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「糸原さん、お待たせしました」
西城公園の西門で葛西と待ち合わせた。外堀には見頃を終えた桜の花びらが浮かび、ピンク色の花筏を作っていた。
今年は結局、花見が出来なかった。桜の開花宣言が届いた日に、由佳が産気づき、そのまま入院して出産。数日前に退院したが、忙しさに追われ、桜の時期を逃した。
「お忙しい中お呼び立てして、申し訳ありません」
葛西は申し訳なさそうに言う。
葛西にもそんな気遣いができるのか、と意外に思いながら、「大丈夫です」と糸原は笑った。
そうですか、葛西は大きく頷く。それから、「こちら、私と藤田くんからの出産祝いです」と懐から袱紗を取り出し、ご祝儀袋を糸原に渡した。
お気遣いありがとうございます、と糸原は礼を述べる。
「でも、今日は、この為だけに?」
糸原は葛西を見つめ尋ねた。それに少し間を置いて、いえ、と葛西は首を振った。
「実は、ご報告がありまして、お呼びしました」
「報告?」
ええ、と葛西は頷いた。
「……本日、大道さんがお亡くなりになられたそうです」
「大道が?」
「はい。入院していた病院で、息を引き取ったとのことでした」
「そうですか」
糸原は目を伏せた。
大道は罪を全て認め、起訴されたが、白血病の悪化により病院で治療を受けていた。ここニ、三日は集中治療室に移動したと聞いていたが──。
「すみません、子供が産まれたばかりなのに、こんな報告をして。どうかとは思ったのですが、やはりお伝えしておくべきだと思いまして……」
そうですね、と糸原は頷いた。
「ご報告、わざわざありがとうございます。──大道は生きている間、罪の呵責で辛い思いをしていたのでしょうが、これで楽になりましたかね……」
風に吹かれて散った花びらを目で追う。それが水面に落ち、小さな波紋を作った。
どうでしょう、と葛西は首を傾げた。
「ところで、糸原さんは西城大学病院に移られるそうですね」
同じように水面を眺めて、葛西が言った。
「ええ。親父に頼み込みました。MA1ウィルスの研究には、その方が都合がいいですから」
「MA1ウィルス、ですか……」
葛西は眉間に皺を寄せた。
「結局、それからは逃れられません」
糸原は葛西を見据えた。
「私は臆病者です。嫌なことから目を背けて、逃げてばかりきました。特に、親父に関しては……でも、今度は逃げようがありません」
糸原は晴れやかな笑みを浮かべた。
「子供に関わることですから」
そうですか、と葛西も笑った。
「頑張って下さいね」
「──葛西さんは、どうするんですか?」
「私?」
「大道に言われたんじゃないですか? 奥さんにMA1ウィルスを使わないか、と」
ああ、と葛西は頷いた。
「MA1ウィルスで、奥さんの脳の損傷は回復するかもしれません。必要なら、私が手配しましょうか?」
糸原の問いに、葛西は静かに首を振った。
「やめておきます」
「……そうですか」
はい、と答えた葛西の目が、寂しげに揺れた。
「もっと早い時期なら、私も喜んで応じたでしょうが……」
そう言って、目を伏せた。
「──時間が経ちすぎました。娘がいない妻の絶望を想うと、今のままでいい、と考えてしまうのです」
私の方こそ臆病者なのですよ、と葛西は笑った。
「ですから、妻のことは、神様に任せることにしました」
「そうですか」
きっと娘を亡くした時の葛西の心中は、糸原では想像もできないものだったのだろう。そして、それを妻に味合わせることに、葛西は抵抗があるのかもしれない。
それに、と葛西は悪戯っぽく笑い、言葉を継いだ。
「娘はいなくなってしまいましたが、息子はできましたから」
「それって」
「藤田くんです。今は、彼の成長が楽しみなのです」
そう言って、葛西は目を細めた。
不意に葛西のスマホが鳴る。着信名を確認した葛西は、「噂をすれば、です」と笑った。
「それでは、私はこれで」
糸原に別れを告げ、葛西は電話に出た。
去っていく葛西を見つめ、糸原は大道の言葉を思い出していた。
「ウィルスを生物と定義するかどうかで、意見は分かれるが、俺からしたら奴らは完全に生物だ。あいつらは独自のネットワークでお互いの情報を伝播している。今回の失敗を受けて、ウィルスは変化するぞ。今のうちに、処分できるのなら、処分したほうがいい」
大道の警告が胸に刺さる。それでも、俺は由佳と子供と生きていくと決めた。その決意は揺るがない。
たとえ君が狂おうとも。
君と一緒に。
──いつか狂う君と。満月に狂う君と。
<了>




