ジェヴォーダンの獣 其ノ陸
その日、母に手を引かれて教会に連れて行かれた。ジャンが十歳の時だった。
生活に困窮していたから、口減らしのためであろうことはすぐにわかった。しかしまだ幼い妹は何もわかっていない様子で、母の手から与えられる体温をただ当たり前のように享受していた。無知で無垢な妹を、きれいなまま守ってやらないといけない。そう思った。理由なんてない。
――ただ、自分が兄に生まれたから。それだけだ。
帝都にある橋の下。月の光すら見つけられないその場所に、鼠色の髪を持った少年と一匹の獣はいた。昔は川が流れていたのだろう溝に腰を下ろしている。周りにはどこから来たのか枯れ葉ばかりが落ちていた。きっと風の流れからこの場所に集まりやすいのだろう。
「いっつ……」
骨すら軋むような冷たい風が、ジャンの顔面にできた傷に刺激を与える。それは一週間前にできた傷だった。
鼠色の髪をした男に殴られて、その傷が一向に治っていない。大抵の傷であれば、数時間で治ってしまうのに。唇は切れ、鼻は曲がってしまっていた。鼓動と同じリズムで痛みがを襲う。
隣にいる獣が唸り声をあげた。しかし、それは自分を心配する声だということを彼は知っている。
「大丈夫、大丈夫だよジャンヌ。兄ちゃんの怪我はどうってことない。それよりジャンヌもあのクソ神父に殴られてただろ? ごめんな、守れなくて。これも兄ちゃんが弱いからだ」
また一つ、ジャンヌと呼ばれた獣が唸る。ジャンは変わり果てた妹の頭を撫でた。
「今日もジャンヌはかわいいな。昔と、何一つ変わらない」
その嘘は、まるで自分に言い聞かせているようだった。
撫でられたジャンヌは気持ちよさそうに目を細め、ジャンの腹辺りで鼻をひくつかせる。そして満足そうに息を吐いた。こういう姿は犬に似ている。あたたかいその体に、ジャンは頬をすり寄せた。
あぁ、生きている。最近は物忘れがひどく、自分たちを捨てた両親の顔すら思い出せなくなってしまったが、ジャンヌだけはまだ認識できている。それで十分だ。
そう思った瞬間、ジャンヌの耳がぴくりと動く。
「どうしたジャンヌ。誰か来た?」
威嚇の声をあげる妹をなだめるように撫でる。視覚も、聴力も、嗅覚も、ジャンはジャンヌに敵わない。もしも本当に誰かが近づいていたとしても、人間と同じ性能の五感であるジャンにはわからないのだ。しかしその日は、月光が照らし出した二人の男を、ジャンの青白い瞳はたしかに捉えた。
一人は金糸のような美しい長い髪を持つ神父。そしてもう一人は、己と同じ鼠色の髪を持つ長身痩躯の「影無し男」だった。
その二人が誰かを理解した瞬間、ジャンはすぐに身構える。
自分と妹を傷つけた化物たちは、雑談しながらこちらに歩を進めていた。
◇◇◇◇◇
「ね、言ったでしょう? 帝都の枯れ葉が集まる場所はここしかないと思ったんです」
「すごいですね。もしかして帝都に来るのは二度目とか?」
「いえ、今回が初めてですが、なんとなくこの橋だろうと思っていたんです」
「言っちゃあれですが神父さん。あなた、中々化物じみてますね」
「師匠からいろいろな修行を課されたからでしょう。大抵の方よりも直感に優れている自信がありますよ」
「それは直感っていうんですかねぇ。まぁいいか。そんじゃ、手筈通りに」
「ええ。太宰さんは時間稼ぎをお願いします。ボクはあの少年の相手をします」
「こちらこそよろしくお願いします。あたしじゃあの子の言葉がわからないもんで」
太宰とルーメンが足を止める。ジャンたちまでの距離は約四十五尺。しん、と冷え込んだ空気の中、三人と一匹が睨み合う。
「■■■■■ーッ!」
月に向かって、弾かれたように「ジェヴォーダンの獣」が咆哮した。それを合図に、各々の相手に向かって地を蹴る。
――化物退治が、始まった。
◇◇◇◇◇
獣の咆哮が身体中を駆け巡る。
鬼畜な師匠によって、化物が出ると噂される森に投げ入れられたことを思い出した。あの時、自分は何も持っていなくて、己の身体を武器にすることを覚えた。指は針のように、腕は剣のように、歯は鋏のように。使い方によって、人間の身体は立派な凶器にもなるのだ。
距離を詰めた少年の拳がルーメンの顔に狙いを定めた。しかし、それが振り抜かれる前に掌で優しくいなす。
「やめましょう。ボクはアナタと話すために来たんです」
日本語ではない、母国語で彼は言う。
「話? 妹を殴った男と一体何を話すっていうんだ!」
少年の蹴りが繰り出された。……妹? なんのことだ、と疑問に思いながら、ルーメンは蹴りを受け止める。細身の少年にしては重い蹴りだった。じん、と骨に痺れを感じる。
一体どこからこんな力が出ているのだろうか。
健康な肉体こそが戦闘においての基本である。しかし目の前の少年は、見るからにろくな食事すらできていない様子だ。なのにもかかわらず、これほどまでの威力が出せるのはどういうことだ。
ルーメンは相手をよく観察する。そばかすが目立つ十代半ばほどの少年だ。鼠色の前髪は伸びっぱなしで、腕が長いゆえにシャツの裾が足りていない。そこまではとくにおかしい点はなかった。
しかし、彼の割れた唇から覗く歯にルーメンは瞠目する。そこには、狼のように立派な犬歯が生えていた。そしてそれは「ジェヴォーダンの獣」とよく似ている。先ほど少年が言った「妹」という言葉が脳内で繋がった。
「アナタと『ジェヴォーダンの獣』は、兄妹なのですか?」
「……『ジェヴォーダンの獣』だって?」
充血した瞳がルーメンを捉える。それはまるで、血だまりの中に寂しく浮かぶ月のようだ。
「ジャンヌを、そんな名前で呼ぶなッ!」
眉間に深い皺を寄せ、少年は吠える。彼の爪が頬を抉るように突き出された。それを避けた瞬間、ルーメンの左肩を猛烈な熱さが襲う。
「ぐぅッ‼」
思わずくぐもった声が出てしまう。左肩の肉を喰いちぎる勢いで、少年が嚙みついていたからだ。
ずぶずぶと沈んでいく犬歯の形がよくわかる。激痛が走る。血があふれる。しかし同時に、脳はクリアになっていく。
視界の端に「ジェヴォーダンの獣」を引き付けてくれている太宰の姿を捉えた。
自分がこの少年を説得し、その間太宰は命がけで時間を稼ぐこと。それが今回の作戦だった。……簡単すぎて作戦とも言えないが。
右へ左へ上へ、太宰は軽そうに跳ねて獣の攻撃を躱す。好き勝手に動いているように見えるが、その実、獣の意識がルーメンに向かないよう考えられていた。
正直に言って、素晴らしい腕前だ。命のやり取りをしながら、ほかにまで気を向けるのは簡単にできることではない。自分と同様、目に見える武器を持たず、その代わり全てにおいて化物じみた能力を持つ男性。可能であれば、一緒に国へ帰りたい。
あぁ、そうだ。欲を言うなら、記者の彼女も共に連れて行きたい。知識と覚悟を持つ女性。視点、考え方において、彼女は兵士に向いている。きっと、彼女がこれから書く記事全てが魂を揺さぶるような素晴らしいものになるのだろう。
そこまで考えて、ふと気づく。
ここまで惚れこんでいるのだ。自分はあの二人を、友と呼んでもいいのではないだろうか。
「アナタはどう思いますか?」
「……は?」
どくどくと血が流れ出ていく感覚がする。すっと体温が下がる。
「……あの二人は、ボクに友と呼ばれても、嫌ではないでしょうか」
「なっ、はっ⁉」
一体何の話をしてるんだ。少年の顔にはそう書いてあった。
「あぁっ、これは失礼しました! 今目の前にいるのはアナタだというのに、ボクはよそ見をしていた!」
ルーメンは目を伏せる。長いまつ毛が影を落とした。そしてすぐに、まっすぐな瞳で少年を射抜く。
「ボクはルーメン・オブリ。美しい鼠色の髪を持つ少年。アナタのお名前は?」
そう言った美しい顔の神父は、獣顔負けの速度で少年の首に嚙みついた。
◇◇◇◇◇
声が出なかった。何をされたのかさえ、わかっていなかった。舞っている赤い雫が自分の血だと気づいて、初めて首を噛まれたのだと理解した。
なんだ、なんだ、なんだこいつは!
ジャンを襲ったのは困惑。次いで、理解できないものを前にした時の気持ち悪い恐怖だった。
今なんて言った⁉ 友⁉ あの二人って誰だ⁉ それに名前を聞いてきやがった⁉ いま⁉
「うぐぅあッ‼」
狂ったように回る脳が痛みによって停止する。嚙みちぎることには向いてない人間の歯が、ぶちぶちと皮膚を破った。
このままでは喰われる。本能的にそう思い、男の肩から口を放して無理やり距離を取った。
激痛。神父から離れることには成功したが、少し首の肉を持っていかれた。
「はぁッ、はぁッ、はぁッ」
あふれ出す血を止めるために首を押さえる。
……なんなんだ、この男は!
口に付着した神父の血を拭う。傷を与えることはできた。しかし、噛みちぎれなかった。
ジャンの胸中に焦りが広がっていく。あの黒い神父服の中は一体どうなっているんだ。鉄板でも仕込んであるような固さだった。まるで、傷ついて、治って、固くなる、という工程を何百回も繰り返したような、そんな肉体。
「……動物は、捕食中が一番無防備になるといいます」
化物のように美しい顔をした神父が近づいてくる。
「いけませんよ。相手の視界に、首元を晒しては」
ぞっと寒気に襲われる。経験、知識、いや、理由はそのほかにも存在するだろう。ただ、敵わない。そう思ってしまった。
獣のなり損ない――失敗作の自分では勝てない。
「……これは太宰さん、アナタの妹さんとやり合っている男性の推測なのですが……アナタ、半分ほど獣ですね?」
びくり、と肩が跳ねる。
「生まれた時からそのような状態なのですか? それとも後天的なものでしょうか? もしも後者なら――」
「――なら? ならなんだよ!」
叫んだことで、首の傷から赤い雫が弾けた。
「どうにもできないだろ‼ ぼくのことも‼ 妹のことも‼ こんな身体にした奴らの顔を恨んでるはずのぼくでさえ覚えてないんだから‼」
ジャンは頭を抱えた。妹にも言えなかったことが、己の意志に反して口から出ていく。
「何されたかもろくに覚えちゃいない‼ 忘れていくんだ‼ 全部‼ ただ、よくわからない薬を何度も打たれたら髪と目の色が変わってて、妹が、ジャンヌが、あんな姿になってた‼ こんなことくらいしか説明できないぼくたち相手に何ができるっていうんだよ‼」
「――できます」
力強い一言だった。ルーメンと名乗った神父が、ジャンの顔を覗き込むよう地面に膝をつく。
「ボクが神職になって知ったこと。それは、人生は思っていたよりも上手くいくことが多い、です」
美しい顔から出たのは、神父とは思えないアホっぽい言葉だった。しかし、それはどこか確信があるようにも聞こえる。
「神はボクたちを見てくれていますよ。それをこの国では、『お天道様が見ている』と言うそうです」
月光に照らし出された顔が、神様のように微笑んだ。絵画を切り取ったようなその空間を、
――ドゴッ‼
荒々しい音と、自然によって造り上げられた土壁に弾丸のような速さで激突する何かが台無しにする。
砂塵の中から現れたのは、頭から血をだらだら流している太宰だった。
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