序章 ソーラ・クラレス③
(こちらの用意した薄い壁を通過するかたちで君は転移する。だけどその先には、四メートル以上の厚さを持つ水の空間が待つ。君はちょうどその空間の真ん中に飛び込む。僕の指の動きを見て罠に気付いたところで遅い。君が途中で転移先の座標を変更できないのはわかっている)
直後、白いワンピースとスーパーロングの黒髪が、その水の空間に現れた。
見えたのは後ろ姿である。水が日光を反射しているため視認しづらいが、確かに彼女で間違いない。
(逃げようとしても無駄だ)
すかさず「膨張」を重ねがけして水の空間を広げる。
(四メートルを超える厚さの水が、そちらのワープに合わせて形状を変化させ、脱出を許さない。もちろん君の息が限界を迎えそうになったら解除する。悪いけど、これで一巻の終わり)
しかし、僕が勝利を確信した瞬間。
水のなかの彼女のワンピースと黒髪が、互いに分離した。
「え?」
思わず口から声が漏れる。
しかも同時に、僕の背後から手が伸びてきた。白く細い右手が、浮いた青巻紙をつかむ。そのまま間髪をいれず、手が後方に引き戻される。
とっさに僕はベルトにくくりつけてある赤・黄の巻紙を取ろうとしたが、それらもいつの間にか「彼女」の手のなかにあった。
「わたしの勝ちね。アロン・シュー」
振り返った僕の眼前には、ソーラ・クラレスが立っていた。
攻撃手段の巻紙を取られた以上、僕に勝機はない。観念して「青巻紙・封」と唱え、彼女の手元のそれをとじる。
ソーラは三つの巻紙を両手でかかえ、少し笑う。
「あなた、最後たたみかけるとき、なぞった字を口にしていたわね。でも開閉の際を除いて巻紙魔法に発声は不要のはず。青巻紙で水分補給をするときも、あなたは『水』とか言わなかったし」
彼女の素足が、ステップを踏むように小刻みに動く。
「つまりアロンは本当のねらいを隠すため、わざわざわたしに自分の行動を教えたってことね。ならこっちは、あからさまな水の砲撃に隠された本命の罠を警戒しつつ動くまでよ」
黄土色の砂の上をぴょんぴょんはねながら彼女は続ける。
「余裕で防げるくらいの魔法を事前に使ったのも上手かった。あとから来る攻撃との落差があるほど、こっちは正常な判断力を失い、罠にかかりやすくなる」
「解説ありがとう、勉強になる。だけど」
僕は首をひねり、目をそむけていた。
というのも、ソーラがなにも着ていなかったからである。事実、さきほど背後に現れたときからずっと、彼女は一糸まとわぬ姿でいた。しかし直接に指摘できるほどの仲でもない。
「なんで、はだ、しなんだ? さすがに砂漠だと熱いよね」
「やけどしそうよ。サンダルもワンピースと一緒にワープさせたから」
ここで僕は、水の罠を設置していた場所を見る。今いるところから約三十メートル離れた地点。巻紙魔法で出した水はすでに破裂し、砂漠に吸われていた。
変色した砂の上に白いワンピースが横たわる。同色のサンダルも転がっている。
「身につけているものと自分自身を別々の座標にワープさせたのか」
今になって僕はソーラの作戦に気付いた。
「それなら途中で転移先の変更ができなくても関係ない。服とは別の場所にワープした君は、僕が『ぬけがら』に注目している隙にこちらの背後に回り込んで巻紙を奪ったんだ。君のワープ距離の限界が僕の想定を上回っているとすれば、じゅうぶんに実行可能な策だ」
「わたしの限界距離、四メートルだと思ってたでしょ。実際は五メートルなの」
「あえて四メートルのワープをくりかえし、その最大距離を誤認させたわけか。僕は勘違いしたまま水を膨張させ、君を包囲した。結果、君を抑え込むには水の厚さが足りず、想定していた地点以外からの脱出を許してしまった」
「まあ五メートルを超える厚さの水でも、いったんそのなかに入って再度ワープすればいいだけだから問題ないんだけど」
「服をおとりにするという行動も予想できなかった」
「日光が強くて水のなかが見えづらかったから、できたことよ。でも、あなたの視界に入らないよう足音を消して素早く近づくのは大変だったわ」
「なるほど、魔法以外の作戦や運動能力の面でも僕の負けだ」
「ともあれ、わたしがなにも身にまとっていないのは、あなたの分析どおり。でもヒントは、あげてた。覚えてるかしら。わたし、ワンピースに空気を入れて、ふくらませてたでしょ」
「そういえば」
「あんまりぴったりくっついてたら、別々にワープさせることに失敗する場合があるから。もしものときのために、服と肌とのあいだに空気の層を作っていたのよ」
そんな彼女の説明を聞いて僕は思った。ワンピースはともかく、インナーはどうしたんだと。さすがに踏み込んでいい領域ではないので、せんさくしないが。
それからソーラは、三色の巻紙を返してくれた。続いて早歩きで、自分のワンピースやサンダルが横たわっている地点に移動する。
どうしてワープを使わないのか、そのときの僕にはわからなかった。
ソーラは、しゃがみ、ワンピースの横に投げ出されたものを拾った。しかし彼女が真っ先にふれたのはサンダルのほうではなかった。
「よし、無事だわ」
それは元々、彼女の頭にあったスーパーロングの黒髪だった。水色のリボンも一緒である。
彼女は、その髪を拾い、頭にかぽっとかぶせた。
「うーん。さすがに、びちょびちょ」
つまりソーラは服だけでなく、髪すらも自分から切り離してワープさせていたのだ。僕が罠として用意した水の空間に、彼女のワンピースだけでなく黒髪も現れたのは、そういうわけだ。
もはや説明の必要もない。彼女の髪は天然ではなく、百パーセントの「かつら」だった。頭に毛の一本もないソーラの姿を、僕は見てしまっていた。
そちらのインパクトが強すぎて、生まれたままの姿の彼女を目にしたことに対する記憶すら軽い衝撃に感じていた。これまで冷静に振る舞うのも大変だったが、実際にかつらをかぶる彼女の姿を横目で見て、思わず僕はショックでさけびそうになった。
「あら、驚いてるの? アロン」
彼女は黒髪を丁寧にさわっている。
「そんなにわたしがハ、つるつる頭なのが意外だったかしら」
サンダルに足を通し、ワンピースを手に取って日の光に当てる。
そのあと、くしゃみの音を響かせる。
ワンピースは濡れたままだった。大量の水を吸ったあとなので、日光だけでは乾くのに時間がかかりそうだ。
「気付かなくて悪かった。乾かすよ」
僕はソーラの近くに寄り、巻紙の一つを手に取る。
「赤巻紙」
するすると、それをひらく。「乾燥」の字に指を載せると、そこが赤黒く発光する。続いて「指定」の文字列をなぞる。
彼女の白いワンピースに浮き出ていた、水濡れ特有のよじれたシワが抜けていく。
基本的に赤巻紙は「火」に関連する現象をあやつるが、安全に使えば衣服を乾燥させることもできる。
「どう? ワンピースだけじゃなく、君のサンダルと髪も『指定』して乾かしてるけど」
「すごいわね。びちょびちょだったのに」
彼女は袖などについていた黄土色の砂をはたき、ワンピースを再び着た。それから、くるりと回転し、ロングスカートをなびかせた。
自分の黒髪を軽くたたいたり、水色のリボンをつまんだり、足を少し上げてサンダルの状態を確認したりしたあと、僕のほうに向きなおってソーラは言った。
「完全に乾いてる。ありがとう。やっぱりあなたの巻紙魔法はすごく面白いわ」