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「笹本さんっ」
大道は叫んだ。その声に、廉は燃えるような赤い目を向ける。
ニヤリ、と廉の口が歪む。どうやら次の標的は、自分のようだ。ゴクリと唾を飲み込んだ。
廉はゆっくりとソファから立ち上がり、腕に結ばれた駆血帯を引きちぎった。
次の瞬間、床を蹴った。
一直線に大道に飛びかかってくる。その腕が、自分に伸びるのを見て、大道は両腕で胸を覆い、目を閉じた。
「廉っ」
薫の声と鈍い音が交錯した。次いで、床に何かが倒れる音がする。
大道はうっすらと、目を開けた。
「薫さんっ」
薫の左肩の辺りにえぐられたような傷がある。
──なんてことだ。自分を庇ったのか。
大道は、薫の横に跪いた。傷口を抑える。
「……お、かあさん」
不意に、廉が言葉を発した。廉は明らかに、動揺していた。
薫に近づき、大道の向かいに跪くと、自らの胸を突く。
「なっ……」
突然の行動に、大道は目を疑った。しかし、すぐにその行動の意味を知ることになる。
──もしや……
薫にウィルスを感染させるようとしている?
血がだくだくと溢れ、薫へと滴り落ちる。
呆然としている大道をよそに、廉は薫を抱き起した。
「おかあ、さん」
顔を撫でる。しかし、反応はない。
廉が雄叫びを上げた。振動で、ガラスが割れた。
薫を静かに床に下ろすと、廉は外へと飛び出した。
*
「それが、あの夜の出来事……」
糸原は呆然と呟いた。
「部長を殺したのは、廉だった……」
予想はしていたが、いざ聞かされると、その事実に愕然とする。
暴走してたとはいえ、廉は自分の父親を殺めていた──
由佳に暴力を振るったことでさえ、心を痛めていたのに、それが自分の父親を殺めたとなると。
廉の胸中はどれほどの後悔があるのだろうと、やるせなくなった。
「それじゃあ、心臓は?」
ふと思い至って、大道に尋ねる。
「心臓は、俺が摘出した。試薬の効果を確認したかったからな」
悪びれた様子もなく、大道は答えた。
「お前っ……」
再び怒りが込み上げてきて、声を荒げた。
大道は動じることなく、「笹本さんからの依頼だ」と静かに告げた。
「部長から?」
「自分が亡くなったら、研究に使ってほしいと、遺言だ」
「遺言……」
「だから、遠慮なく使わせてもらった。実際、実物を見て、得るものは大きかったよ」と大道は目を伏せた。
「だが、あの試薬を使ってなかったら、笹本さんは、今も生きていたかもしれない」
ここに来て、大道はようやく人間らしい表情を見せた。
激しい後悔の念が身体中から滲み出ているように思えた。
「そのあとのことは、お前も知ってのとおりだ」
「連続拉致変死事件……」
そうだ、と大道は頷いた。
「やはり、あれは、大道さんの指示で行われていたのですね」
葛西が言った。
「ああ、俺が廉に指示を出し、子供たちを拐わせた」
「……そのことですが」
葛西は首を傾げた。
「廉くんは暴走していて、とても話が通じる状態ではないですよね。どうやって指示を出していたのでしょう?」
糸原もそれは疑問だった。人が変わったように暴力を振るう廉を、どうやって操ったのか。
「MA1ウィルスの発症者は、極度に母親を守ろうとする」
「母親を?」
ああ、と大道は頷いた。
「MA1ウィルスに限らず、生き物の大部分の目的は、子孫を残すことだ」
それがどう関係あるのか。糸原は、じっと大道の話に耳を傾けた。
「母親とは命の源だ。自分を産み、育て、今後も仲間を増やしてくれる存在──だからなんだろう。MA1ウィルスは、母親を守り、指示には従う性質がある」
「では、指示を出していたのは、薫さんなのでしょうか」
葛西が尋ねた。
いや、と大道は首を振った。
「俺が指示を出した。薫さんを人質に取り、廉を操った」
そうなのですか、と言った葛西は不服そうだ。
「それで、薫さんはどこにいるのでしょう?」
「西城大学病院……」
「西城大学病院、ですか?」
葛西はキョトンとして、大道を見つめた。
あれほど手を尽くして探したのに、葛西たちは薫を見つけることはできなかった。
「知り合いに頼んで入院させてもらった。俺の叔母さんということにしてな」
なるほど、と葛西は頷いた。
「では、子供たちのことを聞かせてください」
葛西が問いただす。
「なぜ、子供たちを殺害したのでしょう?」
大道の顔が強張った。
「……俺は、救いたかっただけだ」
大道は独りごち、目を伏せた。
「──だが、一次感染者と二次感染者では反応が違った」
がっくりと肩を落とした大道は、疲れきった顔をしていた。
「反応を見るだけでしたら、三人も必要なかったのではないでしょうか」
「確かにな」と大道は同意した。
「では、なぜ?」
そうだな、と大道は宙を睨んだ。
「このままだと、子供たちは廉と同じ道を辿る。いずれ必ず、誰かを殺す。そう思ったとき、野放しにしておくわけにはいかない、と思った」
「だから、殺したと」
「そうだ」と大道は声を荒げた。
「瑞樹だって、今に、ああなるぞ」
大道は、廉を顎でしゃくった。苦しげに顔を歪めている廉は、もう指の一本も動かす力も残っていないようだった。
「……鎮痛剤を打ってやれ。これ以上、苦しめる必要はない。楽にしてやってくれ」
そう言って、大道は机の上を指差した。
机の上には、注射器と薬が置かれていた。鎮痛剤だ。
糸原は注射器を手にすると、廉の側に近寄った。
「……っい……さ……」
力なく、廉が名前を呼んだ。つい先日のマンション駐車場での出来事が蘇る。
あの時、廉と気づいていたら。廉を助けてやれていたら──
こんな結果にはならなかったかもしれない。
「ごめん、廉くん。……俺、君を助けられなかった」
深い後悔の念が押し寄せた。廉の指がわずかに動き、糸原の手に触れる。
糸原は廉を見つめた。
「あ、りが、とう……」
廉は微かに笑った。




