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1-7

 アルバートの前には美しい庭が広がっていた。たくさんの草花が生えているこのイングリッシュガーデンは、日本人の祖母が少しずつ手を入れてきたものだと聞いている。その祖母も、祖父が亡くなってからはこの屋敷を訪れることはない。祖父の療養で共に移り住んだ郊外の別荘に留まったままだ。


(そうしたい気持ちはよくわかる。祖父の後妻だったグランマにとって、ここはあまり居心地がよくないだろうからな)


 かく言うアルバートにとってもそうだ。この屋敷で血が繋がっているのは父親だけで、その父親も普段は仕事のため首都にいることが多く屋敷にほとんどいない。屋敷で生活しているのは正妻の義母とその娘だが、二人は愛人の子である自分をひどく嫌っていた。


(まぁ、愛人の子が子爵家の嫡男に収まっているわけだから嫌われるには十分すぎるか)


 その原因を作ったのはほかでもない父親だ。男系男子のみ家を継ぐことが許されているこの国で、義母には男子が生まれなかった。だからか、十歳のときに母親を亡くしたアルバートが父親を頼って屋敷を訪れると、父親はすぐさま嫡男として迎え入れた。


(生きるための何かしらがもらえれば、それでよかっただけなのに)


 具体的に言うなら金銭が手に入ればよかった。金の無心のために屋敷に行ったのに、その日のうちに貴族の仲間入りをすることになってしまった。半年後にはアルバート・ストリングという名前になり、ストリング家へスティング子爵の跡取りとして社交界に連れて行かれることになった。

 アルバートは、いまでもあのとき逃げ出さなかったことを後悔している。逃げ出してさえいれば、二歳上の姉に命を狙われるようなことにはならなかっただろう。疎まれたとしても憎まれることにはならなかったに違いない。

 ふと、目の前のティーカップに視線が向いた。紅茶にしては花のような香りがする。「ハーブを入れた紅茶なんて珍しいな」と思ったところで「おや?」と気がついた。


(この香り、最近どこかで嗅いだような)


 クンと鼻を鳴らし記憶をたどる。


(……そうだ、これはガーデンカフェで嗅いだ香りだ)


 アルバートの鼻を甘いジャスミンの香りが抜けていった。すると赤みがかった紅茶が段々と透明に変わり始める。いや、うっすらとした黄色だろうか。


(そういえば誰かがジャスミンティーの話をしていたような……)


 たしか、毒草が混じっていると話していた気がする。香りは似ているが、その毒草はジャスミンではないらしい。それを香りだけで判別したのは、黒髪に金縁眼鏡の――。


「……っ」


 ハッと目が覚めた。目に映ったのはすっかり見慣れたホテルの天井だった。おかしな夢を見たなと思いながら起き上がろうとしたアルバートは、手足にうまく力が入らないことに気がついた。


「どういうことだ?」


 思わずつぶやいたところでドアが開いた。現れたのは茶髪に緑眼のトムだ。


「あぁ、よかった。目が覚めたんだな」

「よかった……?」

「その顔は状況がよくわかってないって感じか」

「状況?」

「おまえ、脇腹を刺されたんだよ」


 トムの言葉にアルバートは顔をしかめた。しばらく考え込み、「そういえば東雲さんと話していたときに刺されたな」ということを思い出す。同時に不可解な東雲の行動も思い出した。


「刺されたと言っても大したことなかったみたいだから安心したよ」

「大したことなかった……?」

「派手に血が付いたシャツを見たときは驚いたけどな。傷を見た医者も縫う必要はないって言ってたし、俺が見た限りでも大丈夫そうだから安心しろ」


「あ、でも今日はシャワーは駄目だからな」と念を押しながら、トムがベッド脇にある小さなテーブルにグラスと水差しを置いた。いつもと変わらない表情をしているということは、本当に大した傷ではないと思っているのだろう。


(そんな馬鹿な)


 アルバートの眉が寄る。刺された直後、たしかに大量に出血していた。激痛から浅い傷ではないことも予想できた。これまで毒殺を企ててきた姉が、いよいよ本腰を入れて命を狙ってきたのだと思ったほどだ。


(あれは姉上の刺客じゃなかったのか?)


 何度か瞬きをし、ゆっくりと体を起こす。ベッドについた右手が少し痺れているような感覚のあと頭も少しだけふらついた。


(これは血が足りなくなっているせいじゃないのか……?)


 貧血になったことはないが、たしかこういう症状が出ると聞いたことがある。それほど出血したのに「大した傷じゃない」というのはどういうことだろうか。


(それに東雲さんは傷を舐めていた)


 朦朧としていたものの、そのことははっきりと覚えている。アルバートの脳裏にあのときの東雲の姿が蘇った。

 まるで獣のようにしゃがみ込み、むしゃぶりつくように血を舐めていた。傷を抉るような舌の動きも、そのとき感じた痛みも夢ではない。それなのに縫う必要がないほど浅い傷だったとはどうしても思えなかった。


「トム、わたしはどうやってホテルに戻ってきたんだ?」

「あぁ、あの東雲って人が連れて来てくれたんだよ」

「東雲さんが?」

「おまえより細く見えるのに案外力持ちなんだな。肩を貸してって形だったみたいだけど、ほとんど歩けなかったおまえをホテルまで運んで来たんだから俺より力も体力もあるってことだろ」


「あ、起き上がれるなら着替え、そこに用意してあるからな」と言ってトムが部屋を出て行った。ベッドの近くにあるソファの背に新しいシャツやズボンが掛けてある。


(……そういえば)


 ゆっくりと体を動かしたアルバートは、ベッドに腰掛けるように両足を床に下ろした。そうして皺の寄ったズボンをなんとか脱いでいく。


「……これは血痕だな」


 腰にはぐるりと包帯が巻かれていた。シャツは脱がされていたが、ズボンの右側部分には血が染みこんでいる。それを見ても「大した傷じゃない」とは言えない状態に顔をしかめた。ぼんやりとしか覚えていないが、あのとき東雲がたくし上げたシャツは右側が真っ赤に染まっていた。あれを見たからこそトムは驚き、すぐに医者を呼んだのだろう。


(ついでにこちらも本当だったということか)


 視線を下ろした先には下着があった。股間あたりに不自然な感触がするということは、濡れた感覚も勘違いではなかったということだ。

 両足で踏ん張るように立ち上がったアルバートは、トムが出て行ったのとは別のドアに近づいた。先ほど「シャワーは駄目だからな」と言われたものの、このままでは気持ちが悪くて着替える気にもならない。


(シャワー付きの部屋にしておいてよかった)


 この国ではまだ珍しいシャワー浴室付きの部屋ということで滞在費が跳ね上がってしまったが、選択は間違っていなかった。

 汚れたズボンと脱いだ下着、それにゆっくりと解いた包帯を籠に入れてシャワーを出す。仰々しく貼り付けられたガーゼを濡らさないように気をつけながら、アルバートは上半身以外を湯で洗い流した。最後に濡らしたタオルで上半身を丁寧に拭う。


(話を聞く必要があるな)


 バスローブを羽織りながら東雲の顔を思い浮かべた。浴室を出てからベッド脇に向かい、グラスに水を注いで一気に飲み干す。そうして窓の外に視線を向けると、開け放たれた窓からは幾分か涼しくなった風が入ってきた。


(東雲さんに会ったのは午前中だった。日が傾いている程度ということはそれほどは寝ていないということか)


 そう考えると、たしかに傷は浅かったのかもしれない。だが、刺されたときはそうではなかった。アルバートはバスローブの上からガーゼに覆われた脇腹を撫で、東雲の行動を思い返した。

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