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路上で何者かに襲われた三日後、アルバートはようやくホテルの外に出ることができた。本当は翌日すぐにでも東雲に会いに行くつもりだったのだが、従者としての役割をきっちりこなすトムに妨害され今日まで部屋から出ることすらできなかった。
(まったく、トムは心配性すぎる)
そう思いながらもアルバートはトムに感謝していた。
二人が出会ったのは、アルバートが子爵家に引き取られた三年後だった。一歳年下のトーマス・ブラウンは初対面のときから物怖じしない性格で、気がつけば二人は友と呼び合う仲になっていた。
(トムのおかげで毒を口にすることもなくなった)
社交界に連れて行かれるようになってからというもの、アルバートは何度か食事に毒を盛られることがあった。よく腹を下すなと思ってはいたが、当時それが毒によるものだとは考えもしなかった。
体調不良の原因が毒だとわかったのはトムが従者になってからだ。食事を部屋で取るように進言したトムは、同時になぜか観賞魚を飼うことを勧めてきた。よくわからないまま十数匹の小さな観賞魚たちを用意すると、食事のたびにその観賞魚を一匹ずつ小さな水槽に移して料理を小さじ分ほど落とす。それを見たアルバートは「なるほど、魚は毒味役だったのか」ということに気がついた。
(銀の食器を使っていたというのに、ほとんど役に立っていなかったというわけだ)
それだけ時代は変わったということなのだろう。だからこそトムは銀食器に変わる方法を考えた。
トムは父親が知り合いの息子だと言って連れて来た子どもだった。彼の父親は有名な医者で、トム自身も兄二人とともに医学の道を志していたらしい。そういう環境で育ったから多少の知識はあったのだろうが、十二歳の子どもが最初から毒のことに気づくとは思えない。おそらく不在がちな父親の入れ知恵だったに違いない。
(わたしを守ろうとしてくれた父には感謝している。だからといってストリング家もへスティング子爵の爵位も継ぐ気にはなれないが)
その後もトムはアルバートの従者をしながら医学の勉強を続けてきた。それを勧めたのはアルバートだ。医者にはならなかったものの不測の事態が起きてもトムがいれば心強い。おかげで盛られた毒に気づかず口にしても大事には至らなくなった。
『あんたといると、おもしろいことばかりだ』
十八歳になった夜、トムにそう言われたことを思い出した。窮屈で心が安まらない貴族生活を送るなか、アルバートにとってそんなことをあっけらかんと言う彼だけが気の置けない存在だった。
そんなトムのことを日本人の祖母も気に入っていた。二人で別荘に押しかけ、日本語や日本の文化をたくさん教えてもらったのはよい思い出になっている。そして今回、念願叶って一緒にこの国に来ることができた。
(そんな旅先でも安心はできないということか)
アルバートを刺したのが何者かはわかっていない。もし姉の仕業だとすれば警察沙汰になるのは困る。そう思って通報しなかったため犯人を特定することは難しいだろう。
(犯人がわからなくても姉上の仕業と考えるべきだろうな)
トムもそうじゃないかと疑っていた。本国では毒を盛るだけだったが、さすがに遠い異国の地で毒を盛るのは難しいと考えたのだろう。それならと、この国の誰かを刺客として雇っても不思議ではなかった。
「やれやれ。やはりストリング家を出る方法を考えなくてはいけないか」
思わずそんな愚痴をつぶやきながら、アルバートは東雲が行きつけにしている骨董店に向かっていた。
先に古書店を覗いてみたが姿がなかった。それなら近くにある骨董店のほうだろうと足を向けたが予想は当たったらしい。ちょうど店から出てきた東雲とばったり出くわした。
「あなた、やっぱりつけ回しているじゃないですか」
呆れたような表情はいつもどおりだ。むしろ三日前の出来事を忘れたかのような態度にアルバートは違和感を覚えた。
(触れられたくないということか)
しかし今度こそ逃がすわけにはいかない。傷を貪られた自分には不可解なあの行動の理由を知る権利があるはずだ。そう思い、スタスタと歩き出した東雲の隣にアルバートも続いた。
「こんなおじさんを追いかけ回して、いい加減飽きませんか?」
「飽きないと言ったはずだが」
「つけ回しても、そうそう事件に出くわしたりはしませんよ」
「三日前には出くわしただろう?」
東雲の歩みが止まることはない。横顔を見る限り表情も変わらないままだ。アルバートは「攻め方を変えるか」と考えた。人気のない小径に入ったところで東雲に体を寄せ、内緒話をするように小声で話しかける。
「わたしの血はそれほど魅力的だったか?」
東雲の足がぴたりと止まった。少ししてから金縁眼鏡がちろっとアルバートを見る。
「何がおっしゃりたいんでしょう」
「あれだけ熱心に肌を舐られたのだから、感想を聞きたいと思ってね」
「誤解を招くような言い方はよしてください。そんな表現どこで覚えたんですか」
「東雲さんが官能小説を書いていると教えてくれたから、後学のためにいくつか読んでみたんだ。だが、どれもきみが書いた小説とはまったく違っていたよ」
「文字を読むのは苦手だったのでは?」
「もちろん手こずった。だが、おかげでこの国の豊かな表現方法をいろいろ知ることができた」
ふいと前を向いた東雲が再びスタスタと歩き出した。このまま巻くつもりなのだろう。そうはさせないとアルバートが手首を掴む。そうして捩るように背中に回して東雲の動きを封じた。
「やけに乱暴じゃないですか」
「東雲さんが想像以上に力持ちだとわかったからね」
「……なるほど」
捩っていたはずの腕ごとアルバートの体が揺れた。まるで子どもを払いのけようとするような動きを止めるべく、今度は背後からしっかりと抱きつく。そうして自分の右手人差し指に唇を寄せると、ガリッと皮膚を噛み切り出血する指を東雲の眼前に突き出した。
「っ」
思ったとおりだとアルバートはほくそ笑んだ。どうやら東雲は血に弱いらしい。どういう表情をしているかは見えないが、喉がごくりと小さく鳴る音が聞こえたことでそう判断した。
(これは弱いというより夢中と言ったほうが正しいか)
ツプツプと血が滲む指を東雲の眼前に晒しながら、黒髪から覗く耳に口を寄せた。
「あのとき、きみは脇腹の傷を舐めた。まるで獣のように夢中になってだ。そうしてホテルまで送ってくれた。あぁ、送ってくれたことは感謝している」
アルバートの言葉が聞こえていないのか東雲に反応はない。
「しかし驚いたな。あれほど熱心に血を舐める人間がいるとは知らなかった。いや、あれは舐めるというより貪ると言ったほうが正しい。東雲さん、きみは一体何者なんだ?」
背後から抱きつく形で動きを封じていた東雲の体が初めてぴくりと反応した。それでも東雲の視線は血の滲む指から離れようとしない。あのときの力を持ってすればアルバートを振り払うことなど造作もないだろうに、そういった様子もなかった。
「きみは何者だ? 教えてくれるのなら、この指をしゃぶってくれてもかまわないが?」
東雲の喉が再びごくりと鳴る。アルバートは「落ちたな」と思った。なぜそこまでこの血に夢中なのかはわからないが、これで興味深いことの根本を知ることができるに違いない。そう思うと腹の底からワクワクするような気持ちになった。
(さて、どんな話が出てくるかな)
そう思い「東雲さん」と声をかけたときだった。
「また腹を下したらどうしてくれるんです」
「……何だって?」
予想外の言葉に、アルバートは碧眼をぱちくりとさせた。




