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この日、アルバートは朝から機嫌がよくなかった。起き抜けにトムから「今夜は金森邸でパーティだそうだ」と聞かされ眉を寄せたのが不機嫌の始まりだった。連日のように華族と呼ばれる貴族たちの招待状が届く現状にうんざりした表情を浮かべる。部屋を出る直前に重濱卿が主催する三日後のパーティの招待状も届いていると聞かされ、さらに気分を急降下させた。
うんざりしながら朝食を食べたアルバートだったが、直後さらに不機嫌になる出来事に遭遇した。ホテルを出ようとしたところで嘉村という華族に声をかけられたのだ。口ひげを生やした中年男の隣には着飾った若い女性が立っている。
(またか)
内心そう思いながらも、十二歳のときから叩き込まれてきた外面のよさでそつなく相手をした。それがよくなかったのか、嘉村は「ぜひ娘とお茶を」と強引に話を進めてきた。
(異国人を畏れているのかそうじゃないのか、さっぱりわからない国だな)
大方は得体の知れないものを見るような目つきで見てくる。嘉村の娘と放り込まれたカフェでも、そういった視線を痛いほど感じた。ところが目の前の娘は頬を赤らめながら熱心にアルバートを見つめていた。
(これで何人目だ?)
日本に来て一カ月ほどが経つが、華族が開くパーティに参加するようになって娘を引き合わせたいという声をやたら聞くようになった。遠い異国の由緒ある子爵家を継ぐであろう二十五歳の異国人に、この国の華族までもが目の色を変えている。
(グランマが「日本は異国の権威が大好きなのよ」と話していたが、本当だったということだ)
訳もなく畏れる人々と夢中になってすり寄ってくる人々という両極端な国民性にため息が漏れた。そんなアルバートの様子にも娘は怯むことなく視線を外すこともない。
「ええと、それでお嬢さん」
「わたくしのことは綾子とお呼びください」
内心面倒だなと思いながらも条件反射でにこやかに微笑んだ。「さて、どうやってこの場を逃れようか」と考えながらコーヒーカップを手にしたところで、窓の外に見知った人影が通りすぎるのが目に入った。
「あれは……」
アルバートは慌てて席を立った。
「アルバート様?」
「支払いはわたしの名前と滞在先のホテル名を伝えてくれればいい」
まだ名前を呼ぶ娘を振り返ることなくカフェを出た。「こっちか」と当たりをつけ大股で角を曲がると、背中で黒髪を一つ結びにした袴姿の男が見えた。
「シノノメさん」
声をかけたが男は立ち止まらない。もう一度、今度は少し大きな声で「シノノメさん」と叫ぶと、ようやく足を止めた。そうして振り返った顔は間違いなくあのときの男だった。
「やはりシノノメさんだ」
「あぁ、あなたでしたか」
東雲の言葉にアルバートが微笑みかけながら近づいた。
「また会いたいと思っていたんだ」
「僕にですか?」
頷きながら「どこかカフェにでも?」と誘うアルバートに、東雲は「いえ、結構です」と即座に断る。
「では、歩きながら話そう」
「僕と?」
「そう、きみと」
「最近の異国人は変わっていらっしゃる。こんなおじさんと何を話したいんだか」
「おじさん?」
驚いたアルバートはじっくりと東雲の顔を見た。それから何度か往復するように全身に視線を這わせる。
「ジロジロ見られるのは好きじゃないんですがねぇ」
「あぁ、失敬。きみがおじさんなんておもしろい冗談を言うから、つい」
「間違っちゃいませんよ。僕ももう三十六、立派なおじさんです」
「……なんだって?」
「立派なおじさんだと言ったんですよ」
「いや、その前だ」
「三十六ですか?」
碧眼を少し見開いて「まさか」と言葉を漏らした。思わず立ち止まった異国人を尻目に東雲はてくてくと歩き始める。それにハッと気づいたアルバートが慌てて走り寄り隣に並んだ。
「まさか、わたしより十以上も年上だったとは……。この国の人たちは、なぜこんなに若く見えるんだ?」
「色男さんは二十代ですか。そりゃまたお若い」
「二十五だ。シノノメさんも同じくらいか、せいぜい二、三歳上ぐらいだと思っていたんだが」
「よしてください。僕は三十を疾うに過ぎた、ただのおじさんですよ」
そう言った東雲がひょいと角を曲がった。このままでは逃げられると思ったアルバートが肩を掴み「待て」と声をかける。
「なんです? 僕と話したところでおもしろいことなんてちっともないでしょうに」
「いや、ますます興味がわいた」
「そういえば、この前もそんなことをおっしゃっていましたね。あぁ、あの事件のことでしたら後日談はありませんから聞いても無駄ですよ。毒草が何だったのか知りたいのなら直接警察に尋ねてください」
「わたしが興味を持っているのは、きみのほうだ」
その言葉に歩き出そうとしていた東雲の足が止まった。ほんのわずか背の高いアルバートをちろりと見上げているが、金縁眼鏡の奥にある黒目には何の感情も浮かんでいない。
「そう、その目だ。この国に来て、そんな何の感情もない眼差しでわたしを見る人には初めて出会った」
「そりゃ失礼しました。あなたほどの色男でしたら、老若男女問わず色っぽい目で見られるでしょうからね」
「そういう意味で言ったんじゃない。この国の人は金髪碧眼を畏れるような目で見る。もしくはご機嫌伺いをするような眼差しだ。それなのに、きみはそのどちらでもない。いや、まるで物を見るような目でわたしを見る」
「そういうつもりじゃないんですが、気に障ったのなら謝りますよ」
「だからこそ興味を引かれた」
アルバートの言葉に東雲が「は?」と首を傾げた。
「何の感情も感じない視線だから興味を引かれたと言ったんだ。あぁ、わたしを見るときだけじゃない。あのカフェで、明らかに絶命していたレディを見る目も同じだったな」
一瞬だけ金縁眼鏡の奥の目が細くなる。「おや」とアルバートは思ったものの、黒目はすぐに何の感情も読み取れない眼差しに戻った。
「やれやれ、異国の色男さんは変わった趣味をお持ちのようで」
「変わった趣味?」
「こんなおじさんを口説いたところで楽しいことは何もないでしょうに」
「なるほど、わたしの言葉は口説いているように聞こえるのか」
「そう聞こえますねぇ。若いお嬢さんなら喜んで話し相手になってくれると思いますよ。いや、異国に憧れる青年だってイチコロでしょうかねぇ」
肩を掴む手を解いた東雲がスタスタと歩き出した。それを追いかけながら「なるほど、口説くか」とつぶやいたアルバートが小さく笑う。
「これまで男を口説いたことはないが、きみはおもしろいな」
「気に障ったのならすみませんね」
「眼差しも妙な知識も、それに腹の底が見えない表情や言葉もおもしろい。ますます興味を引かれる」
「そりゃまた難儀な性格で」
「シノノメさん、ぜひ友人になってほしい」
「……はい?」
一瞬の間があったものの東雲の足が止まることはない。相変わらずてくてく歩く隣をアルバートも寄り添うように歩き続ける。
「年は離れているが、わたしたちはきっとよい友人になれる」
「いやいや、何をおっしゃっているのやら」
「もしかしてこの口調が気に入らないのか? そうか、年上に対しては失礼だったか。この国に目上に対する言葉遣いがいろいろあることは知っているが、まだ使いこなせないんだ」
「まぁ、異国のお人が尊敬語だの謙譲語だの使うのは大変でしょうからね」
「では、口調はこのままでいいか?」
「別に言葉遣いの話はしてませんがねぇ」
歩いている東雲の口から「はぁ」と大きなため息が漏れた。わざとらしいため息はアルバートの耳にも届いているが、聞こえないふりをしながら隣を歩き続ける。
「僕には異国の色男さんを友人に持ちたいというような変わった趣味はありませんよ」
そう告げた東雲は、くるりと踵を返すと角を曲がった。アルバートが慌てて追いかけると、そこは表通りとはまったく違う雰囲気が漂う奇妙な通りだった。
午前中という爽やかな時間のはずなのに、どうにも気だるい雰囲気を感じるのは気のせいだろうか。そう思っている間にも東雲は歩みを緩めない。「逃してなるものか」と周囲に視線を巡らせながらついていくアルバートに「あら、いい男!」という女性の声が頭上から聞こえてきた。
「こりゃまたべっぴんの異国人だね」
「やだ姐さん、男にべっぴんなんて失礼よ」
「でも惚れ惚れするようなお顔じゃないか」
「ほんとだ。異国人は怖いもんだとばかり思ってたけど、こんな色男なら一晩お願いしたいくらいだねぇ」
窓から次々と女性たちが顔を覗かせる。やや蒸し暑いからか皆一様に薄い着物を纏い、首には白い化粧を施していた。アルバートは見慣れない白粉姿の女性らに若干眉をひそめながら視線を前方に戻した。
「……しまった」
そこに東雲の姿はなかった。アルバートを巻くために、あえてこの通りへ入ったのだろう。
(逃げるのがうまい人だ)
だが、逃げれば逃げるほど追いかけたくなるのが男の性というものだ。これまで誰かを追いかけたことのないアルバートだったが、俄然やる気が出てくる。
(こうなったら何がなんでも友人になってもらおうか)
小さく微笑んだアルバートは、ねっとり絡みつくような女たちの視線を躱しながら大通りへと戻った。