3-2
東雲の住まいは骨董店から西に行った民家が建ち並ぶところにある。すっかり覚えてしまった地図と道順を思い浮かべながら、アルバートはやや急ぎ足で商店が建ち並ぶ通りを歩いていた。
賑わっている場所からさらに歩き、通りの外れのほうへと足を向ける。その先にある四つ角を右に曲がれば東雲の住まいはもう間もなくだ。
(東雲さんはいるだろうか)
そう思いながら、ふと通りの反対側に並ぶ店に視線を向ける。
(あれは……)
背中で黒髪を一つに結んだ袴姿の男が歩いているのが目に入った。
「しのの、」
東雲の名前を呼ぼうとした声が止まった。歩いている人物は間違いなく東雲だが、あまりにも生気が薄い様子に声をかけることができない。
(あの骨董店に行かなくなったからか?)
その原因が自分にあるかもしれないと思ったアルバートは、ますます声をかけることができなくなった。しかし、このまま放っておくこともできない。
(そもそも東雲さんは血を飲まないと死ぬんじゃないのか?)
ドラキュラの小説には、たしかそんなことが書かれていた。国は違えど同じような怪物なら東雲も一緒ではないだろうか。
(だが、いま声をかけてますます骨董店に行かなくなったら……)
そう考えると、やはり声をかけないほうがいい気がする。本当は自分の血を飲んでもらおうと思っていたが、それも拒否されかねない。前回、立ち去る背中からはそれくらい強い拒絶を感じた。
そんな自分にできることは何もない。そう判断したアルバートが踵を返そうとしたとき、目の端に映った人影になぜか視線が吸い寄せられた。
(何だ?)
通りには東雲以外にもまばらながら人が行き交っている。端のほうとはいえ商店街の一画だから珍しい光景ではない。それなのに、なぜか一人の男にスッと視線が引き寄せられた。
男は華族の屋敷で見かける下男のような格好をしていた。手に風呂敷で包んだ何かを持っているということは、主人に頼まれ事をしたのかこの辺りに住んでいるかのどちらかだろう。
(別に珍しい光景ではないが……)
それなのになぜか気になって仕方がない。そのまま目で追っていると、男が東雲に近づくのがわかった。東雲は随分と歩みが遅いようだから追い抜くつもりなのだろう。「やはり気のせいか」とアルバートが視線を外しかけたとき、男が東雲の背中にぶつかるのが見えた。
そのまま男は通りを去って行った。しばらくぶつかられた場所に立っていた東雲だが、不意にぐらりと上半身を揺らし近くの壁に右手をついた。
「東雲さん!」
気がつけば名前を呼びながら駆け寄っていた。アルバートの声に気づいているはずなのに、東雲はわずかに頭を動かしただけで再びぐらりと上半身を揺らす。慌てて腰を支えると、手に濡れた感触がしてハッとした。
「刺されたのか」
腰に触れた手には血がついていた。背中を見ると左脇腹あたりに血が滲んでいる。
「東雲さん、大丈夫か?」
「……ご心配、なく」
医者に連れて行ったほうがいいほどの出血量に顔をしかめた。しかし東雲は怪物だ。下手に医者に診せて怪物だと知られるわけにはいかないはず。
そう判断したアルバートは、傷に触れないように東雲の体を支えながら路地裏へと入った。「たしかこの近くに寺院があったはずだが」と地図を思い出しながら壁伝いに進むと、やや寂れた建物が目に入る。
「ここで休もう。木々に囲まれたここなら人目も避けられる」
「……」
声をかけたが返事はない。ゆっくりと、しかしできるだけ急いで敷地内に入り、古びた木造の階段に東雲を座らせた。周囲を見渡したが参拝客はいないようで、蝉の声だけがうるさく響いている。ここまで犯人が追ってくることはないだろうと思ったものの、念のため建物の周りを一周することにした。
(わたしと勘違いして東雲さんを刺した……ということは、さすがにないか)
アルバートは一瞬、自分の代わりに刺されたのではないかと考えた。先日の出来事が姉の指示なら、一度失敗したくらいで諦めるとは思えない。成功するまで何度でも刺客を差し向けてくるだろう。しかし、金髪の異国人であるアルバートと日本人である東雲を見間違えるとは思えなかった。つまり、今回は東雲自身が狙われたということになる。
周囲に誰もいないことを確認してから東雲の元に戻った。生気の薄い顔はますます青ざめ、脇腹もさらに血の色を濃くしているように見える。
「東雲さん、きみたちの手当はどうすればいい?」
「……この、ままで」
「それはできない。とにかく止血だけでもしよう」
「……っ」
「痛むかもしれないが我慢してくれ」
東雲の様子を確認しながら、袴の紐を緩めシャツを引っ張り出した。顕わになった真っ白な脇腹には一文字に切られた傷があり、思っていたよりも傷が深い。
「押さえるぞ」
「……っ」
取り出したハンカチでグッと傷口を押さえた。その手を東雲がギュッと掴んだのは痛いからだろう。わかってはいるが、まずは止血しなくてはとアルバートがさらに力を込める。
「何か薬は持っているか? 血が止まったとしても、このままでは感染症にかかる恐れがある。きみたちにそういった病気があるのかわからないが、念のためわたしの傷に使った薬を持って来させようか?」
「……放って、おいてください」
「そうはいかない」
「そのうち……塞がるから……」
「たとえそうだったとしても、せめて消毒くらいはしたほうがいい」
「いい、から」
「よくない! いくら怪物でも怪我をしているんだぞ! こういうときくらいわたしを頼ったらどうなんだ!」
思わず出た言葉にアルバート自身驚いた。そうしてすぐに「あぁ、そうか」と納得した。
(わたしは東雲さんに必要とされたいのか)
東雲に自分を必要としてほしいと思っていたことに初めて気がついた。それが友人に対する普通の感情かはわからない。アルバートにはトムしか友人と呼べる存在はなく、へスティング子爵の跡取りにされてからは煩わしくて友人を作ろうと思ったこともなかった。
(だが、東雲さんとは友人になりたいと思っている。これは本心だ)
子爵家のこともストリング家のお家事情のことも関係なく「友」という存在になってほしかった。たとえ怪物でも、いや怪物だからこそ人間の事情に左右されることがない友人になれると思った。
(わたしは東雲さんと友人になりたい。わたしがそう思うように、東雲さんにもそう思ってほしい)
そう思った直後、アルバートは「何を考えているんだ」と小さく笑った。これではまるでおもちゃを手に入れたがる子どものようだ。自嘲しながら「それでも」と思った。一生にたった一度しか巡り会えない存在のように思えて仕方がない。そうして「わたしを頼ってくれ」ともう一度口にした。
金縁眼鏡の奥がちろっとアルバートを見た。初めて声を荒げた様子に思うところでもあったのか、東雲の上半身がゆらりと起き上がる。そうしてアルバートの腕を掴んでいた手でそろりと腕を撫で上げ、そのままベストの上から肩を掴んだ。
「そこまでおっしゃるのなら、血をくれませんか?」
か細い声だったが、アルバートの耳には「血を」という言葉がはっきり聞こえた。
――血をくれませんか?
それはとてつもなく恐ろしい言葉だ。まさに怪物と言わんばかりの内容だ。それなのにアルバートの中に歓喜にも似た感情がわき上がった。
(東雲さんがわたしを必要としてくれている)
そう思い、ハッとした。そうではない、血はただの食事だ。そうではなく、もっと友として自分を求めてほしい。そう思ったものの、東雲の目を見た途端に「血を捧げなくては」という抗いがたい欲求に頭も体も支配されてしまった。
無言で頷いたアルバートは、タイを解きシャツのボタンをいくつか外した。袖をまくり上げて腕を差し出すほうが早いはずなのに、首筋を差し出しさなくてはと胸元をくつろげる。アルバートの頭にはドラキュラの小説が思い浮かんでいた。血は首筋から与えるものだと小説で読んだからか勝手に体が動き、さらけ出した首筋を東雲の顔に近づける。
「ここは急所、ですよ」
そう言って息を吐くように笑った東雲は、それでも首筋に唇を寄せた。一度クンと鼻を鳴らしてから口づけるように触れる。その感触に肌を粟立たせた次の瞬間、アルバートの首に鋭い痛みが走った。
「く……っ」
思わず出そうになった悲鳴をグッとこらえ、代わりに東雲の背中を掻き抱いた。東雲のほうも左手でアルバートの背中を抱き、さらに金髪の後頭部を右手で抱きしめるように引き寄せる。
「ぃ……っ、く……っ」
首筋にさらなる痛みが走った。ズクズクとした痛みが側頭部や肩にまで広がり、一瞬息が詰まる。それでもアルバートが体を離すことはなく、ドクドクと首筋が脈打つのを感じながらジュルジュルと液体を啜る音に耳を傾け続けた。
(わたしの血を、東雲さんが啜っている)
そう思うとなぜか高揚感のようなものを感じた。強く求められているような気持ちになり、痛みよりも満たされる思いのほうが強くなる。
どのくらい啜られただろうか。首筋に脈打つような感覚はあるものの、頭にまで響くような痛みはない。代わりに体の奥がポッポッと火照るような感覚がしていることに気がついた。
(……なんだ……?)
表現しがたい感覚にアルバートの眉が寄った。得体の知れない熱が首筋から体全体へと広がり、まるで高熱が出たときのような寒気にも似たものまで感じる。
「東雲、さん」
なおも首筋に顔を埋める東雲の背中をそっと撫でた。汗でシャツが肌に貼りついている感触に「怪物でも汗をかくのか」と思っていると、東雲が「ん」と甘い声を漏らす。その声を聞いた途端にアルバートの背中をゾワゾワとした快感が走り抜けた。ゾクッとした刺激が腰を震わせ下半身を熱くする。
(まただ)
腹や手の甲を舐められたときも気がつけば股間が熱くなっていた。怪物に血を啜られるとこうなると聞いたが、あまりにも強烈な抑えがたい衝動にアルバートの眉が寄る。
(だからこその怪物なのだろうが……)
そう考えている間にもゾクゾクと這い上がってくる感覚に全身が熱くなった。
「ん、」
血を啜る東雲が再びむずがるような声を漏らした。ジュルっと吸ったあと唇を離し、吸いついていたところをべろりと舐める。それだけでアルバートの下腹はビクッと震え、危うく果ててしまうところだった。
「あぁ……なんてうまいんだろう……」
東雲が熱に浮かされているようにため息を漏らした。熱い息が首筋を撫でるだけでアルバートの腰は震え、いますぐにでも吐き出したいという抗いがたい欲求に支配されそうになる。
「僕をこれほど夢中にさせるのは、この血だけだ」
睦言のような言葉に目の前がカッと赤く染まった。何かに頭の芯をぐわんと殴られたような気分になり、思わずクッと目を閉じる。それでも散らすことができない熱に、アルバートは掻き抱いていた東雲の体を木の階段に押し倒していた。
「なるほど、異国のお人は情熱的だ」
そう言って笑った東雲を、アルバートは睨みつけるように見下ろした。




