっしゃる。いい先生になれそうだ」
今際の際にもかかわらず、自分がここまで饒舌だとは思わなかった。檀上官が言った通り、ひょうきん者になるのも夢ではないのかもしれない。
太宰の笑みを見つめたそれは、すみれ色の瞳をどろりと溶かして笑った。
「お前、もうすぐ死ぬっていうのに……中々イカれてるな。そういうの、好きだよ」
「気色悪いこと言わないでください」
「その軽口も好きだ」
「勘弁してくださいって」
檀上官の皮を被ったモノは、恋する乙女のような熱っぽい視線を太宰に向ける。
「俺、百年はお前の身体でいいかも」
その言葉が鼓膜を揺らすと同時に、太宰は胸を貫かれた。
この度は本作「鬼門の化物手帖」読んで下さり誠にありがとうございます!
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とても励みになります!
早いもので、本作も最終章に突入しました。
残るはあと少しですが、一緒に駆け抜けていただけるとうれしいです!
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