3-8
鶴のやを出たアルバートと東雲は、いつもどおり二人並んで歩いていた。店の前の小径を横切り寺院に続く大通りへと足を進める。そのまま大通りをスタスタと歩いていた東雲が馴染みの骨董店に続く小径へと入った。
「やはり骨董店に行くのか?」
質問には答えず歩みが止まることもない。そんな東雲にひょいと片眉を上げたアルバートは「すっかり元通りだな」と思いながら言葉を続けた。
「しかし、まさか全員の料理に毒を仕込むとは思わなかった。念のため解毒薬を持っては来たが、使わずに済んでよかったと思っている」
「こういうのも色男さんの宿命では?」
ちらりともアルバートを見ることなく東雲がそんなことを口にする。
「色恋の経験はたくさんあるが、そのことで毒を盛られたことはないな」
「そりゃようございましたね」
素っ気ない返事に眉をひょいと上げながら東雲の横顔を見た。以前と同じような無機質な表情に戻っている。毒を口にしても体調を崩さなかったのは幸いだが、せっかく近づきつつあった距離がまた離れてしまったようでなんとも寂しい。
(まるで難攻不落の貴族令嬢のようだ)
我ながらおかしな例えだなと苦笑しながら会話を続ける。
「それにしても、毒草を兎に食べさせてその肉で人を殺そうとする方法があるとは知らなかった」
「オオカミナスビは鳥や鹿が食べても死にません。兎を使ったのは、あのご令嬢の屋敷で兎を飼っていたからでしょう」
「食用の兎が身近にいたなら、たしかにその方法を考えたとしてもおかしくはない。懇意にしている店なら過去にも肉を持ち込んだことがあっただろうし、不自然に思われなかっただろう。しかし店に迷惑がかかるとは考えなかったんだろうか」
疑問に思っていたことを口にすると、東雲が「それだけ覚悟を決めていたということでしょうね」と答えた。
「覚悟?」
「わざわざ兎の肉の話をしたのも覚悟を決めるためだったんでしょう。話をして疑われればそれまで、疑うことなく口にしたなら天啓とでも思っていたのかもしれません。だからこその着物姿だった、とも考えられます」
「そういえば着物姿は初めて見たな」
「洋装に慣れている様子だったのに、あえて着物を着てきたというのもお嬢さんなりの覚悟の表れだったのでしょうね。男の褌に袴と同じ心持ちだったのかもしれませんよ」
なるほど、侍と同じということか。祖母にねだって話してもらった侍の物語を思い出し、相当な覚悟だったのだろうかと綾子の着物姿を思い返した。
「そこまでの覚悟でわたしたちに毒を盛ったということか。まるで心中のようだな」
「そんな言葉まで知っているとは本当に変わった異国人ですね」
「やれやれ」と呆れ顔の東雲が、ちろっとアルバートに視線を寄越した。
「時に人は強烈な感情から思いもよらない行動に出ることがあります。理路整然な一面と支離滅裂な一面が混じり合うこともある。今回のお嬢さんもそんな状態だったのでしょう。人というのは昔からゾッとするようなことをしますから、いまさら驚きはしませんが」
「それに異国にもそういった話はたんとあるでしょう?」と言われ、アルバートは「たしかに」と頷いた。人が起こすゾッとするような事件は本国や周囲の国々でも珍しくない。毒を使った歴史上の事件などは一般人も知るところだ。
毒による暗殺は古代エジプトやローマ帝国の時代からあった。だからかヘンリー六世もルイ十四世も毒を恐れていた。女王陛下を暗殺しようとした事件は、それに着想を得たとある劇作家が一部を物語の中にしたためてもいる。ちなみに事件後、女王が予防のため週に一度解毒薬を服用するようになったのは有名な話だ。
(思っていた以上に世界は毒であふれている)
おかげで自分も危ない目に何度も遭ってきた。「たしかに人はゾッとする行為をくり返しているな」と、呆れるより感心したくなる。
「それにしても東雲さんが毒まで治せるとは思わなかった」
アルバートの言葉に反応はない。そのままスタスタと向かう先は間違いなくあの骨董店だろう。「やはり血を買うつもりなのか」と思いながら隣を見た。
(もしかして……)
ふと思い浮かんだことにハッとした。
「毒を治すのにも血が必要なのか?」
「……」
「だから骨董店に向かっている。違うか?」
「……」
「東雲さん」
グイッと肩を掴んだ。振りほどかれることはなかったが、東雲がアルバートを見ることもない。
「血がほしいのならわたしに言えばいいだろう」
「何をおっしゃっているのやら」
「わたしを頼ってくれと言ったはずだ」
「あのときの恩は今回の件で返しました。これ以上恩を売ってどうしようというのです?」
「恩を売りたいわけじゃない。ただ友人の役に立ちたいと思っているだけだ」
東雲が立ち止まった。やや顔を伏せているから表情を窺うことはできない。もしかして怒ったのだろうかと様子を見ていると「本当にこの阿呆は……」とつぶやく声が聞こえてきた。
「東雲さん?」
名前を呼ぶと、肩を掴んでいた右手を掴み返された。そのまま手首を引っ張るように歩き出す。
理由はわからないが、どこかに連れて行こうとしているらしい。そう判断したアルバートは引きずられるまま歩いた。見慣れた通りを抜け、初めて通る小径や家々の間を縫うように歩く。そうしてたどり着いたのは東雲が刺されたときに休んだあの寺院だった。
「全部あなたのせいですよ」
「どういうことだ?」
聞き返すと、手首を掴む東雲の手にグッと力が入った。
「あなたの血を僕は三度も口にしてしまった。金血の血を三度もだ。おかげで若彦の店の血を口にできなくなった。無理やり飲もうとしてもうまく喉を通らない。そのせいで僕はずっと貧血の空腹状態だ」
「それならわたしの血を飲めばいい」
「……あなたという人は」
「あなたではなくアルだ」
建物の影に入ったところで東雲がくるりと振り返った。「とんでもない異国人だな」とつぶやき小さく舌打ちする。
「東雲さん……っと、」
腕を強く引き寄せられ足がもつれた。慌てて踏ん張ったが、そんなアルバートの様子を気にすることなく東雲はスーツごと袖をめくり上げようとしている。
「東雲さん?」
問いかけても金縁眼鏡は袖に注がれたままだ。何度もめくり上げようとしているが、カフリンクスが引っかかりうまくめくれないのだろう。それでも無理に動かしたからか、チェーンが引っ張られバッキングがアルバートの肌を傷つけた。
顔をしかめながら手を見ると、手首にスッと一筋の血が滲んでいる。
「全部あなたのせいだ」
「しのの、……っ」
血が滲む場所ごと手首に噛みつかれた。がぶりと歯を立てられた痛みで一瞬息が詰まる。それでもアルバートが手を引くことはなく、東雲も口を離そうとはしなかった。
ちゅる、じゅる、と啜る音が聞こえてきた。その音を聞きながらアルバートは東雲の顔をじっと観察していた。
(やはり美しいな)
手の甲を舐められたときより数段美しく見える。東雲が刺されたときより妖艶さが足りないのは残念だが、美しい化け物の姿に視線が釘付けになった。
やけに熱心に見つめるアルバートに気づいたのか、東雲がちろっと視線を向けた。金縁眼鏡の奥にある目はすでにとろんと蕩け、チュルっと啜る口元まで艶やかさを漂わせている。
(いや、いまでも十分色っぽいか)
一度唇を離した東雲が、傷口を労るように赤い舌で肌を舐めた。それだけでアルバートの腰がズクンと疼く。
(東雲さんとはよい友人になりたいと思っているだけなんだが……)
しかし体はそう捉えてはいないようだった。これも東雲が話していた化け物の力のせいだろうか。その割には東雲の仕草や姿を目にするだけで腹の奥がクッと締まる気がする。この感覚はどう考えても欲情しているとしか思えない。
(欲情させる力を持つ化け物か……それはそれで興味深い)
アルバートには貴族らしい倫理観や教会での教えに迎合する気持ちが薄かった。家への反発も理由だろうが、好奇心に抗えないのが最大の要因だろう。いまのアルバートは東雲への興味で占められ、この化け物をもっと知りたいという欲望ばかりが強くなっていく。
「東雲さん」
「……相変わらずなんて血だ」
「それは褒め言葉か?」
「うるさい」
すっかり敬語も消えてしまっている。聞き慣れない乱暴な言葉遣いがなぜかアルバートの興奮を煽った。肌をぺろりと舐め、再びかぷりと噛みつく東雲の仕草が愛らしく思えて仕方がない。
血を啜る音を聞きながら、東雲の白い頬を左手の指先で撫でた。啜りながらうっとりと細めている目元は、気のせいでなければ赤く染まっているように見える。
(もしかして東雲さんも興奮しているんだろうか)
食事は鬼にとって一番の欲だと言っていた。そして前回、東雲は血を啜りながら股間を熱くしていた。
(今回も同じだとしたら……)
興奮と呼ぶには強すぎる何かがアルバートの背中を駆け上がった。ますます体がカッと熱くなり落ち着かない気分になる。
「東雲さん」
頬を撫でていた指先で唇の端に触れた。少し力を入れると唇の奥にある歯に当たったのかコツンとした感触が指先に伝わる。この歯に噛まれているのか……そう思っただけで異様なまでの興奮に目眩がした。
ゾクッと這い上がる快感に身を委ねながら「東雲さん」と名前を呼んだ。そうして指を顎に這わせたときだった。
「まさか噂どおりだったなんてなぁ」
シャボンの玉が割れたように意識が鮮明になった。慌てて振り返ると、そこにはシャツに袴姿の若い男の姿があった。




