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満月に狂う君と  作者: 川端睦月
最後のピース

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59


 *


「久しぶりだな、晴人」


 院長室に通されると、椅子に腰掛けたまま、父の正晴(まさはる)が言った。


 父と会うのは、由佳との結婚報告以来だから、三年ぶりだろうか。


 少し白髪が増えたように思えた。


「お久しぶりです」


 糸原は他人行儀な挨拶を返す。正晴は苦笑した。


 糸原は父とは疎遠だ。


 幼い頃、母を亡くし、それ以来母方の祖母の家に預けられてから、ほとんど父と接することはなかった。

 だから、親子らしい会話をしろと言われても、対処に困る。


 更に、三年前、由佳との結婚を反対されてからは、ますます疎遠になった。


 まぁ、掛けてくれ、と正晴は応接セットのソファを指した。

 糸原は二人掛け用ソファの端に座った。その向かいの席に正晴が座る。


「お前から顔を見せにくるとは珍しいな」


 正晴が足を組みながら言った。


「報告と確認したいことがあったから」

「なんだ?」

「由佳が妊娠した」


 短く告げる。正晴は特に驚いた様子もなく、「それは、おめでとう」と言った。


「出産予定日はいつ頃なんだ?」

「四月」

「四月か。ちょうど桜が見頃だな」


 正晴は待ち遠しそうに目を細めた。


「親父でも嬉しいものなのか」


 正晴の反応が意外だった。


「あんなに、結婚を反対していたのに」


「それでも孫は嬉しいものさ」と正晴は笑った。


「……それで、確認したいことというのは?」


 糸原は少し間を置いてから、「親父、大道を知っているだろ」と尋ねた。


「大道……」


 そう呟いて、正晴は宙へと視線を泳がせた。


「ああ、最近逮捕された、研究医の……」


 視線を糸原に戻し答える。


「とぼけるのは、やめてくれ」


 糸原は静かに告げた。


「親父が、大道の協力者だろ」

「何を言って……」

「親父じゃないとできないだろ。救急車や病室の手配、それに周囲への口止めも」


 それに、と糸原は続けた。


「対馬教授の実験日誌を読んだんだ」


 そう言って正晴を見る。彼の顔が引きつるのがわかった。


「親父の名前があった」


「全部お見通しか」と正晴は観念したように笑った。


「MA1ウィルスのこと、知ってたんだろ」


 ああ、と正晴は頷いた。


「お前の母親が亡くなったあと、対馬から話を聞いた。──病気を直すことのできるウィルスがある、と」


 正晴は昔を思い出すように遠くをみつめた。


「実際、そのウィルスの効果を目の当たりにして、一気に虜になった。これがあれば、病気に苦しむ人を救えるのではないか。……お前の母親も救えたのではないか、と」


 その言葉に、糸原は目を見開いた。


「……親父が母さんのことを気にしていた?」


 糸原にはとても意外だった。


 母が亡くなってすぐに糸原を祖母に預けたくらいだ。愛人でもいて、自分が邪魔になったのだと思っていた。



「こう見えて、私は枝美子にベタ惚れでね」


 ハハッと照れ臭そうに笑った。


「お前をお義母さんに預けたのも、枝美子に似ているお前を見るのが辛かったからなんだ」


 申し訳なさそうに言う。


「何度か一緒に暮らそうとは思ったんだが、ますますお前は枝美子に似てくる。二の足を踏んでいるうちに、お前は大人になって、父親を必要としなくなった」


 正晴は眩しそうに糸原を見つめた。


「本当にすまなかった」と頭を下げた。


 初めて聞く、父の本音に、少し距離が縮まった気がした。


「話が脱線したな」と正晴は小さく咳払いをした。


「それで、私はMA1ウィルスの研究を手伝うようになった。……しかし、七年前、あの火災が起きた」


「対馬教授の研究室の火災……」

「大道くんは、その時、対馬から連絡を受けたらしい」

「連絡?」


「死の直前、対馬は大道に『失敗だ』と、告げたそうだ」

「失敗?」

「ああ。何が失敗なのかは、資料が残ってなかったので分からなかった。それで、大道は、MA1ウィルスの見直しを行い、今回の症状に気がついた」

「二次感染者の発症か……」


 ああ、と正晴は頷いた。


「お前が、由佳さんとの結婚報告に来たのは、その症状が分かってからだった」

「だから、反対したのか」


 そうだ、と正晴は頷いた。


「由佳さんと結婚すれば、必ず、それは起こる。今まで苦労させてきたお前に、更に苦労をさせるのは忍びなかった」


 そこまで言って、正晴は糸原を見つめた。フッと口元を緩め、しかし、と続けた。


「……それも杞憂だったようだ。お前は、もう子供じゃない。一人前の大人だ。親があれこれ言うべきじゃなかった」


 正晴は晴れ晴れと笑った。



「まぁ、それにしても、お前は結局、あの子と結婚したんだな」


 感慨深そうに、正晴が言った。


「あの子?」

「由佳さんだよ」

「?」


 由佳と結婚すると言ったのだから、当たり前じゃないか。


 糸原は正晴の真意を窺うようにジッと彼を見つめた。


「なんだ、気づいてなかったのか」


 その様子に、正晴は可笑しそうに笑った。


「何がだよ?」

「お前、小学生のころ、由佳さんにプロポーズしたんだぞ」

「はあ? 俺が?」


 糸原は驚いて正晴を見つめた。


「お前がお義母さんの家に引っ越すことになった時、由佳さんが一緒に行くって泣いてな。困ったお前は、『大きくなったら迎えに来るから』って約束したんだ」


 正晴は懐かしそうに言った。


「それって……」

「ゆうちゃんだよ。由佳さんも小さかったから、自分の名前をきちんと言えなくて、『ゆうちゃん』って言ってたな」

「ゆうちゃん……」


 その名前に、唐突に記憶が蘇った。泣き虫で意地っ張りの小さな女の子。妹みたいに、とても可愛いがっていた。


「由佳が……ゆうちゃん」

「なんだ、今更か。由佳さんはとっくに気づいていたぞ。お前には隠していたがな」


 正晴は今度は豪快に笑った。その笑いが収まるのを待って、糸原は切り出した。




「親父、頼みがある」



 *


 帰宅すると、由佳は夕食の支度をしていた。


「お帰りなさい」と柔らかな声で由佳が言う。


「ただいま」と糸原はソファにリュックを下ろした。


「なんだか、すっかり寂しくなったな」


 部屋の中を見渡して呟く。

 昨日までは瑞樹がいたから、由佳と瑞樹の会話で家の中も賑やかだった。


 そうね、とキッチンから移動してきた由佳は頷いた。


「……でも、瑞樹くんが薫さんと暮らせることになって、本当に良かった」


 瑞樹がいなくなった寂しさよりも、彼の幸せそうな姿の方が、より嬉しいのだろう。

 由佳は満面の笑顔を浮かべて言った。


 そうだな、と糸原も笑い、ソファに腰掛けた。その隣に由佳も座る。


 糸原は由佳の肩を優しく抱き寄せ、彼女の髪を撫でた。


「今日、親父に聞いたんだけどさ……」

「お義父さん?」


 由佳が、驚いた顔で糸原を見上げた。


「晴人さんがお義父さんの話するの、珍しいわね」と大きな目を見開く。


 ああ、と糸原は頷いた。


「今日、話してみて、わかったんだ」

「なに?」


 由佳が好奇心に満ちた目を糸原に向ける。


「親子なんだな、ってこと」


 なにそれ、と由佳が嬉しそうに笑った。


「……それで、親父から聞いて思い出したんだけど」


 糸原は言いにくそうに、人差し指で頬を掻いた。


「俺さぁ……昔、由佳にプロポーズしたよね?」

「えっ?」


 由佳の目がますます大きく見開かれる。顔を真っ赤ににして俯き、コクリと頷いた。


「俺、その子が由佳だって気づかなくて──大人になって、すごく綺麗になっていたから」


 由佳はますます顔を赤くする。そんな彼女がすごく愛しく思え、糸原はギュッと優しく抱きしめた。由佳の温もりと柔らかさが心地よい。


「由佳と結婚できて良かった……」


 これから起こる出来事を思うと不安になる。しかし、この温もりは絶対に守りたいと、糸原は心に決めたのだった。


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