第2話 理想的な幻覚
ついにこの時がきたか。
桐谷は重い頭を枕に乗せて、ゆっくりと瞼をとじた。その間、テレビの音と、瑞希と名乗る女の声が聞こえた。桐谷は両手で耳を塞ぎ、現実を遮断した暗闇のなかで、息継ぎをするように深く呼吸をする。何度か呼吸を繰り返したあと、両手をほどき、瞼をひらいた。そこには相変わらず瑞希の姿があり、「桐谷くん?」という声が聞こえた。
「だいじょうぶ?」
桐谷は虚ろに瑞希を見上げながら、弟の姿を思い浮かべた。17歳の誕生日に、よだれかけをしながらケーキを食べている弟。プレゼントであげた少女の人形に、頬ずりをして喜ぶ姿。
――どうやら僕も、おかしくなってしまったらしい。
「幻覚じゃないよ、桐谷優太くん」
放心したように見上げる桐谷に、諭すような柔らかい声で瑞希は言った。
「ごめんね。急に現れて。でもこれが一番信用してもらえる方法なんだ」
幻覚と幻聴。
おそらくは統合失調症だろうと、桐谷は自身を診断した。
幻覚が自らを幻覚ではないと否定することは、実在することの証明にはならない。自己言及のパラドックスのような矛盾は起こらず、ただ幻覚としてそこに存在するだけだ。
「わたしは、未来から来たの」
説明している間、桐谷は身体を起こして、瑞希の顔を眺めた。
自分の脳が創りあげたわりには、なかなか綺麗な顔のつくりをしていた。新雪のように滑らかで白い肌に、それぞれの美しいパーツが丁寧に配置されている。多くの人の顔はよく見るとどこかにずれがあるものなのに、まるで微調整を繰り返した福笑いのように、彼女には違和感がない。
「この姿はただの粒子だから、実体はないんだけどね」
それはつまり特徴がない顔ともいえるが、彼女の瞳だけはそうではなかった。目つきが悪いというわけではない。むしろその逆で、透き通る水晶のように澄んでいる。ただ、大きな瞳のなかに、桐谷を突き刺すような鋭い光があった。
「ほら、触れてみてよ」
胸の付け根あたりまで伸びた黒髪は、艶やかで、毛先が軽くカールしている。目立つような派手さはないが、その整った容姿と、ある程度身なりに気を使っているところから、人生を上手くやっている側の人間だと桐谷は判断した。
僕はこういう女子がタイプなのだろうか。
桐谷は、差し出された瑞希の手を無視して、考える。幻覚に現れるのだから、その人物像は「理想」か、あるいは「恐怖」のどちらかだ。彼女の姿を見て「恐怖」は覚えなかった。ということはつまり、僕にとって理想的な女性ということだろう。
それにしても、よくできた幻覚だ。桐谷はそう考えて、目をつぶった。
「まだ幻覚だと思ってるんだ」
暗闇のなかで、テレビの声に混じった、彼女の声が聞こえた。
「きみ、現実を見る目がないね」