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「お前の気持ちも考えずに悪かった」
糸原は謝辞を述べた。
「それなら……」とニノ方が言葉を継ぐのを遮って糸原は首を振った。
「だが、当直は変わる。不安定な気持ちのままで業務を行い、大事があってはそれこそ意味がない」
ニノ方は何か言い返そうとして口を開く。しかし、何も思い浮かばなかったようで「わかりました」とうな垂れた。
「俺はこれから小児病棟に向かう。お前も気をつけて帰れ」
糸原はコーヒーを一気に飲み干し、椅子から立ち上がった。
「……僕はここで部長を待ってます」
ニノ方は身体から根でも生えたように、その場を動こうとしない。糸原は小さく息を吐いた。
「わかった、無理をするな。何かあったら、小児病棟まで連絡をくれ」
それじゃと、糸原は背を向けたが、「あっ」というニノ方の声が引き留める。
「なんだ?」
振り返ると、ニノ方が焦った顔で糸原を凝視していた。
「すみません、部長のことで頭がいっぱいで、伝え忘れていました」
早口で言う。
「なにを?」
「あの、救急車に息子さんが乗ってきてました」
「息子?」
「はい、小学生くらいの男の子……」
「小学生……ってことは、瑞樹くんか」
「瑞樹くんって言うんですか?」
「小学生ならそうだ。上の子は、中学生で廉くんだ。で、今はどこに?」
「小児病棟です」
「小児病棟?」
「はい。一緒に運ばれてきたので、一応診察を受けたのですが、特に外傷はないとのことでして。……ただ、かなり興奮していたので、鎮静剤を投与し、一時的に小児病棟に入院させて様子を見ることにしたんです」
子どもに鎮静剤とは、よほどの状態だったのだろう。
糸原は、瑞樹の心情を思った。もしかしたら、いや、おそらく、部長が今の状況に至る経緯を彼は知っているのだろう。
それは、子供心にも相当ショッキングな出来事であった筈だ。
「……同乗者は瑞樹くんだけだったのか?」
「はい」
「奥さんと廉くんは?」
「奥さんは西城大学病院の方へ運ばれたと聞きました。廉くんのことは分かりません……」
「ということは、重傷者というのが、奥さんか……」
「はい、おそらくは」
「瑞樹くんも心細いだろうな……」
「……そうですね」
まだ、事の全貌を把握するには、情報が足りないが、少しずつ点と点が繋がりを見せる。
更に詳細を知るには、瑞樹くんに尋ねるのが一番なのだろうが……。
それは、非常に酷な事に思える。
「わかった。俺は小児病棟に着いたら、瑞樹くんの様子を確認してみる」
「お願いします」と、ニノ方は頭を下げた。
「僕は、部長の方に付き添ってます。何かあったら、すぐ連絡しますね」
「ああ、よろしく頼む」
そう言って、リュックを右肩で背負い、今度こそ糸原はエレベーターホールへと早足で向かった。
インジケーターの上ボタンを押すと、エレベーターのドアはすぐに開いた。
躊躇なく乗り込み、六階のボタンを押す。しばらくの間があってドアが閉まり、エレベーターは動き出した。
糸原は壁に凭れかかって、空を眺めた。今夜起きたことを整理するためだ。
まず、笹本家に起きた悲劇を考える。
何が起こったのかは分からないが、部長は亡くなった。また、奥さんの薫さんも重傷を負い、大学病院に搬送された。
そして、瑞樹くんは手のつけられない興奮状態で鎮静剤を投与され、入院。もう一人の息子・廉くんは行方知れず。一家離散の状態だ。
一体、なにがあったのか──。
色々と考えを巡らせるが、どれも想像の域を出ない。やはり、瑞樹くんから直接訊くしかなさそうだ。
それとあの赤い目の人間──。
思考は、マンションの駐車場で会った赤い目の人間に及ぶ。
目だけが赤く光る人間。それ以外は、通常の人と変わらない。
──病気か? それとも体質なのか?
だが、そういう病気の症例を糸原は聞いたことがない。自分が知らないだけの可能性もあるが……。
もしや、人間とは別のものなのか?
「……っい……さ……」
不意に、あれが発した言葉が蘇った。何かを訴えるような苦しげな声。
──やはり、あれは人間にしか思えない……。
そう結論付けたところで、到着を告げる電子音が鳴った。
糸原は、まずナースステーションに向かった。カウンター越しに、顔馴染みの看護師が作業台で何かの薬の準備をしているのが見えた。ちょうどこちらに背を向ける形になっているので、糸原に気付く気配はない。
糸原は、入り口に回り込み、開きっぱなしになっているドアを軽くノックした。途端に、その看護師が目を向ける。
「あれっ、糸原先生」
驚いた顔で、看護師の鳴海が言った。ショートヘアの似合う二十代後半のハキハキとした女性だ。小児病棟では、そこそこの古株である。
「こんな時間にどうしたんですか?」
「いや、ニノ方と当直を変わった。病棟の方で何か問題はなかったか?」
「今のところ、平穏そのものです」
「そうか」
「当直を変わったってことは、ニノ方先生の具合でも?」
「そうだな……ニノ方から、部長のことは聞いたか?」
「ええ」と鳴海は頷いた。表情が暗くなる。
「笹本先生が救急車で運ばれたって聞きました。その後、息子さんが入院することになったて、ニノ方先生が付き添ってきましたけど。その後ことは、分かりません」
「そうか」
まだ、部長が亡くなったことは伝わっていないらしい。
糸原はそのことを告げるべきか迷ったが、いずれ分かることだ。
「笹本部長は、つい先ほど亡くなった」
動揺させないように、なるべく感情を抑えて言った。
しかし、伝え方を工夫したくらいでは、その衝撃が柔らぐはずもない。鳴海は目を見開き、「本当ですか?」と聞き返した。
「ああ、本当だ」と糸原が答えると、「……残念です」と俯いた。
鳴海は指で密かに涙を拭った。中堅どころだけあって、ニノ方のように取り乱すことはないが、静かな悲しみは伝わってくる。
鳴海は近くのティッシュケースに手を伸ばし、何枚か纏めて取ると、勢いよく鼻をかんだ。
「すみません、少しアレルギー気味で」
それをゴミ箱にポイっと捨てると、いつもと変わらぬ元気のいい笑顔で言った。
「いや……」と、糸原はそんな鳴海を眩しく見つめた。
やはり、長い看護師生活の中で、人の生死には何度となく立ち会ってきた経験があるからだろう。その対処方法は心得ている。
「ところで、今、瑞樹くんはどうしている?」
糸原の質問に、鳴海はキョトンとした。
「瑞樹くん? ……ああ、部長の息子さんのことですね。瑞樹くんっていうんですね」と独り言のように呟きながら、電子カルテを開く。
「瑞樹くん、保険証も何も持っていなくて、名前も分からなかったんです。──糸原先生、ありがとうございます」
鳴海はチラリと糸原を一瞥し、礼を述べた。
鳴海の言葉から、現場が相当混乱していたことが窺える。
「えっと、瑞樹くんはナースステーション隣の個室、六〇一号室に入院してます。鎮静剤を投与してるので、まだ眠っているかと」
「ありがとう。少し様子を見てくる」
糸原はそう言って、六〇一号室に向かった。