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翌日アルバートが東雲を連れて行ったのは、二人が出会うきっかけになった事件現場のガーデンカフェだった。
「まさかここを選ぶとは思いもしませんでしたよ」
呆れ顔でそう言いながら東雲がティーカップに口をつける。静かに飲んでいる姿は優雅な異国のティータイムに見えなくもないが、カップの中身は玉露の緑茶だ。
「紅茶やハーブティーじゃなくてよかったのか?」
「ここで女性が亡くなったのを忘れたんですか?」
「東雲さんなら、たとえ毒草が混じっていても気づくんじゃないかと思ったんだが」
「気持ちの問題です」
その言葉にアルバートは「へぇ」と思った。小説のドラキュラにそんな感情はなかった気がするが、どうやら日本の怪物は人間味があるらしい。
(ますます興味深いな)
無機質な眼差しを浮かべる割には人間のような心情を口にする。どうすればそういう怪物になるのだろう。あれこれ想像するだけで胸が躍った。
コーヒーを飲むアルバートの口が笑みの形に変わった。できればもっと詳しく知りたいところだが、あれこれ尋ねたところで答えてはくれないだろう。「さて、どうやって攻略するかな」と考えながら目の前の東雲を観察する。
「じろじろと見られるのは好きじゃないと言ったはずですがねぇ」
「あぁ、失敬。言葉に表せない思いを、つい視線に載せてしまった」
「こういう場所で熱心に見られると、あらぬ噂に尾ひれがつくんですよ」
「わたしと東雲さんが恋仲だという噂のことか?」
「いい加減、迷惑しているんです。約束したとおり今回で終いにしてくださいよ」
「わたしに約束した覚えはないんだが」
金縁眼鏡の奥で黒目がじろりと睨む。そうした眼差しもいいが、できればそろそろ違った表情も見てみたいとアルバートは思っていた。
(そうだな……たとえば、わたしの血を啜っているときどんな表情をしていたのか見てみたい)
腹の傷を舐められたときは、東雲がうつ伏せになっていたため表情を見ることは叶わなかった。
(怪物らしい顔をしているのか、それとも……)
血を啜るところなど見て楽しいはずがないのに、なぜかアルバートの中に「見たい」という欲がわき上がる。おいしそうに啜るのか、それともいつもどおり淡々とした表情なのか気になって仕方がない。
「何かよからぬことを考えているようですが、僕はこれ以上あなたに関わるつもりはありませんよ」
「よからぬこととは人聞きが悪いな」
「これまでの行動を顧みたらどうなんです? 待ち伏せしたり追い回したり、ろくなことをしていないじゃないですか」
「ふむ、焦がれるきみを熱心に口説いているだけなんだが」
「……本当に余計な言葉ばかり覚えているようですね」
くいっとティーカップを傾けた東雲は、中身を飲み干すと席を立った。「ご馳走さまでした」と律儀に頭を下げてはいるものの一度もアルバートを見ようとしない。そのままくるりと背を向け、ガーデンカフェの出入り口へスタスタと歩いて行く。
こういうこともあろうかと支払いの準備を済ませていたアルバートは、近くにいた給仕に金を渡すとすぐさま東雲の後を追った。カフェを出て大通りを少し進んだところで、小径へ入る背中が見える。「あの日とは違う道だな」と思いながら角を曲がろうとしたとき、視界の端に人影が映った。
「お……っと」
ぶつかる直前で躱したが、なぜか人影はなおもアルバートのほうへと近づいてくる。咄嗟に体を捩って避けようとしたものの、右手に痛みが走り「つ……っ」と声が漏れた。
切られた、そう思った。アルバートは傷口を確認するより先に左手でスーツ姿の腕を掴もうとしたが失敗した。人混みに紛れる背中に小さく舌打ちをしてから右手を見る。どうやら手の甲を切られたようで、抉れたような赤い筋が斜めに走っていた。
もう一度大通りに目を向けたが犯人の姿はすでに消えた後だった。刺した相手がどうなったか確認しないということは命を狙ったわけではないのかもしれない。「いまのは男だったな」とグレーのスーツ姿を思い返していると、「アルバート様!」という女性の声が聞こえてきた。
「あなたは……」
声がしたほうを見ると、上品なワンピースを着た女性が駆け寄って来るところだった。頭には流行りのクローシェ帽を被り、膝下丈の裾を揺らしながら慌てたように近づいて来る。
「あなたは嘉村卿の」
「アルバート様、大変なお怪我を……どうしましょう。そうですわ、ハンカチを」
女性が小さなバッグから真っ白なハンカチを取り出した。それをためらうことなくアルバートの傷にあてがう。みるみるうちに白い布は赤色に変わり、隅にあしらわれていた刺繍も赤く染まっていった。
「お嬢さん」
「わたくしのことは綾子とお呼びくださいと、何度も申し上げていますのに」
女性の言葉に「そういえば先日も言われたな」ということを思い出した。初対面のときもだったが、その後もパーティで顔を合わせるたびに同じことを言われる。そうしたやり取りは面倒でしかないが、叩き込まれた外面のよさのおかげか綾子がアルバートの本心に気づいている様子はない。
「近くに懇意にしているお医者様がおります。お連れいたしますわ」
「いや、結構。連れがいるので」
そう言いながら振り向くと、予想どおり小径の入り口に東雲が立っていた。本当は立ち去りたいのだろうが、アルバートの血の臭いに気づいて戻って来たに違いない。金縁眼鏡の奥は見えないものの、食い入るように右手を見ているのは雰囲気でわかった。
「それより、ここから早く立ち去ったほうがいい。わたしを刺した人物が戻って来ないとも限らない。あなたまで巻き込まれては大変だ」
「でも、」
「わたしのことは気にしなくていいから」
話しながらもアルバートは周囲を注意深く見回した。やはり犯人は戻ってきていないようだが、今度は何事かと通行人が集まりかけている。異国人というだけでも目立つのだから早くこの場を離れたほうがいい。
(それに今度こそ姉上の仕業だとすれば警察沙汰にするわけにはいかない)
本国の父に知られればますます厄介なことになる。それはアルバートの望むところではなかった。それに異国で怪我をしたと父に知られるわけにもいかない。
(知られれば間違いなく帰国させられるだろう)
ようやく訪れることができた日本だ。しかも東雲という興味深い存在に出会うこともできた。これから仲を深めようとしているときに帰国するわけにはいかない。
(そのためにも、まずはこの場を離れなければ)
アルバートは「さぁ」と言って綾子を促した。ためらいながらもハンカチを手に立ち上がった綾子は、後ろ髪を引かれるように何度も振り返りながら去って行く。
手の傷を隠しながらそれを見送ったアルバートは、すぐさま小径へと入った。右手を凝視している東雲の腕を掴んでさらに奥へと入っていく。そうして古めかしい小さな寺の影に入ったところで「ふぅ」と息を吐き出した。
(ここなら注目されることも人に取り囲まれることもないだろう)
改めて右手を見ると思ったよりも出血している。
「さて、今回の犯人も異国人嫌いか、それとも今度こそ姉上の差し金か」
ナイフによると思われる傷は手首近くが深いようで、抉れるように皮膚がめくれていた。念のため指を動かしてみるが、幸い神経は痛めてはいないようで痺れることもなく動く。骨に異常があるようにも感じられない。
(その点はよかったとして、思い切りやられたな)
指を動かしたからか、新しい血がたらりと流れ落ちた。傷の深さを示すように続けてたらりたらりと赤い筋がしたたり落ちる。
犯人とぶつかったのは右腕だった。二の腕あたりに衝撃があったから、そこに犯人の腕が当たったのだろう。そのときアルバートの手はちょうど腹の辺りにあった。だからナイフが手の甲を抉る形になっに違いない。もし腹を刺されていれば前回よりも危ういところに傷を負っていたかもしれない。
「やれやれ、遠く東の果てに来ても気が休まらないな」
胸ポケットからハンカチを取り出したアルバートは、止血しようと布の端を口に咥えた。反対側の端を左手で持ちながら傷口にあてがい、そのままぐるりと巻こうと手を動かす。ところが巻き終わる前に東雲にハンカチを奪われてしまった。
薄灰色のハンカチがひらりと宙を舞う。思わず目で追っていると東雲の顔が視界に割り込んできた。どうしたのかと見ていると血を流す右手をむんずと掴まれる。
「東雲さん?」
アルバートが声をかけるのと東雲が傷口に唇を寄せるのはほぼ同時だった。




