6
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灯りの消えた病室のベッドで瑞樹は横たわっていた。糸原が知っている無邪気な笑顔はない。あどけない横顔には疲弊感が漂っていた。
糸原は、ベッドの横の簡易な椅子に腰を下ろした。
瑞樹の細い腕にはルート確保のための点滴が繋がれ、頬には涙の痕が幾筋も残っていた。
「頑張ったな」
糸原は瑞樹の小さな右手を両手で包み込んだ。今年、小学二年生になった瑞樹は、まだまだ母親が恋しい時期だろう。しかし、その母親は別の病院に運ばれ、父親も今や亡くなってしまった。
どれほど怖かったことだろう──。
瑞樹の気持ちを思い、やるせなくなる。頼りの兄も行方知れずである。
とりあえず、親戚に連絡を取らなくては。
真っ先に浮かぶのは、薫の姉である菜緒子さんだ。糸原も何度か会ったことがある。確か、独身で、県外の実家に住んでいると言っていた。
腕時計を確認すると、午前四時を回ったところだ。流石に、電話をかけるには早すぎる時間だ。
夜が明けたら、連絡をしよう。
そう結論づけ、糸原は業務に戻ることにした。
「また、後でくるよ」
握っていた手を緩めると、逆に強く握り返された。糸原は浮かしかけた腰をもう一度、椅子へと下ろした。
「瑞樹くん?」
呼びかけると、瑞樹はゆっくりと目を開け、「……いと……さん……」と辿々しく言葉を発した。
その言葉に糸原は既視感を覚えた。
そうだ。あれは、糸さんと呼んでいたのだ──。
あの赤い目の人間──。
あれは、「糸さん」と言っていたのだ。
その呼び名で、糸原を呼ぶ人間はごく僅かしかいない。
ニノ方は「糸原さん」と呼ぶが、大体の病院関係者は「糸原先生」と呼ぶ。親しい友人などには「糸原」と呼び捨てで言われることが多い。妻の由佳は「晴人さん」と下の名前で呼ぶ。部長は「糸原くん」。──そして、部長の家族だけが「糸さん」と呼ぶのだ。
つまりあれは……。
今、行方知れずとなっている、廉なのではないか?
そう考えれば、合点がいく。
ヒョロヒョロとした華奢な輪郭も背の高さも。廉と一致する。
糸原のマンションで居合わせたのも偶然ではないだろう。何かしらの目的があってやってきたに違いない。
もしかしたら、助けを求めてきたのかもしれない。
あの苦しげに絞り出した声──。
何かを伝えたがっていたように思える。
しかし、どういう心境の変化なのかは分からないが、彼は突然去った。およそ人間らしからぬ動きで。
ただ、あれが廉だったとしても、赤い目や人間離れした動きは、説明がつかない。
──もしや……。
「瑞樹くん、ちょっとすまない」
糸原は瑞樹の目を覗き込んだ。
瑞樹の黒目の奥の方。僅かに赤く光っている。
ただ、それはほんの一瞬で、あれのように終始光り続けているわけではない。瞳の奥で赤い何かが時折蠢いているように見える。
じっくりと観察して、ようやく気付く程度だ。搬送時の混乱下では見落とされたとしても仕方がない。
だが、これで結論は出た。あの赤い目の人間、あれは廉だ。
自分が導き出した答えに、全身の血の気が引いていく。
果たして、廉の変貌と今夜の一件は、関わりがあるのだろうか?
いや、たぶん、関わりはあるのだろう。それぞれが同じ日に無関係で起こっただけという考えの方が、よっぽど受け入れ難い。日常ではない事が起こったからこその結果なのだ。
「……いとさん……」
再び名前を呼ばれ、糸原は我に返った。瑞樹の目の奥に赤いものは確認できない。今や怯えきった顔で糸原を見ている、ただの頼りない、幼い少年でしかない。
「大丈夫」と糸原は瑞樹の頭を優しく撫でた。
「お父さんとお母さんは、病院で手当てを受けているから」
今は瑞樹の気持ちを落ち着かせるのが第一。真実は後で伝えればいいと、詳細は伏せる。
瑞樹は素直にそれを聞き入れ、こくんと頷いた。
「瑞樹くんもゆっくり休んだ方がいい。後で由佳がお見舞いに来るから」
由佳という名前に、瑞樹は明らかに反応した。強張っていた表情が、瞬時に柔らぐ。
瑞樹は由佳にとてもよく懐いている。笹本家を訪れる度、由佳の傍にピタリとくっついて離れず、糸原を敵視する。それを見て部長が、「将来のお嫁さんだな」と揶揄うのを「駄目ですよ」と糸原が阻止するのが定番だった。
そんな遣り取りも、今は懐かしい。
ふと、窓の外に目を向けると、空が微かに白み始めている。
最悪の夜が、ようやく終わった──。
糸原はほっと安堵の息を漏らした。