狐か狗か、はたまた狸か 其ノ伍
シゲルたちは教師の目を盗み、どうにか来賓室から抜け出した。そして、夏野が最初に「こっくりさん」を呼んだ場所――ガラスが飛び散った教室に向かう。
机はもれなくひしゃげてしまっているため使い物にならない。仕方がないので、ガラスや木片を足で払って安全に座れる部分を生み出した。そしてそこに座り込み、即席で作った「こっくりさん」専用の五十音図を取り囲む。
不安と恐怖によって逸る鼓動を落ち着かせるために、一つ長い息を吐いた。
「…………よし」
シゲルは紙の上に指を置いた。夏野もそれに倣って、シゲルの指の隣に人差し指を置く。しかしいくら待てど、あと一人の指が置かれない。それどころか件の男は座ってすらいなかった。
「太宰、先生たちに見つかるわけにはいかないんだから早く指置いて」
「いえ、あたしは参加しません」
「はぁ?」
思わず聞き返してしまう。これからやろうとしている「こっくりさん」の儀式は彼自身が提案したことだろうに。
「狙い通り『こっくりさん』が来て素直に帰ってくれればいいですけど、もし暴れ出した場合は止める要員も必要でしょう? それで儀式が中断したら前回の二の舞です」
「え、でも、それでは助手さんが……」
危険ではないか、と不安そうにする夏野に、太宰はへらりとした笑みを向けた。
「あたし、これでも命のやり取りは得意なんです。人とのやり取りよりもね。先生はよくご存じでしょうけど」
そう言う太宰に何を感じ取ったのか、夏野は口を噤む。
たしかに、あの見世物小屋で生き残ってきたのだ。そりゃ得意だろう。だが、心配する気持ちがないわけではない。
シゲルは太宰にかける言葉を探し、何も見つからず息を吐き出した。どこかへ出かけるわけでもないのに、「気をつけて」はおかしい気がしたのだ。
「夏野さん、彼は大丈夫です。私たちは『こっくりさん』を始めましょう」
「え、あ……は、はい」
夏野の指に力が入る。二人は息を合わせて口を開いた。
「『こっくりさん、こっくりさん、おいでください』」
――何も起こらない。
「『こっくりさん、こっくりさん、おいでください』」
――吹き込む風が止まる。
「『こっくりさん、こっくりさん、おいでください』」
――音が消える。
「『こっくりさん、こっくりさん、おいでください』」
――漂う空気が、変わった。
「『こっくりさん、こっくりさん、おいでください』」
――何かに備えるように太宰の腰が下がる。
「『こっくりさん、こっくりさん、おいでください』」
「――さぁ。狐か狗か、はたまた狸か。一丁拝ませていただきましょう」
時間が止まったような感覚。その直後に、鼓膜を破るほどの轟音が響き渡った。
シゲルの視界に飛び込んできたのは、ひしゃげた机が粉砕される中に現れた巨大な四足歩行の化物。そして――それに右手を伸ばす太宰の姿だった。
「その体躯でどうやって学校内に隠れてたかは知らないですが……あなたが『こっくりさん』、ですか」
怯まず即距離を縮める太宰の存在に気づいた「こっくりさん」は、毛を逆立て巨躯に見合った太い前足を振り抜く。広くもない教室内でなぜそんなことができるのか、太宰は子兎のように跳んではねて「こっくりさん」の攻撃を躱していた。その後の動きも、シゲルたちの方に「こっくりさん」が向かわないよう計算して立ち回っているようだ。
化物じみた身体能力に呆けてしまうが、自分たちにはやらねばならないことがある。紙に指を置いたまま、シゲルと夏野は続きを唱えた。
「『こっくりさん、こっくりさん、ありがとうございました。お帰りください』」
すると、本当に指が勝手に動き出した。二人の指は未知の力に押され、五十音図の上にある「いいえ」の場所へと導かれる。
「なっ、なんで……」
夏野は可哀そうなほどに狼狽える。だが、まだ指は離れていない。
「『こっくりさん、こっくりさん、ありがとうございました。お帰りください』」
シゲル一人で儀式で続行する。恐怖で言葉が出ない夏野は、彼女を見つめることしかできないようだった。
凄まじい音をたてて壁が抉られる。太宰の姿を探すと、無傷の彼が目に入った。そのことに安堵していると、再度指は動き出す。
――カ、エ、レ、ナ、イ。
「…………え」
瞬間、どうっ――と重そうな音が響いた。攻撃を躱しきれなくなった太宰が頭上で両腕を交差させ、「こっくりさん」の尾による攻撃を防いでいる。それを見たシゲルは思わず、
「――蛇?」
そう呟いてしまった。
夏野の言っていたことを思い出す。彼女が見た「こっくりさん」は、この国に存在する獣のどれにも当てはまらないもので、毛むくじゃらの尾が三本、そして狐に似た顔をしていた、と。なら、目の前にいる化物はどうだ?
たしかに顔は狐に見えなくもない。立ち上がった大きな獣耳に、狸のようなぼってりとした腹、目は真っ黒で、毛むくじゃらの尾もある。
しかし、数は四本だ。しかもその内の一本――太宰が防いでいるものには毛など一切生えておらず、蛇のような鱗に覆われている。
シゲルの言葉を聞いた太宰は目の前の化物を凝視した。獣臭い呼気を放つ口は狗のように鋭利な牙がずらりと並び、何でも抉ることのできる爪は四本。前足と胴体の毛は所々抜け落ちており、その部分からはしっとりとした漆黒の鱗が生えてきている。そう、シゲルが言った通り、まるで蛇のような……。
そうか、と太宰は納得した様子で口を開く。
「理由はわかりませんが、あなた、もう『こっくりさん』じゃないんですね」
――それじゃあ帰れないわけだ。
シゲルの耳に届いたその言葉は、どこか憐れみを帯びていた。
その時、少し離れた場所から複数の足音が聞こえる。おそらく教師たちだ。轟音の連続によって場所がばれてしまったのだろう。
まずい、とシゲルは思った。こんな場所に何も知らない教師たちが突入したら、確実に死人が出てしまう。それだけは阻止しなければいけない。
「太宰っ!」
「はい、任せてください」
名を呼んだだけだが、彼にはシゲルの言いたいことが伝わったようだ。
足を大きく開き、腰の位置が一段と低くなる。その姿は獣が突進する前を彷彿させた。
「よいしょっ」
状況に似つかわしくない掛け声と共に、太宰は蛇の尾を天井に向けて弾き飛ばす。それから間髪入れずに、「こっくりさん」の顔面に向かって突進した。次いで、振り下ろされる爪を避けて顎を掌底打ち。衝撃によって脳震盪を起こした「こっくりさん」の懐に入り込む。
太宰は刃のように右手を尖らせ、ぐらついている狸のような胴体を見た。そして中心よりも少し左側――心臓がある箇所に向かって右手を突き入れる。
「『いざ子ども早く日本へ大伴の御津の浜松待ち恋ひぬらむ』。……どこか、帰る場所が見つかりますように」
刃と見紛う手を引き抜くと、大量の赤が噴き出した。
「こっくりさん」の真下にいる太宰は一瞬にして全身が赤黒く染まる。飛び散る破片から夏野を守るため抱きしめていたシゲルも頭から血を被っていた。
ゆっくりと倒れた「こっくりさん」はびくびくと震え、最後に一際大きく跳ねたかと思えば一切動かなくなってしまう。だが流れ出る血の勢いは止まらず、すぐに教室を血の海へと変えた。
不思議と血の匂いはしない。その異様な状況が逆に恐ろしく、シゲルの息は浅くなった。
太宰はいつも通りの笑みを浮かべたまま振り返る。
「終わりました」
まるで、おつかいが完了した時のような軽さだった。
喉が張りついたように声が出ないでいると、「こっくりさん」の体が風に吹かれた砂のように消えていく。血も同様だ。シゲルが頭から被った赤も蒸発するように消え、着物が元の色を取り戻す。
教師たちの慌ただしい足音が近づいてくる。太宰の反撃が始まってから、まだ数十秒しか経っていないことに今さら気づいた。
「……………………ばけもの」
シゲルの腕の隙間からこの光景を見ていた夏野は、震える声でそう呟く。
その言葉は「こっくりさん」に向けてのものか、太宰に向けてか、はたまた両方か。シゲルにはわからなかった。
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