第10話 初対面
二人の沈黙は、食堂のなかにぽっかりと浮かんでいた。無言のなか、スプーンが皿の底をつつく音や、人に聞かせるような大きな笑い声が、渦のように二人の周りを覆っている。まるで台風の目のように、二人の間には不自然な静けさだけがあった。
何かを言うべきだということを、桐谷は知っていた。なんでもいい。なにかを口にすれば、この冷たい沈黙は終わる。しかし、彼の口は、数センチも動くことはなかった。
その固い沈黙に亀裂をいれたのは、桐谷でも瑞希でもなかった。その一言が、沈黙の穴を埋めた。
「ここ、座ってもいいかな」
柔らかく低い、男の声だった。
その声はなめらかで、少しの雑音も含まれていなかった。クリアに通るその声質は、暖かでふわりとしたマフラーのように、人を安心させる。突然の声にも関わらず、桐谷たちが驚かなかったのはそのためだった。
桐谷はゆっくりと、対面に立つ男に目を向けた。そこいたのは、同い年くらいの青年だった。両手に、食堂のトレーが乗っている。
「どうぞ」
桐谷が言うと、青年は対面に座った。
正面から見た彼は、好青年という言葉がぴたりと当てはまった。ワックスで整えられた短髪、桐谷を見据える揺らぎのない瞳、安心感を与える口元の微笑み。整った容姿と大学生のわりに落ち着いた服装から、どこか大人びているように見えた
「きみ、何年生?」
320円の味噌ラーメンに箸をつけながら、青年は桐谷に向けて言った。その様子から、青年が桐谷と瑞希は赤の他人であると判断して話しかけてきたことが分かった。
「2年だけど」と桐谷は言った。
「おお、同じじゃん。学部は?」と青年はきいた。
桐谷は「経済学部」と答えながら、その状況がうまくのみ込めていなかった。どうして自分が、まともそうに見える人に話しかけられているのか、分からなかった。ちらりと横を見ると、瑞希はコップの水を眺めていた。
「頭いいんだ。やるね」
青年は麺をすすり、レンゲでスープを飲んだ。
そして改まったように、桐谷を見た。
「そういえば名前言ってなかったね。俺は、久米正希。久米って名字で呼んでくれると嬉しい。きみは?」
「桐谷」と桐谷は半ば警戒していった。
「桐谷か。いいね」
その青年——久米は、身体を前に傾けて、桐谷に顔を近づけた。
「どう? 桐谷」
もう何年も友だちでいるような言い方だった。
「最近、なにか悩んでいること、ないか」
僕は、いったい何にまきこまれているんだろう。
桐谷は久米の微笑みを眺めながら、そう思った。
落ち着くために一度、机のコップに目を落とす。そのなかで、水が小さく揺れていた。
「別に何もない」
「ならいいんだけど」
そこで久米の表情が変わった。どこか神妙な面持ちで、彼は自分の胸元を探った。
「いいか。これは桐谷にだけ見せる」
そう言ってシャツの内側から久米が取り出したのは、変わった形の十字架だった。ペンダントになっているそれを、桐谷の前に掲げる。よく見ると、十字架の後ろに棒がクロスしている。それは八つの方位を示す記号のようにも見えたし、「米」という字を細長くしたようにも見えた。
「桐谷は、世界をどこまで信じてる?」
銀の光沢を放ちながら、それはきらきらと揺れた。
「音楽家が数百年のこる美しい音階を見つけ、科学者が人類を月まで飛躍させ、政治家が何億人単位の国を運営している。……本当にそうだと思うか? たかが人間に、そこまで偉大なことができると思うか?」
もう、他の人の声は聞こえなかった。桐谷はじっと久米の目を見た。
久米の声だけが、桐谷には聞こえた。
「人間にできるはずがない。できるのは」大学の食堂で、彼はよく通る声で言った。「神だ。この世界は神によって運営され、神によって作りかえられる。国もキリスト教さえも、人間ではなく神が人のために作ったんだ。この十字架を見てごらん。その裏で優しく手を差し伸べているのが神なんだ」
確かに十字架の後ろでクロスされた棒には、中心に向かって四本の手が描かれていた。その周りには、鳥の羽のようなものが舞っている。
なるほど、と桐谷は思った。
久米は、静かにそのペンダントをシャツの内側にしまった。
「現実は全て嘘だ。人間が偉いわけじゃない。ここに人間が存在できているのは、全ては神の力だ。……なあ桐谷、きみは人間にやっかいな苦しみを押し付けられているんじゃないか。自分が生きているのは自分の力だと、驕った人間に。食堂に来たとき、すぐきみの姿が目にはいったよ。きみの表情はとても辛そうだったから」
少し表情を暗くした久米は、慈悲のこもった微笑みを浮かべた。
なるほど、と桐谷は思った。