第13話 サルース
教会は駅近くの大通りにあった。
ファミレスやガソリンスタンドが立ち並ぶなかで、ローマ建築の教会は異質を放っていた。土色の外壁と、先からアンテナが伸びた三角屋根、幾本かの太い柱。まるで砂埃が舞いそうな階段を桐谷が登っていくと、教会の入口に久米の姿が見えた。チノパンにパーカーというラフな格好で、これから教会で宗教活動を行う人には思えない。
一方の桐谷は、黒のパンツと、白シャツ、その上にグレーのジャケットを羽織っていた。桐谷なりに、気を使った服装だった。
「あまり気を張らなくていい。そこまで堅苦しいものじゃないからな」
久米はそう言って笑った。
「会員になることを強制することはないし、ただの異文化見学だと思ってくれていい。万が一のときは俺がいるし、他の人も基本的には穏やかな信仰者だ」
桐谷の緊張は、その言葉で少し落ち着いた。過去の事件や詐欺の情報から、宗教にはあまり良いイメージはなかったが、どうやらそれらの宗教とは違うらしい。ラフな久米の服装からも、悪質な匂いはしなかった。
『信仰心と幸福度には相関関係がある』
桐谷はでかける前に瑞希に言われたことを思い出す。彼女の解説によれば、信仰や集会が孤独や迷いを癒し、健全な精神状態に近づけるのだという。
『あくまでもデータだから、人それぞれだろうけどね。見学するぶんにはいいと思うよ』
そう言って、瑞希は桐谷を送りだした。
彼女はいま何をしているのだろうと、桐谷はふいに思った。
桐谷は久米の横で、集会を見学した。
教会のなかはシンプルだった。ソファーの形をした木の長椅子が通路をあけて数列並び、その正面には果物などが置かれた祭壇と、壁にくくりつけられた十字架があった。その十字架は久米に見せてもらったペンダント同じで、十字と「X」を重ねた形に見えた。
サルース。
それが宗教団体の名前であり、同時に信仰する神の名前でもあった。十五人ほどいた信仰者たちは、一人ずつ祭壇の前で手のひらを組み祈った。その間は、ただ静寂が流れていた。祈る時間はまちまちで、久米の場合は二十秒ほど祈っていた。高い窓から差し込む光は、そのあいだじっと、パーカー姿の彼を照らした。光を受けた彼はまるで神の使者のように、神聖で美しかった。
「なにを祈ってたんだ?」
桐谷は小声できいた。
「いまを生きる全ての人の幸福、だよ」
そう言って、久米は口の端をあげた。「噓じゃないぜ」
その後も静かに、儀式のようなものが続いた。祭壇の容器にワインを注いだり、敬虔そうな信仰者が本を片手に祭壇の前で朗読したりした。朗読は、難しい言い回しが多かったが、基本的には道徳を説いていた。人から傷つけられても決して人を傷つけないこと、人の不幸を願わないこと。キリスト教に似た教えのなかで、唯一特異な内容があった。
「拭えぬ悲しみは祈りたまえ。さらば神は世界を作りかえん」
神が、世界を作りかえる。
桐谷は瑞希のことを思った。
未来から来た彼女は、ある意味では世界を作りかえようとしている。未来の僕によってこ殺された人間を、違う世界では殺させないように。
朗読が終わると、静かな教会は一転、人々の声に包まれた。信仰者たちが、隣同士で話したり、席を移動して談笑し始めた。
「雑談タイムだ」
久米と後ろの席に座っていた桐谷には、信仰者たちの様子がよく見えた。年齢層も性別もばらばらで、服装も統一されていない。まるで電車に乗り合わせた人同士が、たまたま教会に転移させられたみたいだった。
「なにを話すんだ?」
「自由さ。まあでも、悩みを話す人が多いな。日常ではなかなか話しにくいことも、ここではオープンにできる。人に寄り添うことも一つの徳になるから、悩みを邪険にする人もいない」
前の方では、二十代後半くらいの女性と還暦近くの男性が、真面目な顔で話しているのが見えた。彼らが対等に話している光景は、どこか不思議だった。
「あ、君が桐谷くん?」
眺めていると、横から声がした。
桐谷が顔を向けると、そこに若い女の子が立っていた。
「はじめまして。わたし桜井っていいます。桜井光」
「どうも」
「桜井は大学生なんだ」と久米は言った。
「そうなの。だから大学生同士、桐谷くんとも仲良くできたらなあって」
桜井は自然な動作で桐谷の横に座った。
彼女は小動物のようだった。小さな背恰好やショートカットからのぞくまん丸な瞳は、大学生よりも中高生のように、幼く純粋に見えた。
「どうだった? そんなに気難しいものじゃないでしょ?」
「そうだね。なんというか……」
咄嗟に言葉に詰まった。
なにを言えばいいか、少し考えてから桐谷は言う。
「とても穏やかだね」
「そうなの。ここの人はみんな優しいんだよ」
にっこりと笑う桜井を見て、確かに宗教も悪くはないのかもしれないと思う。
それからしばらく、三人で他愛のない話をした。桐谷にとって二人はほとんど初対面だったため、出身や大学など基本的なことをきいた。驚いたのは、久米が桐谷とは違う大学だということだった。食堂にいたのでてっきり同じ大学だと思っていたが、どうやら勧誘のために来ていたらしい。考えてみれば当然だった。自分が通う大学で、あんなことはできない。
「正希くんはね、とっても頑張ってきたんだよ。わたしの何倍も辛いことがあったのに、乗りこえてしっかり生きてる」
集会の終わりぎわに、桜井はそんなことを言った。
何倍も辛いこと、というのは桐谷には想像がつかなかった。なにがあったのか聞きたかったが、久米は自然にその話を逸らした。
「今日はありがとう」
集会が終わって、教会の前で別れるときに、久米が言った。
「桐谷のおかげで助かったよ」
「役に立てたならよかった」
「またきてよー、桐谷くん」
にこにこしながら桜井は言った。
「っていうか、またこんど三人で会わない? こういう出会いもなかなかないんだからさ」
彼女の発案で、三人は次に会う約束をした。
大きく手を振る桜井と、片手を上げる久米に頭を下げて、桐谷は駅にむかった。
歩きながら、このことを瑞希に報告しよう、と桐谷は思った。