二十年前の謎 4
八月に入ってすぐの月曜日、朝から土砂降りの雨が降っていた。
雨が降っても夏だから涼しくなるわけではなくて、朝から母に送られてバス停のベンチに座らされていると、お兄さんが傘をさして迎えに来てくれた。
お兄さんはいつも通り黒い長袖のTシャツに黒いズボンをはいていたけれど、さしていた傘はピンクの水玉模様で、まるでお兄さんだけが傘の柄に気づいていないように見えて何だか可笑しかったのを今も覚えている。
その日はお昼ご飯を食べるとお姉さんが急にバイトに行かなくちゃいけなくなったとかでお昼からお兄さんと二人きりになった。
私はいつものように漫画を読んでいたんだけど、お兄さんが何を書いているのか気になってそうっと近づいてお兄さんの後ろから覗き込んだ。
お兄さんは漫画を描いていた。
それも凄く上手な。
「お兄ちゃん上手だねー」
私は思わず声に出してしまった。
お兄さんは振り返ったけれど、特に何も言わなかったので、私はお兄さんの隣に腰を下ろした。
「お兄ちゃんひょっとして漫画家さんなの?」
「違う。でもそうなりたいと思っている」
「なれるよ。だってこんなに上手だもん。この女の子可愛いよ」
「そうか」
「ホントに上手だよー。漫画家さんと全然変わんないよー」
「そうか」
「うん」
振り返るとベッドが目に入った。
私は立ち上がりベッドに近づいていったと思う。
黒髪の綺麗な女の子が眠っていた。
まるでガラスケースに入れられた高級な食器みたいに、こんなに近くにいるのに手で触れてはいけないような気がした。
「お兄ちゃん、お姉ちゃん眠ってるの?」
お兄さんは振り返らない。
私はお兄さんの広い背中に話しかけた。
「ああ」
「ご病気なの?」
「ああ」
「お兄ちゃんの妹?」
「奥さんだ」
「奥さん?お兄ちゃんのお嫁さんってこと?」
「ああ」
「そうなんだ。お姉ちゃんずっと寝てるの?」
「ああ」
「そっか、じゃあ、お兄ちゃん寂しいね」
「ああ」
「家もね、お父さん帰ってこなくなっちゃったんだ。でね、離婚したの。もう二度とお父さんに会えないってお母さんに言われた時すごく寂しかったよ」
「そうか」
「お母さん毎日疲れてるの、土日ねお仕事お休みだったんだけど、ポカリ飲んでおかゆ食べて、すっと寝てた。だからね、土曜日の朝は納豆ご飯でお昼はカップ焼きそば食べて、夜はククレカレー食べて、昨日の朝も納豆ご飯食べて、お昼はカップうどん食べて、夜はバーモントカレー食べて」
「お母さんは大丈夫なのか?」
「うん。あんなにしんどそうだったのに、今日普通に会社に行ったよ」
「そうか」
「今日ね、お昼ご飯楽しみだったの。久しぶりに美味しいもの食べられるって、親子丼美味しかった。
茄子の煮たのも。ワカメのお味噌汁も。お母さんにも食べさせてあげたいなって思ったよ。お兄ちゃんすっごくお料理上手だよね。ひょっとしてシェフなの?」
「違う」
「でもお料理上手だよね」
「何年も毎日やってたら誰でもできるようになる」
「そうなの?」
「ああ」
「私もできるようになるかなぁ」
「ああ」
「お母さんね、毎日ご飯作るのめんどくさいって言ってるけどお兄ちゃんめんどくさくないの?」
「ない」
「そっか。お母さんねもう三十過ぎたからしんどいんだって」
「そうか」
「何かしてあげたいなって思うんだけど何にもできないからせめて静かにしてようって思ってるよ」
「そうか、偉いな」
「えらい?」
「ああ、偉い」
「早く大きくなってお母さんに美味しいもの作ってあげたいよ」
「そのうちできる」
「ホント?」
「ああ」
「毎日ね、お母さんにお昼代って二百円貰ってるのね、おつりはキティーちゃんの貯金箱に入れときなさいって、でも毎日お兄ちゃんにご飯食べさせてもらってるから、毎日増えてくのね、だから夏休み終わったらお母さんに何か買ってあげようと思ってるんだけど、何がいいと思う?」
「そんなに気を使わなくていい。親は子供が生きているだけで嬉しいんだから」
「そうなの?」
「ああ」
お兄さんとこんな風に話したのはこれが初めてで、この日が最後だった。
私は夏休み最終日までアパートに通った。
最終日の別れ際にお姉さんは言ってくれた。
「冬休みになったらまたおいで、お姉ちゃん達あと二年はここにいるから、冬休み一緒に遊ぼう」
それは結局実現することはなかった。
その日を最後に私は二度と二人に会うことはなかった。