第6話 桜のゆめ
「まあ、なんとなく分かったよ」桐谷はごまかすよう両手を組んだ。「未来では誰も理不尽に殺されず、誰も理不尽に死なない。そのために君は僕の殺人を止めようとしている」
「それは、少し違う」
瑞希は言った。
その声は、誰もいない場所で鳴る鈴のようだった。
「親殺しのパラドックスは知ってる?」
「過去に戻って親を殺した場合、親を殺した自分が産まれないから、矛盾が生じる」
「そう。それと同じことが、私たちがやっていることにもいえる」
「つまり……」
桐谷は少し考えて、その答えにたどり着いた。
「過去の殺人を止めた場合、こんどはその殺人を止める人間がいなくなるから、矛盾がおきる?」
「正解。さすが国立大学生」
ぱちぱちと、手をたたく仕草をして瑞希は言う。
「親殺しのパラドックスが存在するかぎり、《《過去に干渉しても未来は変わらない》》」
「……じゃあなんのために?」
未来が変わらないなら、無意味じゃないか。
桐谷はなんどか頭のなかで思考を巡らせながら、瑞希の答えを待った。
「人が平等に生きるために」と瑞希は小さく言った。「過去への干渉は、未来が変わらない代わりに、もう一つの世界線をつくる。並行世界ってやつだね。私の世界が【A】だとすると、この世界は【A2】。私がこうして君と話している時点で【A】の世界からは離れてる」
つまり、と今度は瑞希が言った。
「つまり。私は【A】という世界では君の殺人を止められないけど、この世界でなら君の殺人を止められる。私たちのいる【A】で殺された人も【A2】の世界でなら救うことができる」
風がふき、さわさわと頭上の枝が揺れる。
それによって差し込んだ月明かりが、彼女の上で不規則に踊った。
桐谷は茫然と、瑞希の姿を見ていた。
「じゃあ、君たちは、自分の世界ではなにも変わらないことをやっているのか?」
「そうだね」
「偽善的だな」
「そうだね」
でも、と彼女は反論した。
「それで救われる人がいるのは確かだよ。たとえ現実ではなんの変化がなくても——たとえば、子どもを殺された母親からしたら、この制度は慰めになる。自分の子どもが幸せに生きる世界があるって、そう思えるから」
「そんなの、妄想や虚構と変わらない」
「そうともいえるかもね。でも人はいつだって、現実には見えないものに希望を見出すんだよ」
風がやむと、公園は再びしんと静まり返った。
瑞希の瞳には光が映り、暗闇のなか、二つの星のように見えた。
「もし俺が、君の言うことを聞かないって言ったら?」
「毎日、説得し続ける」
「でも俺にそれに答える義務はない。人権社会なんだろ? 個人の思想は尊重するべきじゃないのか?」
桐谷は暗い瞳を向けた。
その瞳の奥では、さまざまな思考が嵐のように飛びかっていた。殺人に対する恐怖、罪悪感。救済に対する不信感、冷笑。加害者として扱われることへの苛立ち。瑞希を傷つけたいという加虐心。それらの感情が桐谷に、頑な拒絶の姿勢をとらせた。
「君は」
瑞希は、その冷たい瞳を見つめた。
そして氷を解かすような暖かな声で桐谷に触れる。
「このままで、いいの? 君が変ろうとしないかぎり、どの世界でも殺人犯として、暗い人生を刑務所で過ごすんだよ? 多くの人に恨まれて、誰からも愛されずに、一人で死ぬんだよ?」
「いいよ。ずっと分かってたんだ。俺の人生はクソだ」
「そんなの嘘だよ。だって君はまだ死んでない。諦めきれてないんでしょ? 幸福とか夢とか。だから生きてるんでしょ? 知ってるよ、私は。君は、ずっと」
ふいに風がふいて、桐谷は春の匂いを感じる。
桜の季節。
春の匂いが胸に広がり、微かな期待が鼓動を早くする。
『きみ新入生? こっちきてのもーよ』
顔を赤くした大学生。
あのとき感じた期待を、桐谷は思い出していた。
美しい桜の下で楽しそうに笑う彼らに、溶け込む夢を——。
「君はずっと、普通に生きたかったんでしょ?」
その匂いが桜のつぼみの匂いなのか、また別のものから香るものか彼は分からなかった。ただ、そこに、確かに期待を感じた。感じてしまった。今まで見ないようにしてきた、光を、暖かさを。