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「東雲さ、……ぅっ」
赤い舌が手の甲をべろりと舐めた。血を舐め取るというより傷口を抉るような強さに、たまらずアルバートがうめき声を上げる。
「東雲さん」
呼びかけるが反応がない。脇腹を刺されたときと同じような状況に、アルバートは咄嗟に「これはチャンスだ」と考えた。この状態なら舐めている姿を見ることができるに違いない。痛みよりも好奇心が勝る自分に思わず苦笑してしまった。
(だが、見たいものは見たい)
傷の痛みに眉を寄せながら、ゆっくりと右手を持ち上げた。腕を掴んだままの東雲は舐めることに夢中なのか、手の位置が上がっていくことに気づいていない。ひたすら熱心に舌を這わせ続けている。
(……ほう)
血を舐める東雲の様子を目にしたアルバートは、思わず感嘆の声を上げそうになった。
(もっと血なまぐさい感じかと思っていたが、そうでもないな)
むしろ得体の知れない美しさのようなものさえ感じた。これで手の甲に傷がなければ愛撫のように見えたかもしれない。しかし、この異様なほどの美しさは血を舐めているからこそ感じられるものだ。
(本国でもそうした美を描く画家たちがいたな)
『オフィーリア』と題された絵画を思い出した。水面に漂う美しい女性を花々とともに描いた作品だが、なぜか毒々しいまでの耽美な雰囲気を漂わせていた。絵画を見たときと似たような感覚をアルバートはいまの東雲に感じた。「禍々しいほど美しく感じるのかもしれない」と思いつつ、手の甲を舐る東雲を熱心に観察する。
(そういえば痛みが消えてきたような……)
どういう仕組みかわからないが、東雲が舐めると顔をしかめるほどだった痛みが和らいでいく。前回は混乱や動揺もあってよくわからなかったが、こうして痛みが引き、そのうち傷口も塞がっていくのだろう。
(今回は二度目だからか冷静に観察することができる)
赤い舌がぬぅっと伸びて傷口に触れた。表面だけでなく根こそぎ舐め取ろうとしているのか抉るような動きをしている。見方を変えればそれだけ丁寧に、そして貪欲にアルバートの血を求めているということだ。
「東雲さん」
つい声をかけてしまったのは、傷口を舐る顔を正面から見てみたいと思ったからだ。半分諦めていたが、期待に応えるように東雲の顔がすぅっと持ち上がった。
「……っ、はは。これは何と言うか、凄まじいな」
一瞬息を呑んだアルバートは、次の瞬間小さく笑っていた。背筋が震えるような凄みのある美しさに、こめかみをたらりと汗が流れ落ちる。無意識のうちに怪我をしている手を引いてしまったのは、このままでは手ごと食われてしまうと感じたからだ。
ところがそうはさせまいと腕を掴む東雲の力が増した。あまりの力強さに傷とは別の痛みが走り、アルバートの顔がわずかに歪む。
(まさか美しいものに恐怖を感じることがあるとは……)
例えようのない感覚に身震いした。それでも東雲の顔から目が離せない。怪物としか言いようのない東雲だからこそ、これほど惹かれるのだろう。そう思うと気分が高揚してきた。
艶々とした血の赤に染まった唇は異様なほど艶めかしかった。金縁眼鏡の奥に漂っているのは虚ろな気だるさで、それが表現しがたい妖しい色気を漂わせている。そうした人ならざる美しさに本能が恐れをなすのは理解できた。
「東雲さん」
アルバートの声に反応するかのように黒目がちろっと上目遣いになった。しかし返事はなく、すぐに伏せられる。代わりに濡れた唇が開いて舌先がぬぅっと伸びた。赤い舌が血に濡れた唇をひと舐めし、続けて出血が収まりつつある傷口をぺろりと舐める。
東雲の様子にアルバートの背中をぞくりとしたものが這い上がった。気が昂ぶっているからか鼓動がうるさく感じる。目の前にいるのはまぎれもない怪物だというのに、美しい怪物に求められていることにどうしようもなく興奮した。
「わたしの血はおいしいか?」
気がつけばそんなことを問いかけていた。答えは期待していなかったが、予想に反して「こんなにうまい血はほかにない」と囁くような声が返ってくる。その声はどこか覚束なく、まるで酔っ払いの寝言のように聞こえた。「何もかもが興味深いな」と熱心に観察を続けていると、不意に体の奥がぞわぞわと騒ぎ出すのを感じた。
(何だ……?)
まるで高熱が出たときのように体の芯がぞくぞくする。思わず体をブルッと震わせたところで、傷を舐めていた東雲が「ん」と小さな声を漏らした。
「……っ」
声を聞いた途端にアルバートの体がカッと熱くなった。その熱がぐわっと体中に広がり、舐められている手の甲にも広がっていく。同時に股間が異様に熱くなっていることに気がつき戸惑った。
(これは……腹を刺されたときと同じだ)
ほんの少し刺激されるだけで今回も呆気なく果ててしまうだろう。決して欲求不満というわけではないのに、この状況でこうした状態になっているのはどういうことだろうか。
「ん、」
やけに甘い東雲の声が聞こえる。心なしか東雲の息も上がっているように感じられた。頬もわずかに赤くなり、舐める舌をますます熱く感じる。
(まるで官能小説のワンシーンのようだ)
段々と頭が朦朧としてきた。ワインを浴びるほど飲んだ後のような浮遊感にも似た感覚になる。
(東雲さんに触れたい)
不意にそんなことを思った。しかも、明らかにそういう意味で触れたいと思っている。不埒な欲求に応えるかのように、ますます下半身が疼いた。
アルバートは自分の現状に少なからず衝撃を受けていた。これまで同性にそんな欲望を抱いたことはなく、性的な嗜好は完全なヘテロだった。成人する前から多くの貴族令嬢と浮き名を流してきたというのに、いまは同じ男である東雲に触れたくて仕方がない。
(たしかに興味深いと思っているが……いや、そういうことじゃなくて……)
駄目だ、考えがまとまらない。頭がうまく回らないというのに触れたいという欲望だけが強くなっていく。
「ん」
再び漏れ聞こえた声に、アルバートの中の何かがパチンと弾け飛んだ。気がつけば血に濡れた東雲の唇を塞いでいた。それどころか口内に舌を入れ舐め回してもいる。
鉄臭い味に「そうか、これはわたしの血か」と思いながらも舌を舐るのを止められない。東雲のほうも応えるように舌を擦り合わせてくるせいで、ますます歯止めが利かなくなる。
「は……、は」
唇を離したアルバートは、自分の息がわずかに上がっていることに気がついた。「こんなに夢中でキスをしたのは久しぶりだな」と妙に感慨深くなりながら東雲を見る。
キスのせいか金縁眼鏡がわずかにずれ、奥の黒目はとろんとしていた。唇が濡れているのは血ではなくアルバートが貪った結果だろう。思わずまた触れそうになり、すんでのところで踏みとどまる。
「東雲さん」
アルバートの声色に何かを感じたのか、東雲が「あぁ、大丈夫」と口にした。やや虚ろに聞こえるものの先ほどよりしっかりした口調だ。
「僕に血を捧げると大抵こうなるので、気にしていません」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。時間差で意味を理解し、アルバートの中にモヤモヤしたものが広がる。なにより「大抵こうなる」という表現が気に入らない。まるでその他大勢と一緒にされたような言いぐさに腹の奥がカッと熱くなった。
「なるほど、それなら遠慮はいらないな」
東雲の後頭部に左手を回したアルバートは、強引に引き寄せて再び口づけた。無性に腹が立ち、その気持ちをぶつけるように鉄臭い口内を貪る。そんな乱暴なアルバートのキスに東雲が抵抗することはなかった。
何度も角度を変えながら、まるで恋人のように唇を貪り合った。「何をやっているんだ」と思いながらもなぜか止めることができない。苛立ちだけでない何かに突き動かされるような衝動がようやく落ち着いたのは、二人の息が上がり始めてからだった。
「東雲さん」
小さく息を乱す東雲は、やはり表現しがたい美しさを漂わせていた。これまで一度も感じたことがない匂うような色香にアルバートの喉がごくりと音を立てる。再び淫靡な気配が漂い始めるのを打ち消すように「あぁ、大丈夫、大丈夫です」と東雲が口にした。
「しばらく満足に血を飲んでいなかったせいで、少しばかり力が暴走しただけです。それでも傷は治ってるはずです」
言われて手の甲を見る。抉られたような傷はうっすらとした赤い線に変わっていた。
「なるほど、これがあなたの力というわけか。いや、それより血を飲んでいなかったというのはどういうことだ?」
「あなたのせいですよ」
そう言って金縁眼鏡の位置を直した東雲が、濡れた瞳でアルバートを見た。
「あなたの血を口にして以来、いつもの血が味気なく感じるんです。おかげで僕はすっかり貧血気味だ。そんなときあなたはまた無駄に血を流した。久しぶりの極上の血に喉の渇きも力もすっかり暴走してしまいました。その結果、あなたも興奮してしまったというわけです」
何を言っているのかさっぱり理解できない。眉を寄せるアルバートに、口元を拭った東雲が「僕はそういう生き物なんですよ」と口にした。
「人の血は興奮するほど味がよくなります。だから人は僕らに血を啜られると興奮する。その結果、先ほどのような行動に出る人も少なくありません。先ほども言いましたが珍しいことじゃないので気にしないほうがいいですよ。ちょっと大きな虫に刺されたとでも思ってください。あぁ、僕は慣れていますから気にしなくて結構です」
そう言ってくるりと踵を返した。
「すみませんが、体のほうは自分でなんとかしてください。さすがにそこまで面倒は見られませんから」
東雲の言葉に視線を落とすと隆々とした股間が目に入った。気のせいでなければ下着の中が嫌になるほど濡れている。「まさかキスだけで?」と愕然とするアルバートをよそに、東雲はスタスタと立ち去ってしまった。
(……たしかに彼は怪物に違いない)
ドラキュラの小説にも似たようなシーンが描かれていた。いや、あれは別の怪物を描いた作品だっただろうか。アルバートは眉を寄せながら思案した。
自分は東雲に興味を抱いている。そして友人になりたいとも思っている。それなのに情欲にも似た状態になってしまったことに少なからず衝撃を受けていた。
(いや、これも怪物だからなのだろう)
その証拠にあれほど膨れ上がっていた欲はきれいさっぱり消えてなくなっていた。どうしてあんなにも情熱的なキスができたのか自分でもわからない。
(思っていたより東雲さんはちゃんとした怪物だったんだな)
ため息をつきながら空を見上げた。淫靡な雰囲気など欠片も感じさせないような眩しい青色が広がっている。近くでうるさいほどの蝉が鳴いているが、それが気にならないくらい東雲とのキスに夢中になっていた。
興味深いと思って近づいたが予想以上だ。こんな存在に出会えるのは人生で一度あるかないかに違いない。そう思うとますます興味を引かれる。
(別にどうということはないな)
東雲が同性でも怪物でもキスを不快だとは感じていない。血を啜る姿は美しく、もう一度見たいと思っているほどだ。あの光景を見られるなら多少下半身に問題が起きても次からはどうにかできそうな気がする。
(怪物相手に何をしているんだとトムなら呆れそうだが)
それとも「おまえらしい」と笑うだろうか。そんなことを考えながら恐ろしくも美しい東雲の姿を思い出した。それだけでアルバートの口元には満足げな笑みが浮かんだ。




