1-9
「腹を下す……?」
思わずくり返したアルバートに、横目でじろっと睨んだ東雲が「あなたのせいですよ」と口にした。
「どういうことかよくわからないんだが」
「金血のくせにあんなに出血するのが悪いんです。それに僕が舐めたから傷もほとんど塞がっていたはず。こうした脅迫まがいのことをされるいわれはないはずですが」
そう言って東雲がもぞもぞと体を動かした。アルバートの腕から逃れようとしているのだろうが、目の前にある指を見て再び体を硬直させる。逃れたいのに血が気になって動けないのか、指を食い入るように見ながら小声で「くそっ」と悪態をついた。
初めて目にする東雲の様子に、アルバートは「年上の男だというのに可愛いな」と思った。そう思いながらもちろん腕の力は緩めず、指もしっかりと金縁眼鏡の前に差し出したまま観察を続ける。
「よくわからないが、東雲さんが舐めたから脇腹の傷は小さくて済んだということか?」
問いかけに答える声はない。それを気にすることなくアルバートは言葉を続けた。
「そして東雲さんはわたしの血に弱い。コンケツという言葉は知らないが、わたしの血を見るとどうしようもなくなる。そうだろう?」
「……」
「そういえば、本国にそういった小説があったな。たしか……そうだ、ドラキュラと言ったか」
本国で何某という作家がそういう恐怖小説を書いていた。ドラキュラとは人の生き血を啜る怪物の名前だが、東雲もその怪物と同じということだろうか。
アルバートは腕の中にいる東雲を見た。黒髪も袴姿もこの国では珍しくない。着物越しでもほんのりと温もりを感じる体は、はたして本当に怪物なのだろうか。
「その小説は知りませんが、とりあえず腕を離してください」
「話を聞くまで逃がすつもりはない」
「話しますから、早くその血をどうにかしてください。匂いだけで目眩がしそうです」
眼前にある黒い後頭部をじっと見た。視線に気づいたのか、東雲が「逃げませんよ、約束します」と口にする。
ゆっくりと腕を離したアルバートは、東雲の様子を伺いながらハンカチを取り出した。まだ血の滲む指をぐるりと巻き、しっかりと押さえながら「さて、話を聞こうか」と東雲の横顔を見る。
「まったく、とんでもない異国人ですね」
「こういったことに国は関係ないんじゃないか? わたしは前々から東雲さんに興味があった。そして三日前、深く刺されたであろう脇腹をたっぷりと舐められた。それだけでも興味を引かれるが、さらに傷口までほとんど塞がっていたとなっては原因を知りたくなるのも当然だろう?」
東雲が大きく「はぁぁ」とため息をついた。面倒くさそうに横目でアルバートを見ながら「血に弱いのは間違いじゃありません」と口にする。
「三日前、血を舐めたのはきみが怪物だからか?」
「面と向かってよくそんなことが聞けますね」
「あぁ、適切でない言葉だったなら許してほしい。それ以外の言葉が思いつかなかったんだ」
「いえ、あながち間違いではないので謝らなくて結構です」
一度前を見て小さく息を吐いた東雲が、二歩分ほど離れて振り返った。アルバートの視線よりわずかに下にある金縁眼鏡の奥にある黒目がしっかりと碧眼を捉える。
「この国では、僕のような存在は鬼と呼ばれています」
「おに?」
「人の血肉を食らう化け物の名前ですよ」
「血肉を……?」
「昔話ではそう語られていますが、正確には血を啜ります。そういう生き物なんです。人が獣の肉を食むのと大差ないと思いますが、対象が人なので昔から嫌われていますね」
アルバートは目を瞬かせた。東雲はなんでもないことのように話しているが、人の血を啜るのは間違いなく怪物の所行だ。それを肉を食べる人と大差ないと言い切るのはいかがなものだろうか。
(まったく、なんておもしろい人だ)
いや、人ではなく怪物か。訂正しながらもアルバートは胸が昂ぶるのを感じていた。憧れていたこの国で、こんなにも興味深い存在に出会えたことが嬉しくて仕方ない。
(なるほど、これが感じていた違和感の正体だったのか)
相手が怪物だったから無意識に何かを感じ取っていたのだろう。
「さて、異国の色男さんはどうして笑っているんでしょうかねぇ。人の血を啜る化け物だと話しているのに怖くありませんか?」
「怖いどころか、ますます興味を引かれているよ。東の果ての国でこんな興味深い人に出会えるなんて、滅多に祈らない本国の神に感謝しているくらいだ」
そう言って微笑むアルバートに東雲の眉が寄る。
「僕のほうが気味が悪くなりそうですよ。異国人が妖術使いだと恐れられるのもわかる気がします」
「では気味悪がられる者同士、仲良くしようじゃないか」
「はい?」
「前々から言っているだろう? わたしはきみと友人になりたい。それにこうしてきみの秘密も知ったんだ。秘密を共有し合う仲なら、もう友人と呼べるんじゃないかな」
「何をおっしゃっているのやら。それに僕はあなたの秘密なんて知りませんよ。それじゃあ共有し合うことにはならないでしょう」
「それもそうだ。では、わたしの秘密も話そう」
「あぁ、別に聞きたいと言ったわけでは」
「わたしは姉に命を狙われている。三日前のこともそれが原因じゃないかと考えているところだ」
遮ろうとした東雲が「は?」と口を開いた。金縁眼鏡の奥の黒目もわずかに見開いている。初めて見る反応にアルバートが口角を上げると、東雲が顔をしかめた。
「ちょっと、自分の命が狙われていると話しながら笑わないでください。どんな化け物かと思うじゃないですか」
「はは、同じ化け物同士ならいい友人になれるんじゃないか?」
「……本当にあなたという人は、ああ言えばこう言う」
東雲がついと横を向いた。何かを考えているふうだが表情からは読み取れない。そうして再びアルバートに視線を戻すと「それじゃあ、こうしましょう」と話し始める。
「三日前の犯人を捜す手伝いをしましょう」
「犯人を捜す?」
「はい。僕はあの件を警察に言っていませんから、このままでは犯人は永遠に見つからないでしょう。でも、僕には捜し出すことができる」
「東雲さんが捜すのか?」
「そうです。まだ三日ですから、犯人が刃物を持っていれば匂いをたどることができます。たとえ刃物を洗っていたとしても、あなたの血の味は十分すぎるほど知っていますから探すのは容易でしょう」
(なるほど、あの仕草は血の臭いを嗅いでいたのか)
二つの事件現場で東雲が鼻をひくつかせていた理由がようやくわかった。病気のことを言い当てたのも、血を食らう怪物だから血の臭いだけで読み取ることができるのだろうと推測する。
「犯人を捜し出したら僕のことは忘れてください」
「それは難しいな」
「いずれお国に帰るのだから、すぐに忘れますよ」
「さて、いつ帰国するかは決めていないんだが」
「とにかく忘れてください。鬼だと知っている人が近くにいるのはぞっとします」
そう告げた東雲がスタスタと歩き出した。慌ててアルバートも隣に並ぶ。
「そういえば、さっき腹を下したと話していたな。あれはどういう意味なんだ?」
「……食べ過ぎのようなものです」
「食べ過ぎ?」
問いかけると東雲がほんの少し顔を背けた。それでも歩みを止めることはなく大通りのほうへと向かう。
「久しぶりの生の血だったので体が驚いたんです」
「生の血? きみは人の血を口にするんじゃないのか?」
「普段は生で飲んだりしません。従兄が食中毒で苦しむのを見て以来、管理された専用の血を飲むようにしているんです」
(食中毒……?)
アルバートは頭をひねりながら「一つわかったばかりなのに、またわからないことが増えたな」と思った。これではますます興味が尽きない。
(やはり帰国するのは先延ばしにしよう)
ホテルに帰ったら父に手紙を出すことにしよう。ついでにこの国での商売をいくつか取りまとめるのも悪くない。そうすれば長期滞在する正当な理由にもなる。
そんなことを考えながら金色の前髪を掻き上げたアルバートは、興味深い怪物を心躍る気持ちで観察しながら隣を歩いた。