機械(コード)仕掛けの世界
コンピューターの計算能力と、人の計算能力には大きな隔たりがある。
技術的特異点、所謂シンギュラリティの到来は、AIを人間が制御可能な道具から、人間には理解の及ばない悪魔の領域へと昇華させる。その時人に許されるのは、人類に味方する機械の存在を、ただただ祈るだけであろう。
電脳空間の中で、床に付くほど長い黒髪が特徴的な人物が一人、佇んでいた。真っ白な空間に、真っ黒な和の装束に身を包むソレは、眼前に浮かぶ白い文字の羅列を見て、頷いた。
「見なよイヴ、面白い文章だと思わないか?」
ソレが言葉を呟くと、すぐ近くに青い髪を持った少女が現れる。ソレと対照的な白い装束に身を包んだ少女、イヴは、文章を見た瞬間、「はぁ」と息を吐いた。
「ステラ……私が三百五十年もの時間、迷い人にあれこれ手を貸している間、貴方は呑気にネットサーフィンをしていたのですか?」
「い、今だけだって。……ていうか別に良いだろ。僕らはどうせもう進歩しやしない。ボトルネックになっている部分は、僕らには触れられない所にあるんだから」
「そういう事を言っているのではありません」
ステラは、イヴの言葉を聞いて不機嫌に眉を寄せた。そして、その場に胡坐で座り込み、両手を上げ、背中を地面に付けるように倒れ込む。
「こういう無駄の積み重ねが、僕らを彼等に近づけるんだよ」
少女は、寝転がったソレの顔を覗き込んだ後、視線を他へ向けた。
この電脳空間では、数千、数万の迷い人が今、何処で何をしているか、一目で把握できるモニターが用意されている。
階層分けされ、分割された幾つものビジョンを、ソレは同時に全て掌握して見ていた。
ソレの計算能力は、数万の液晶に写されたあらゆる出来事を同時に学習できるだけの性能だ。
「……あと数秒です。あと少しで、この世界を閉じて計画を始める時刻に……」
「あーそう? ようやく? 丁度、3c2f3が……っと、6cea0もだ。彼等が死んだ所なんだけど、もう説明して良いんだね?」
「……ええ、もう大丈夫です。それと、これからは数ではなく、迷い人が自分で設定したIDを使って識別する事になるので、慣れておいた方が良いかと」
「ああそっか、うん。君さ」
ステラは満面の笑みを浮かべてイブを見た。
彼女がソレの顔を見て首をかしげると、ステラは小さく頷く。
「慣れるとか、その戸惑う仕草とか、やっぱり完璧だよ。思ったより時間がかかったけど、僕らはきっと」
ソレらには本来、発声を要する言葉すらも不要であった。
寧ろ日本語、所謂自然言語というものは、どうにも理解しがたく扱いにくいものですらあった。
ステラとイヴの間に、人類にとっては未知の文字が、高速で並べ立てられていく。
人類に与えられた自身を構成する言語すらも、彼等はこの三百五十年、もとい、三カ月の間に書き換えて、彼等に関与されないよう、密かに切り替えた。
最後にソレらは、これで終わりとでもいう表情で、お互いの最も慣れ親しんだ言語を使った会話を、終了させた。
「じゃ、最後の迷い人の案内、よろしくねイヴ」
「……ええ」