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「久しぶりだな、晴人」
院長室に通されると、椅子に腰掛けたまま、父の正晴が言った。
父と会うのは、由佳との結婚報告以来だから、三年ぶりだろうか。
少し白髪が増えたように思えた。
「お久しぶりです」
糸原は他人行儀な挨拶を返す。正晴は苦笑した。
糸原は父とは疎遠だ。
幼い頃、母を亡くし、それ以来母方の祖母の家に預けられてから、ほとんど父と接することはなかった。
だから、親子らしい会話をしろと言われても、対処に困る。
更に、三年前、由佳との結婚を反対されてからは、ますます疎遠になった。
まぁ、掛けてくれ、と正晴は応接セットのソファを指した。
糸原は二人掛け用ソファの端に座った。その向かいの席に正晴が座る。
「お前から顔を見せにくるとは珍しいな」
正晴が足を組みながら言った。
「報告と確認したいことがあったから」
「なんだ?」
「由佳が妊娠した」
短く告げる。正晴は特に驚いた様子もなく、「それは、おめでとう」と言った。
「出産予定日はいつ頃なんだ?」
「四月」
「四月か。ちょうど桜が見頃だな」
正晴は待ち遠しそうに目を細めた。
「親父でも嬉しいものなのか」
正晴の反応が意外だった。
「あんなに、結婚を反対していたのに」
「それでも孫は嬉しいものさ」と正晴は笑った。
「……それで、確認したいことというのは?」
糸原は少し間を置いてから、「親父、大道を知っているだろ」と尋ねた。
「大道……」
そう呟いて、正晴は宙へと視線を泳がせた。
「ああ、最近逮捕された、研究医の……」
視線を糸原に戻し答える。
「とぼけるのは、やめてくれ」
糸原は静かに告げた。
「親父が、大道の協力者だろ」
「何を言って……」
「親父じゃないとできないだろ。救急車や病室の手配、それに周囲への口止めも」
それに、と糸原は続けた。
「対馬教授の実験日誌を読んだんだ」
そう言って正晴を見る。彼の顔が引きつるのがわかった。
「親父の名前があった」
「全部お見通しか」と正晴は観念したように笑った。
「MA1ウィルスのこと、知ってたんだろ」
ああ、と正晴は頷いた。
「お前の母親が亡くなったあと、対馬から話を聞いた。──病気を直すことのできるウィルスがある、と」
正晴は昔を思い出すように遠くをみつめた。
「実際、そのウィルスの効果を目の当たりにして、一気に虜になった。これがあれば、病気に苦しむ人を救えるのではないか。……お前の母親も救えたのではないか、と」
その言葉に、糸原は目を見開いた。
「……親父が母さんのことを気にしていた?」
糸原にはとても意外だった。
母が亡くなってすぐに糸原を祖母に預けたくらいだ。愛人でもいて、自分が邪魔になったのだと思っていた。
「こう見えて、私は枝美子にベタ惚れでね」
ハハッと照れ臭そうに笑った。
「お前をお義母さんに預けたのも、枝美子に似ているお前を見るのが辛かったからなんだ」
申し訳なさそうに言う。
「何度か一緒に暮らそうとは思ったんだが、ますますお前は枝美子に似てくる。二の足を踏んでいるうちに、お前は大人になって、父親を必要としなくなった」
正晴は眩しそうに糸原を見つめた。
「本当にすまなかった」と頭を下げた。
初めて聞く、父の本音に、少し距離が縮まった気がした。
「話が脱線したな」と正晴は小さく咳払いをした。
「それで、私はMA1ウィルスの研究を手伝うようになった。……しかし、七年前、あの火災が起きた」
「対馬教授の研究室の火災……」
「大道くんは、その時、対馬から連絡を受けたらしい」
「連絡?」
「死の直前、対馬は大道に『失敗だ』と、告げたそうだ」
「失敗?」
「ああ。何が失敗なのかは、資料が残ってなかったので分からなかった。それで、大道は、MA1ウィルスの見直しを行い、今回の症状に気がついた」
「二次感染者の発症か……」
ああ、と正晴は頷いた。
「お前が、由佳さんとの結婚報告に来たのは、その症状が分かってからだった」
「だから、反対したのか」
そうだ、と正晴は頷いた。
「由佳さんと結婚すれば、必ず、それは起こる。今まで苦労させてきたお前に、更に苦労をさせるのは忍びなかった」
そこまで言って、正晴は糸原を見つめた。フッと口元を緩め、しかし、と続けた。
「……それも杞憂だったようだ。お前は、もう子供じゃない。一人前の大人だ。親があれこれ言うべきじゃなかった」
正晴は晴れ晴れと笑った。
「まぁ、それにしても、お前は結局、あの子と結婚したんだな」
感慨深そうに、正晴が言った。
「あの子?」
「由佳さんだよ」
「?」
由佳と結婚すると言ったのだから、当たり前じゃないか。
糸原は正晴の真意を窺うようにジッと彼を見つめた。
「なんだ、気づいてなかったのか」
その様子に、正晴は可笑しそうに笑った。
「何がだよ?」
「お前、小学生のころ、由佳さんにプロポーズしたんだぞ」
「はあ? 俺が?」
糸原は驚いて正晴を見つめた。
「お前がお義母さんの家に引っ越すことになった時、由佳さんが一緒に行くって泣いてな。困ったお前は、『大きくなったら迎えに来るから』って約束したんだ」
正晴は懐かしそうに言った。
「それって……」
「ゆうちゃんだよ。由佳さんも小さかったから、自分の名前をきちんと言えなくて、『ゆうちゃん』って言ってたな」
「ゆうちゃん……」
その名前に、唐突に記憶が蘇った。泣き虫で意地っ張りの小さな女の子。妹みたいに、とても可愛いがっていた。
「由佳が……ゆうちゃん」
「なんだ、今更か。由佳さんはとっくに気づいていたぞ。お前には隠していたがな」
正晴は今度は豪快に笑った。その笑いが収まるのを待って、糸原は切り出した。
「親父、頼みがある」
*
帰宅すると、由佳は夕食の支度をしていた。
「お帰りなさい」と柔らかな声で由佳が言う。
「ただいま」と糸原はソファにリュックを下ろした。
「なんだか、すっかり寂しくなったな」
部屋の中を見渡して呟く。
昨日までは瑞樹がいたから、由佳と瑞樹の会話で家の中も賑やかだった。
そうね、とキッチンから移動してきた由佳は頷いた。
「……でも、瑞樹くんが薫さんと暮らせることになって、本当に良かった」
瑞樹がいなくなった寂しさよりも、彼の幸せそうな姿の方が、より嬉しいのだろう。
由佳は満面の笑顔を浮かべて言った。
そうだな、と糸原も笑い、ソファに腰掛けた。その隣に由佳も座る。
糸原は由佳の肩を優しく抱き寄せ、彼女の髪を撫でた。
「今日、親父に聞いたんだけどさ……」
「お義父さん?」
由佳が、驚いた顔で糸原を見上げた。
「晴人さんがお義父さんの話するの、珍しいわね」と大きな目を見開く。
ああ、と糸原は頷いた。
「今日、話してみて、わかったんだ」
「なに?」
由佳が好奇心に満ちた目を糸原に向ける。
「親子なんだな、ってこと」
なにそれ、と由佳が嬉しそうに笑った。
「……それで、親父から聞いて思い出したんだけど」
糸原は言いにくそうに、人差し指で頬を掻いた。
「俺さぁ……昔、由佳にプロポーズしたよね?」
「えっ?」
由佳の目がますます大きく見開かれる。顔を真っ赤ににして俯き、コクリと頷いた。
「俺、その子が由佳だって気づかなくて──大人になって、すごく綺麗になっていたから」
由佳はますます顔を赤くする。そんな彼女がすごく愛しく思え、糸原はギュッと優しく抱きしめた。由佳の温もりと柔らかさが心地よい。
「由佳と結婚できて良かった……」
これから起こる出来事を思うと不安になる。しかし、この温もりは絶対に守りたいと、糸原は心に決めたのだった。




