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忘れない言葉  作者: 青木りよこ
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二十年前の謎 5

その年の十二月に母が入院した。

愛媛から祖父母が来てくれて、退院したら住んでいたアパートは引き払って母の実家で暮らすことに決まった。

引っ越す前に二人に会ってお礼が言いたかったが、ばたばたと忙しく叶わぬまま引っ越しの日は来てしまった。

愛媛の暮らしにはすぐに慣れた。

母は目に見えて元気になり、明るくなり、お喋りになった。

祖母の作る食事は美味しかったし、冬も夏もエアコンはつけ放題で快適だったし、一軒家だったので自分の部屋も貰えて、机も買ってもらったし、ベッドも本棚も買ってもらった。

スポ少で卓球を始めてそれも楽しかったし、友達もできた。

二人のことを思い出すのは本屋さんに行って漫画を見る時だけになった。

普段はすっかり忘れ日々を過ごしていたが、本屋さんに行くと、お兄さんが描いた漫画が出ていないかなと新刊コーナーの漫画の表紙を見るのが習慣になり、それは今も続いている。

もしかしてこれじゃないかなと思わせる漫画もあったけれど、確信が持てるほどの鮮明な記憶はなく、未だにお兄さんが漫画家になれたのかはわからないし、もう確かめようもない。


私はお兄さんの名前すら知らなかった。

お姉さんはタナカキョウコと言っていたけれど、どんな漢字を書くのかもわからないし、たとえそれを知っていたとしてもこの世に何人のタナカキョウコさんがいるだろう、あの頃の埼玉にいただろう。


それにしても私は今になって思うのだ。

あの二人は何だったのだろうと。

正しくはあの三人は、何だったのだろう。

あのアパートにはお兄さんとお姉さんと眠るお姉さんがいた。

多分三人は同い年くらいだったと思う。

お姉さんは大学生だと言っていた。

お兄さん何をしていたのかわからないけれど、少なくとも平日の日中働いている人ではなかった。

そして、眠る美しいお姉さんをお兄さんは自分の奥さんだと言っていた。

じゃあお姉さんとお兄さんはどういう関係なのだろう。

二人は全然似ていなかったから兄妹ではないはずだ。

では友達だったのだろうか。

友達というより家族というのが一番しっくりくると思う。


今思うと子供だった私は随分危ないことをしていたものだ。

私は母の言いつけを守らず知らない人の家に毎日行き、知らない人の作ったご飯を食べて、知らない人の家でお昼寝をして、ひと夏を過ごしたのだ。

自分が今母親になり、娘があの時の自分と同じことをしたら、私は二度としちゃ駄目だと言って、菓子折りを持って丁重にお礼を言って二人には二度と会わせないだろう。

あの夏は本当に何だったんだろう。

未だにわからないことだらけで、本当はあの三人なんていなくて、毎日フードコートで妄想してたことを自分の記憶として組み込んでいるんじゃないかとさえ思ったこともある。

でもあの三人はいた。

絶対に確かにいた。


私は結婚して自分で料理をするようになって、あの時お兄さんが作ってくれた炒飯がどうしても食べたくなり、いろんなレシピを調べて作ってみたけれど、あの味を再現することはできなくて、今もあの炒飯を追い求めている。

祖母も料理は上手だったけれど、お兄さんが作ってくれた炒飯、ブロッコリーの入ったポテトサラダ、カレー、餃子、酢豚、豚の生姜焼き、ハンバーグ、肉じゃがを超えることはなかった。

私の人生で一番美味しかったものは、お兄さんが作ってくれた炒飯で、多分一生そうだと思う。


お兄さんの容姿はどんどんぼやけていって、もう誰かに顔の特徴を説明することはできなくなった。

背の高い黒髪の無表情な若い男性で、目鼻立ちは整っていた。

でもそんな人がこの世界にどれだけいるだろう。

その中から彼を見つけることなどもう完全に不可能だ。

だってもうお兄さんも年を取り、あの頃の姿ではないだろう。

あのかっこよかったあの時のお兄さんはもうどこにもいない。


お姉さんは長い黒髪をポニーテールにしていた。

背はそんなに高くもないし低くもなかった。

いつも元気でにこにこしていた。

母がいつも元気がなかったからお姉さんといると安心できた。

目はどんなだったっけ、口は、眉は。

もう思い出せない。

眠っていたお姉さんはとても綺麗だった。

動物のガラス細工みたいな、ピアノの鍵盤みたいな、手巻きのオルゴールみたいな、押し花の栞みたいな、時を超えて古びない永続的な美しさを暖かさを感じさせる女性だったように思う。

説明するのは非常に難しい、けど、彼らは確かに似合いの夫婦だった。

お兄さんの隣に並べて違和感のない女性、そう表現するしかなかった。

彼らは似てないのに似ていた。

まるで同じ作者が描いた絵の様だった。


あの夏の私は幸運だった。

ミステリー小説なら私はきっと最後か冒頭に死体となったに違いない。

お姉さんは一人分も二人分も一緒だから気にしなくっていいよと言っていたけれど、私の食費だって馬鹿にならなかったはずだ。

ヘンゼルとグレーテルの魔女のように太らせて食べるつもりだったのだろうか。

本当に私の境遇を哀れに思い優しくしてくれたただの善良な人達だったのだろうか。


あの三人は今どこで何をしているのだろうか。

恐らくこの謎が一生解けることはない。










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