見世物小屋の影無し男 其ノ弐
春前といえど深夜の空気は冷たく、簡単に指先の温度を奪う。
しかし、ネタ集めの張り込みで寒さに慣れているシゲルは特に気にすることもなく歩を進めた。
見世物小屋の裏に人の気配はない。客もみんな帰ったようだ、この場にいる彼女を除いて。
シゲルの手には革製の手帳がある。記事を書く上で考えをまとめる大事なものだ。しかし、人差し指が挟まれた頁は白紙だった。
「まさか、見入って一文字も書けないなんて……」
記者失格だ。その場の熱を読者に届けなければいけないのに、ただ客として最後まで見てしまった。これでは記事ネタをくれた大乗にも顔向けができない。
何か記事に書けることはないか。この際「影無し男」以外でもいい。どうにか特ダネになり得るものを探さなければ。そう思って見世物小屋の裏手に回ったが、目を引くものは何もない。
「座長さんに取材とかできたらいいんだけど……ん?」
シゲルの足元。薄汚れた天幕が破け、留め具がはずれている。屈んで少しばかり持ち上げてみれば、ひと一人くらい通れそうな空間が生まれた。
不法侵入。
そんな言葉がシゲルの頭をよぎる。だが、その考えを吹き飛ばすように彼女は頭を振った。
降って湧いたような幸運だ。これを逃すことはできない。ここで何も書けなければ、先輩の大乗はともかく、それより上に位置する上司たちにどやされてしまう。
湧き上がる不安と唾を一緒に飲み込むことで胃の辺りに抑える。挙動不審な行動で関係者に見つかっては元も子もない。
シゲルは罪悪感に襲われる前に行動を起こした。着ている銘仙着物や履いている編み上げブーツが汚れることも気にせず、四つん這いで見世物小屋内部へ進む。ただ、蛇腹式カメラが入っている肩掛け鞄だけは大事に抱え込んだ。
月の光が入らないからだろう、天幕の中は深夜である外よりも暗かった。目がろくに見えないと神経が過敏になり、自分から発する衣擦れの音にすら反応してしまう。
手探りで進むと、看板や照明のような固い無機物に衝突する。どうやらこの辺りは、不要の印が押された物であふれかえっているようだ。
一歩進むたびに身体のどこかをぶつけていたが、急に開けた場所に出た。そのころには明瞭でないにしても、目が暗さに慣れ始めてくる。
現在地はどの辺りだろうか、と考えていると独特な臭いの生暖かい風を顔全体に浴びる。
……生暖かい、風? 天幕内なのに?
真正面に目を凝らす。そこには、人間の顔なんていともたやすく噛み砕けてしまうような牙があった。
「ぃひッ⁉」
本能に直接刺さる恐怖に襲われ尻餅をついてしまう。見えてしまえば理解は早かった。ここは見世物小屋。見世物になる珍獣だって、裏にしまい込まれているのだ。
シゲルの目の前にあったものは檻。そしてその中にいたのは、人なんて玩具同然に壊せてしまえる大きさの白虎だった。客席で見た個体と同じものかはわからない。そんなものを考えている余裕はなかった。
腹の底に響く白虎の重い唸り声に反応し、他の檻に入った獣たちも次々に鳴き声をあげる。ぐわんぐわんと頭の中で反響した。
「おい! なんだ! 急にどうした!」
びくり、と肩が震える。司会をしていた男の声だ。おそらく静かだった獣たちが急に鳴き始めたため異変を感じたのだろう。大きな足音とカンテラの小さな灯りが近づいてくる。
――どうしよう、どうしよう、どうしよう!
浅く、速くなる呼吸。鼻が曲がりそうな獣臭。鼓膜を破るような咆哮。立ち上がろうと下半身に力を込めるが、体は動き方を忘れたように言うことをきかない。腰が抜けているのだ。
「誰かいんのか!」
確実にシゲルの方へ近づいてくる声と足音。さすがにばれる、と諦めた瞬間、
「――ぅわッ⁉」
強い力で右腕を引かれた。あれだけ動かなかった体が宙に浮くほどの力だった。
自分が今どうなっているのかもわからない。気づいた時には、温度を感じない何かに包まれていた。
「しぃ……」
まるで泣きわめく子どもをあやすように、細く長い息が鼓膜を揺らした。恐怖とは別の意味で身体が固まる。声なんて出せる状態でないことは明白なのに、シゲルを包んだ何かは優しく彼女の口に蓋をした。
「あーうるせぇ! 静かにしろ珍獣ども! おい『影無し』! てめぇもお仲間みてぇなもんだろうが! どうにかしろ!」
司会の男は苛ついた口調で怒鳴り散らした。すると、シゲルの頭上から声が発せられる。
「やだなぁ司会さん。あたしはただ影が無いだけの男です。猛獣使いになった記憶はありません」
低く、軽薄そうな声だった。そして不自然な抑揚がある。年齢は推測しにくいが、二十代前半くらいだろうか。
「獣のみなさんも暴れたくなる時だってあるでしょうよ。許してやってください」
「相変わらず気色悪ぃしゃべり方する奴だ。てめぇと話してっと脳みそ腐る気がするね」
「そいつは悪ぅござんした。あたしには腐る脳みそなんて立派なものはないもんでして」
「もう腐ってる脳みそしかない、の間違いだろうがこの化物野郎」
「あら、こりゃ手厳しい一本だ」
なにがおかしいのか、「影無し」と呼ばれた男は笑い声をあげた。男の揺れる背を見て気味悪そうな顔をした司会はそそくさとその場を後にする。十分に足音が遠ざかると、男はシゲルの口から手をはずした。
「司会さんは行きました。もう息しても大丈夫ですよ。まぁしてもらっててもよかったんですが」
緊張のため、知らず知らずのうちに息が止まっていたようだ。男の言葉によって、そのことに初めて気づく。
「…………っはぁ!」
「魚みたいに陸上で窒息死するかと思いましたよ。生きててよかったですねぇ、東の客席にいたお嬢さん」
シゲルの体に巻きついていた腕がほどかれる。自分を司会の目から隠してくれていたのは、この「影無し男」の大きな身体だったのだとようやく理解した。
背中から覆われていた形だったため、正面からお礼を言おうと少し距離を取って向かい合う。どうやら抜けた腰も治ったようだ。
「あの、さっきはありがとうございました。とても助かりました」
「こりゃご丁寧にどうも」
男はそう言って口角を上げた。だが、それはどこか表面的なように見えて不気味だ。暗闇のため顔の細部まではわからないが、雰囲気や空気がどこか怪しいもののように感じてしまう。
「えっと、どうやって助けてくださったんですか? ここ、檻の中ですよね?」
おそるおそる質問する。あまりにも非人道的だが、見世物であるこの男は、シゲルが腰を抜かした原因である白虎と同じように檻の中に入れられているのだ。つまり、彼の身体で隠されていたシゲルも、現在は一緒に檻の中にいるということになる。しかし、彼女は元々檻の外にいたのだ。どうやって中に引き入れられたのか見当もつかなかった。
「ああ、そりゃ簡単なことです。普通に扉を開けて、あなたを引きずり込んだんです」
「……扉を開けて?」
「はい。それ、このとおり」
軽い調子でそう言った男は、身長に見合う大きな手を格子の間から出す。そして錠に触れると、慣れた手つきではずしてみせた。ぎぃ、という不快な音をたてて扉が開く。
「壊してそのまんまにしておいてるんです。好きな時に散歩とかしたいんで」
男はへらりと笑った。直感だが、彼は錠を壊したことを見世物小屋の関係者に伝えていないだろう。加えて、しっかり錠が機能しているように見せかけている。もはや詐欺師だ。
「まぁ、何はともあれ――」
シゲルの頭に大きな手が優しく置かれた。重さはあるのに温度を感じない。
「――見つからなくてよかったですねぇ。でも、早く帰った方がいいですよ。次も隠してやれるとは限りませんから」
瞬間、もしかしたら――と思う。この男はここに愛着があるわけではない。先ほどの会話を思い出せば明白だが、関係者との仲が良好というわけでもなさそうだ。
であれば、男の望む対価を用意し頼み込めば手を貸してくれるのではないだろうか。たとえば、見世物小屋から抜け出した後に匿ってやる、とか。
シゲルはこの場所の間取りをまったく知らない。しかし、好きな時に檻を出て散歩している彼ならば、座長の所だろうがネタが集まった所だろうが、どこにでも案内できるはずだ。協力者としても申し分ないどころか、頭を下げてお願いしたいくらいである。
しかも、あの「影無し男」だ。一緒に行動していれば記事にできそうなことが見つかるかもしれない。
「あの――」
頭に乗っている手を逃がさないという思いを持ってつかむ。やはり温度を感じないことに疑問を覚えながらも言葉を続けた。
「――この見世物小屋を案内していただくことってできますか? もちろん報酬はお支払いしますので」
「えぇ? そんなの嫌ですよ面倒くさい」
一刀両断だった。
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