ジェヴォーダンの獣 其ノ漆
「まぁ太宰さん! 大丈夫ですか!」
「こんだけ血ぃ流してて大丈夫に見えます?」
「見えません!」
「そういうことです」
太宰はぐしぐしと目を擦る。頭部から流れた血が目に入ってしまい視界が悪いのだ。
「最初は落ち着いてたんですがね、どうにもあの獣さん――」
「――ジャンヌさんです」
「……そのジャンヌさんが急に怒り出しまして、」
面倒そうな顔をしながら、太宰は簡単に状況を説明する。
「あの状態ですよ」
太宰が顎をしゃくった先、右前足から血を流した獣が月の下に佇んでいた。歯茎をむき出し、尾は天を突くように伸びている。
「やっぱりお嬢さん? だときれいな顔した人が相手の方がいいんですかねぇ」
「しょんぼりしないでください太宰さん! アナタのお顔も素敵です! 少数ですが好みの方もいるかと!」
「冗談ですよ。ていうかあたし今貶されてます?」
「ジェヴォーダンの獣」――ジャンヌが唸る。今にも飛び掛かって太宰の首元を喰いちぎりそうな雰囲気だ。
「神父さん、お兄さんの説得はどんな状態です?」
ルーメンが申し訳なさそうな顔で首を振る。
それを確認した太宰は、膝に手をついて立ち上がった。出血のせいか、少し眩暈がする。
「わかりました。それじゃ引き続き説得の方はお願いします」
そう言って、ジャンヌの方へ歩を進める。視界の端で心配そうな顔をするルーメンが見えた。
さて、どうしようか。太宰は悩む。
目の前にいるジャンヌは、正直言って、敵わないほど強いというわけではない。だが、野生の獣のような動きをするため、痛みに鈍く、相打ちを気にせず間合いに踏み込んでくることがどうにも慣れない。
一番恐ろしいのは、突進の速度と咬合力だ。異常なまでに発達した後ろ足から生まれる凄まじい突進を避けることはまず不可能である。そうなると受け止めるしかなくなるわけだが、しっかりとした防御の態勢でなければ骨が砕ける。加えて、獣らしい無駄のない顎で噛まれてしまえば、首なんてすぐにちぎれるだろう。
負けはしないが、油断したら死ぬ。
今回の自分の仕事は、ルーメンが少年を説得するまでの時間稼ぎ。つまり、この獣を殺してはいけないのだ。そんなことをしたら説得どころではなくなってしまう。相手は自分を殺そうとしてくるのに、自分は相手を殺せない。こんな理不尽なことがあっていいものか。……あぁでも、歯を折るくらいならいいだろうか。前足を潰すのもいいかもしれない。
そんなことを考えていると、ジャンヌが後ろ足を軽く曲げた。殺人級の突進の合図だ。太宰は腰を低くし構える。
おそらく、この獣は自分と似たようなものだろう。「元」人間の、「化物」。
やり合って初めてわかった。青白い月のような瞳が、時たま人間のような感情を滲ませることに。
人や獣を痛めつけて楽しむ趣味は持っていない。だが今回ばかりは、少し痛い目に遭ってもらう必要がありそうだ。
すみれ色の瞳と青白い瞳は、もう相手のことしか見えていなかった。化物同士の戦闘が再開する――刹那、
「ちょっと待ったぁぁぁぁぁぁ‼」
裏返った声が制止をかけた。顔を向ければ、こちらに駆けてくる人影が見える。
それは黒い断髪の――糞まみれの女だった。
◇◇◇◇◇
太宰が出した案は、単純かつ型破りなものだった。
唯一少年の言語を理解できるルーメンが、さらなる被害を生み出さないよう彼を説得。その間、「ジェヴォーダンの獣」を引きつけ、時間稼ぎをするのが太宰の役割。そして、説得が上手くいかなかった場合は、力づくで取り押さえる。簡単に言ってしまえばこんな流れだ。
さて、ではあの獣をどうやって捕らえるか。その部分の肝がシゲルである。
――あの獣は異常に嗅覚がいいです。覚えてますか? お二人が喰われそうになった時、獣は顔を顰めて距離を取った。先生が糞臭くて堪えられなかったんでしょう。
――え、失礼すぎない? ただ運悪く糞を踏んだだけでこの仕打ち?
――それで命拾いしたんだからいいじゃないですか。運がツイてたってことですよ。……話は戻りますが、糞踏んだ先生に近づいただけでその状態です。大量に持ってくれば、気絶まではいかずとも怯むくらいはするでしょう。そういうわけで、先生には運び屋を頼みたいんです。
――糞の?
――糞の。
そんなこんなで、太宰とルーメンが獣の元へ向かうと同時にシゲルも仕事を開始した。
事前に話をつけておいた牛舎の管理人から桶いっぱいの糞尿を受け取り、それを持って月光の下走る。
しかし、問題はそこで起きた。思いのほか桶が重く、盛大にこけてしまったのだ。そして頭から糞尿を被る羽目になった。かき集めるにも上手く集められず、糞まみれになったシゲルはそのまま己を切り札としてこの場所に駆けつけたのだ。
だが、糞まみれの女の登場に、現場の面々は固まることしかできなかった。それは「ジェヴォーダンの獣」とて同じである。
「……あ、あれ?」
自分に向けられる異様な空気を感じ取り、太宰たちから約三十三尺ほど離れた場所でシゲルは足を止めた。
ひくり、と獣の鼻が動く。
次いで、びくびくと全身が痙攣し始めた。
何事かとシゲルが目を見張ったその時、どさり、と軽い音を立てて獣が倒れてしまう。
恐る恐る近づいてみると、白目をむき、口からは細かい泡を吹いていた。シゲルと太宰は顔を見合わせる。もう戦える状態でないことは明白だ。
とにもかくにも、こうして化物退治は終わりを告げたのだった。
少年――ジャンは、「ジェヴォーダンの獣」――ジャンヌが気絶した直後こそ暴れ狂ったが、命に別状がないとわかると素直にルーメンの言葉に耳を貸した。ぐったりとしたジャンヌの頭を撫でながら。
ルーメンとジャンが話している様子を、シゲルは離れた場所から眺める。本当は記者として一番近い場所で話を聞きたいが、あまり臭いとジャンヌに良くないということで離れることを余儀なくされたのだ。
「まさか踏むだけじゃなく、頭から被ってくるとは思いませんでしたよ」
太宰の言葉にシゲルは眉根を寄せる。
「好きで被ったんじゃないよ」
「だとしても、ある意味ツイてますよね。あら、よく見れば顔なんか余すとこなく茶色じゃないですか」
「そういう太宰は真っ赤だけどね」
「しょうがないでしょう。土壁にめり込むくらいの強さで投げられたんですから」
髪まで真っ赤に染まった彼へ目を向ける。今回の件、獣の生け捕りを提案したのは太宰自身だった。彼のことだから殺した方が早いとでも言い出すかと思っていたため、最初に聞いた時は面食らってしまったものだ。なぜそんな案を出したのかと理由を問えば、
――獣単体でなく、言葉が通じる人が隣にいるなら話し合いは可能です。すぐに殺すんでもあたしは構いませんが、ほかに選択肢があるのにそっちを試さず……ってのは、先生と神父さんは嫌がるでしょう? 実際、獣による死者はまだ一人も出てないわけですし、このくらいの悪さだったらそこらの人間もやってますしね。
とのことだった。自分たちのことを考えて提案してくれた上に、一番危険な役まで買って出た太宰の気遣いに嬉しくなった時のことを思い出す。その感情は未だに色褪せていない。
感謝の気持ちを込めて、止まらない頭部からの血を着物の袖で拭ってやると、
「ちょ、糞を擦りつけるのはやめてくださいよ! 臭いのは先生だけで十分でしょう!」
なんて、雰囲気をぶち壊すようなことを言ってきた。少し腹が立ったので、無言で擦り続けてやる。嫌がる太宰に対してそんなことをしていると、ルーメンがこちらに向かって駆けてきた。
「ジャンさんからお話聞くことできましたよ……って何をしてらっしゃるんですか?」
「あ、助けてくださいよ神父さん。先生が臭いもの同盟に引きずり込もうとしてくるんです」
「もうすでに派閥を作ってるような言い方するなよ。……すみませんルーメンさん。少年の説得を全てお任せしてしまって」
「いえ、お気になさらず。これも彼の同郷として当然のことですから」
ルーメンはそう言って微笑むと、ジャンと話したことをかいつまんで教えてくれた。
まず、ジャンとジャンヌはただの人間であったという。しかし、教会で怪しい薬を投与された後、髪や瞳の色が変化していった。ジャンに見られた変化は、鋭い犬歯が生えてくることや、人にしては頑丈な身体、そして次々と忘れていく記憶などだったが、妹のジャンヌは違った。彼女は皮膚から獣のような鼠色の毛が生え始め、爪が伸び、異様なほど足の筋肉が発達したらしい。そして、変化が表れてからそう時間がかからないうちに、今のような四足歩行の獣へと姿が変わってしまったそうだ。その後、どうにかその教会から逃げ出したはいいが、彼らがいた村では害獣駆除が盛んに行われているらしく、生き延びるために貿易船に飛び乗ったとのことだった。
話を聞き終わり、相槌を打つことすら忘れていたことに気づく。まるで物語の中のような生い立ちに驚きを通り越して呆けてしまっていた。
普通であれば信じられないことだが、隣にいる太宰も似たようなものだ。理解して飲み込むことに、さほど苦労は覚えなかった。シゲルは一つうなずいて挙手をする。二人の視線が集まった。
「気になった点なんですが……『黒い断髪女性傷害事件』の被害者による証言は、鼠色の髪をした大柄な男でした。それはおそらくジャンくんのことだと思いますが、なんでこの事件の実行犯はジャンくんだったんでしょうか。ジャンヌさんにやらせればもっと楽できたんじゃ――」
「――先生ったら兄心をわかってないですねぇ」
太宰が笑いながら茶々を入れる。
「妹の手を汚させたいお兄ちゃんがどこにいるんですか」
「…………あ、」
そう言われて、なんて馬鹿な質問をしたのだろうと理解する。ジャンの方へ目を向ければ、今もなお妹の頭を大事そうに撫でていた。聞かなくてもわかることだ。彼の行動において、理由は全て大事な妹に繋がっている。
視線を戻したシゲルに向かってルーメンはうなずいた。
「太宰さんのおっしゃる通り、ジャンさんはジャンヌさんに傷害行為をさせないよう徹底していたそうです。なので蕎麦屋のご夫婦を襲ったあの時は、ジャンヌさんが勝手に行動してしまっていたとのことでした。殴ったことは許してくれませんでしたが、ジャンヌさんの手を汚させなかったことに関しては感謝されましたよ」
心底嬉しそうにルーメンは言う。結局は許されていないわけだが、本人がそれでいいならいいのだろう。
「あたしも気になることが一つあります」
そんな中、太宰が挙手をする。別に挙手制ではないのだが、わかりやすくシゲルとルーメンの視線がそちらを向いた。
「この事件で、どうしてお兄さんが黒い断髪の女性に標的を絞っていたのか、です。宗教上の理由とかですか?」
その問いに、ルーメンは言いづらそうに口を開いては閉じる。しかし、すぐに意を決したように言葉を紡いだ。
「その特徴を持つ女性を襲えば、今の生活をどうにかしてくれる人が現れる、と言われたそうです」
「誰にです?」
「……鼠色の髪を持つ、すみれ色の瞳をした、大柄な男性に、です」
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